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○●Я親鸞仏教質問箱R(その8)●○

1 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/10(木) 12:59:03.32 ID:oe8b5UDB
前スレ
○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265781799/
 が500kを超えて書き込み不能になったので、新スレを立てます。

 親鸞の考え方は、仏教全体の考え方でかなり特異です。
 親鸞仏教の考え方に対する質問を書き込んで下さい。回答できそうなものからできるだけ分か
りやすく、試行的に答えてみたいと思います。
 渡海難は、一介のアマチュアです。時間の許す範囲で、自己の独自の仮説的立場から答えさ
せていただきたいと思います。2ちゃんねるには、本派、大谷派の坊さんも常駐しています。教派的
な回答は、おそらくそういう方々から、積極的に寄せて頂けると思います。
 なお、渡海難のカキコは、かなり不連続、不定期になるかもしれません。それでも、私宛の質問
は、遅くなってもできるだけ答えさせて頂きたいと思います。
 宗派が決めた儀式、慣習関係の質問はご遠慮下さい。ここは、あくまで教義に関する質問に限
定したいと思います。

 地球は丸いのに、極楽浄土はどうして西にあるのか。阿弥陀仏は天の神様か。極楽浄土には、
どうして菩提樹があるの?。極楽浄土には門があるが、塀が無いというのは、本当か。死んだら
極楽浄土に行って仏になるって、本当か。念仏だけでどうして仏になるのか。お釈迦様の悟りって
何。お釈迦様は2回悟っている?。念仏はどうしたら称えられるようになるのか。「南無阿弥陀仏」
は嫌だから、「いろはにほへと」と念仏しら地獄に墜ちるか。親鸞は本当に極楽浄土に行ったのか。
極楽って何?。地獄って何?。阿修羅って何?。死んで地獄に行きたいとは思わないが、極楽浄
土に行きたいとも思わないんだが、それじゃいかんのかね?。

 今更聞けない真面目な質問、簡単な質問に可能な範囲で回答していきたいと思います。本派、
大谷派のお坊さんも、回答者として積極的にご参加ください。

2 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/10(木) 13:02:48.99 ID:oe8b5UDB
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265781799/615

 親鸞の時代、念仏道場はどんな雰囲気だったか。

 「佛閣にあらずといへどもこの所にをひて佛像を安じ、その體を言ふに、人屋たりといへども
この所にをひて念佛を勤行す。念佛の中には衆悪を遠離して衆善に親近し、世間舎をいでて出世
間舎に住する功力を備へたり。かるがゆへに念佛を行ずる所は道場なり」。
 普通に言えば、凡そ寺院とは言えないような場所、例えば普通の民家でも、仏像を設置し、そ
の場所で合同で念仏を称えれば、全て道場であるという。自ずから様々な悪を離れ、善に近づく。
そこには非仏道界から仏道界に転入する力が備わっている。存覚はそのようにいう。

 念仏道場はどのような飾りがあったか。存覚は弁述名体抄で次のように言う。「高?親鸞聖人
御在生のとき、末代の門弟等、安置のために定め置かる、本尊あまたあり、いはゆる六字の名号、
不可思議光如來、无?光佛等なり。 〜 この外、あるひは天竺・晨旦の高?、あるひは吾朝血
脈の先コ等の眞影を表はされたり」。
 存覚の時代には、後世の門弟のために親鸞の時代から大事に設置されてきていた本尊がたくさ
んあった。それは文字本尊であり、六字の名号、不可思議光如來、无?光佛等と書かれている。
インド、支那、日本の高僧達の絵図もあった。これらはどのように設置するのか。存覚は詳しく
説明している。

 文字本尊の「不可思議光如來を中(央)に据え奉り」、「(南无阿彌陀佛)の名号は正しき右に
据え奉」り、「无?光(如来)は〜左に安ぜらる」とする。「つぎに(阿弥陀仏と釈尊の)二尊
の形像をもて(文字名号の)前に安ぜられたり。まづ彌陀の形像は、『觀經』の像觀の心なり。
かの『經』に十三定善をとくなかに、第八の觀は像觀なり、これ形像なり」。〜「つぎに釋迦の
形像を載せらる」。
 阿弥陀如来と釈迦仏の像を設置する。阿弥陀如来は観無量寿経の第八の観を使う。第八の觀は
座像である。鎌倉の大仏、あるいは宇治平等院の阿弥陀像である。立像つまり来迎像は念仏道場で
は使わない。釈迦像は、阿弥陀像と対で設置するから、当然、座像を使用することになる。

3 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/10(木) 13:07:44.45 ID:oe8b5UDB
 以下、絵像を設置する。「三菩薩のなかに、勢至は 〜 中尊とす、龍樹天親は 〜 出世の
前後により、地位の高下につきて、左右に居したまへり。 〜 勢至は 〜 菩薩のかたちに圖
せらる。龍樹・天親は 〜 菩薩の形ならんこと相違あるべからざる」。
 勢至菩薩を中央、龍樹菩薩を右、天親菩薩左に配置する。勢至菩薩は無論だが、龍樹・天親菩
薩も菩薩像として配置する。菩薩像とは、蓮の華の上で結跏趺坐している姿で描くことになる。

 絵像はさらに続く。菩提流支・曇鸞和尚・道綽禪師・善導和尚・懐感禪師・少康法師・法照禪
師である。さらに、聖コ太子・惠心・源空聖人・親鸞聖人・信空聖人・聖覺法印を並べるのであ
る。
 弁述名体抄では親鸞聖人の絵像を掲げるということから、親鸞の思想というより、存覚の解釈
が前面に出ていると考えて良いと思うが、親鸞の時代の念仏道場の考え方が非常に強く残ってい
た時代の思想であることは間違い無い。
 ここで重要な点は、真宗の七高僧の思想が全く現れてないということ。阿弥陀仏の脇士である
勢至菩薩が登場しているのに、観音菩薩が出てこないということ。この二点が注目点である。七
高僧については触れない。親鸞思想の中での観音菩薩の位置についてさらに考えて見たい。


>>2で、「高」?は「高祖」という字の旧字を使っています。 「无?」は「无碍」と言う字の旧字を使っ
ています。

4 :神も仏も名無しさん:2013/10/10(木) 19:27:32.77 ID:/3DNiGMX
イヨッ! クニガミエタ!

5 :神も仏も名無しさん:2013/10/11(金) 14:07:15.74 ID:K9DFDpuv
一 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条もつてのほかのことに候ふ。
 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、
四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は
他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華
を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・慧解ともになしと
いへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、
煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、
一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひ
とは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候
ふにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。『和讃』(高僧和讃・七七)にいはく、
「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」
と候ふは、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず、
しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。
あはれに候ふをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ
候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。


☆親鸞肉声のを今に伝える一級資料

要点
「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ
候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。

6 :神も仏も名無しさん:2013/10/11(金) 16:03:45.72 ID:H/hceHAJ
>>5  >親鸞肉声のを今に伝える一級資料
歎異先師口伝之真信
くでん【口伝】
1 言葉で伝えること。くちづたえ。 2 師が、学問や技芸の奥義などを弟子に口で伝えて教え授けること。
また、その教え。口授(くじゅ)。口訣(くけつ)。 3 奥義を伝えた文書や書物。秘伝書。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/%e5%8f%a3%e4%bc%9d/m0u/

ひでん【秘伝】
秘密にして、特別の人にだけ伝授すること。また、その事柄。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/185747/m0u/%E7%A7%98%E4%BC%9D/

外見あるべからず。   外見
2 他人に見せること。また、他人に見られること。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E5%A4%96%E8%A6%8B/m0u/

於無宿善機、無左右不可許之者也。  宿善
前世で行ったよい行為。前世で積んだ善根。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/105145/m0u/%E5%AE%BF%E5%96%84/

そうなし【左右無し】
1 ためらわない。無造作である。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E5%B7%A6%E5%8F%B3/m0u/

  親鸞肉声のを今に伝える最大級資料 消息集
 もと、盗み心あらんものも、極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、思い直してこそ
あるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候。(消息集)
 浄土真宗の中に、悪人こそ救われるという主張がないわけではない。しかし、それは、一般の人、その中でも
とりわけ歪んだ心を反省しないような人にまで妄りに説いてよい教えではないわけです。

 歎異抄は浄土真宗の重要な文書である。決して妄りに人に見せてはいけない。公開範囲を限定すべきである。
奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、念仏道場を開ける実力が付き、これから念仏道場をひらくぞという人に、
念仏道場運営の「虎の巻」として許可すべきである。

7 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/11(金) 16:06:20.57 ID:H/hceHAJ
>>6
 渡海難がレスしました

8 :神も仏も名無しさん:2013/10/13(日) 07:28:32.23 ID:G6w3iXx+
>>6
>  浄土真宗の中に、悪人こそ救われるという主張がないわけではない。しかし、それは、一般の人、その中でも
> とりわけ歪んだ心を反省しないような人にまで妄りに説いてよい教えではないわけです。


まるで私が歪んだ心を反省しない人間と決め付けてるような意見ですね。
>
>  歎異抄は浄土真宗の重要な文書である。決して妄りに人に見せてはいけない。公開範囲を限定すべきである。
> 奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、念仏道場を開ける実力が付き、これから念仏道場をひらくぞという人に、
> 念仏道場運営の「虎の巻」として許可すべきである。


奢摩他毘婆舎那ができる人は世の中に何人ぐらいいますか?
あなたはできますか?
念佛道場の主催者は当然奢摩他毘婆舎那などはできるのでしょうね。
またできる人がいたとして浄土門とはそのような狭き門でしょうか?
誰のための浄土宗でしょうか?
そもそも浄土とは何か?

9 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/13(日) 11:39:24.98 ID:ZdNClU9W
>>8
>まるで私が歪んだ心を反省しない人間と決め付けてるような意見ですね。

「まるで私が歪んだ心を反省しない人間」
 何か貴方には身につまされる覚えでもあるのでしょうか?。僕には心当たりありませんが、
貴方には貴方にしか分からない身につまされる貴方の問題があっても、誰も不思議に思い
ません。
 文句があれば親鸞聖人に言ってください。親鸞聖人の墓に泥でも塗ってきますか。

>奢摩他毘婆舎那ができる人は世の中に何人ぐらいいますか?

 世の中に一人もいないなら、歎異抄は永久に封印すべきでしょう
 関東時代の親鸞聖人には多くのお弟子さんがいたはずです。その内、24人の名前が現代に
残っています。親鸞在世中に念仏道場を開いた人、又は親鸞聖人が開いた念仏道場を承継し
た人々です。金沢専光寺に伝わる三骨一廟の文書は念仏道場開設の認可状だったと思います。
彼等は当然、奢摩他・毘婆舎那ができるようになったと判断し、親鸞が道場の開設を許可した人
々だったでしょう。
 奢摩他毘婆舎那ができるようになっても、念仏道場を開かなかった人もたくさんいるでしょう。奢
摩他毘婆舎那ができるようになることは、決して難しいことではないはずです。

>浄土門とはそのような狭き門でしょうか?

 浄土門が狭き門ではありません。教師用の虎の巻を読める人は教師に限るという単純な話で
す。念仏道場を運営しないのであれば、念仏道場運営上のノウハウ書など読む必要はありませ
ん。歎異抄を読むことが許される人の範囲は絞られるということです。
 現代では、奢摩他毘婆舎那ができる人がいないというなら、公開を完全封印すべきでしょう。いま
さら封印が不可能であればどうするか。放置していいという問題では決してありません。本願寺は、
百年以上昔に、実に馬鹿な困ったことをしてしまったものです。いまさらどうしようもないという問題で
は済まないでしょう。

10 :神も仏も名無しさん:2013/10/14(月) 06:39:58.26 ID:YvtXcKEI
歎異抄を著した唯円は念佛道場の教師用に書いたのか、
そして著作を一般門徒は読むべからず秘匿ないしは秘蔵せよと考えていたのか、
よくよく原文を読んで意を知るように。

唯円からはるか後世の蓮如がどう言ったこう言ったという話ではない、
著作者唯円がどう考え書物を著したかを書物の中からよく考えてみよう。

11 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/14(月) 15:50:10.09 ID:g7ApGDF5
>>10
> 念佛道場の教師用に書いたのか、 〜 著作者唯円がどう考え書物を著したかを書物
の中からよく考えてみよう。

  (念仏道場での)一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、泣く泣く筆を
染めてこれを記す。名づけて歎異抄というべし。(許された教師以外の他人に妄りに見ら
れてしまうような)外見あるべからず。

                                  (著者)

12 :神も仏も名無しさん:2013/10/15(火) 08:21:44.05 ID:5hvrCW5x
>>11
> >>10
> > 念佛道場の教師用に書いたのか、 〜 著作者唯円がどう考え書物を著したかを書物
> の中からよく考えてみよう。
>
>   (念仏道場での)一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、泣く泣く筆を
> 染めてこれを記す。名づけて歎異抄というべし。(許された教師以外の他人に妄りに見ら
> れてしまうような)外見あるべからず。
>
>                                   (著者)


(許された教師以外の他人に妄りに見ら> れてしまうような)


以上は渡海さんの改ざんです本文にはかっこのなかのようなことは書かれていません。
外見あるべからずというのは念仏者以外の事を言うのです。

13 :神も仏も名無しさん:2013/10/15(火) 21:41:44.81 ID:s/mUa+IO
うっ…

14 :神も仏も名無しさん:2013/10/15(火) 23:39:24.72 ID:P6XyRIXN
どうして私は前世において、阿弥陀仏に救われなかったのでしょうか。

15 :神も仏も名無しさん:2013/10/16(水) 02:38:22.61 ID:KSlHYoSB
前世なんてないからだよ
真宗の価値観の中から応えるなら22願の成就とも言えるし法を聞く機会に出遇うのはとても難しいからとも言える

16 :神も仏も名無しさん:2013/10/16(水) 03:40:23.85 ID:KSlHYoSB
連投になって申し訳ないけど歎異抄の外見あるべからずは歎異抄が信仰告白の書であると理解せずに読むとただの破邪顕正になってしまうからだよ
換言するならば、自力無効の自覚、愚悪の凡夫とも思うことのできない、真宗を名聞利養勝他のために使う極悪人の自覚がなければ歎異抄は読めないということ
歎異している対象は唯円自身をも含んでるだよ

17 :神も仏も名無しさん:2013/10/16(水) 10:55:11.11 ID:CMeAKb6K
>>16
> 歎異している対象は唯円自身をも含んでるだよ

うーん、どうかな?
唯円自身が歎異してどうなるのだろう。
この場合はやはり自分以外の念仏者の中における理解の違いを
嘆いていると考えたほうがいい。

18 :神も仏も名無しさん:2013/10/16(水) 17:13:06.31 ID:KSlHYoSB
どの方面から述べているのか推測になってしまうから適切に応えられてないかもしれないけど
完全に意志や行動やあらゆる事柄が宿業に左右される愚悪の凡夫たる自覚を持っているならば正しさは主張でき得ないと思うよ
そうであるにもかかわらず自身の間違った価値観の内で他者を歎異するならばそれは必然的に自身を含まざるを得ないと思う俺はね

19 :神も仏も名無しさん:2013/10/16(水) 21:10:07.82 ID:KZr+l6dm
書店に並んでいる歎異抄を読むなと言っても無理だよ。
それより、すぐ手に入る本なのに、なぜ読んではいけないのか。
読んではいけない理由を言わないと傲慢なだけだろう。
 
読んでいい人、読んではいけない人はどこに一線を引くのだろうか。
それはどんな理由に基づくのだろうか。
誤解されそうなら、誤解されないように解説すればいいではないか。
多くの人が真理を知りたがってるのに、真理を隠そうとする意図は何か。
それとも歎異抄は真理ではないのか。

20 :神も仏も名無しさん:2013/10/16(水) 21:20:05.58 ID:KZr+l6dm
歎異抄を公開すべきでないという理由が、
 
真宗僧侶である、自分たちの特権を維持するためというなら
 
軽蔑するよ。

21 :神も仏も名無しさん:2013/10/16(水) 22:04:01.58 ID:YeLO48QQ
>>20
歎異抄を公開すべきでないとここ論陣を張ってるのは真宗僧侶ではないよ

22 :神も仏も名無しさん:2013/10/16(水) 22:18:09.92 ID:KZr+l6dm
>>21
それじゃ何のために言ってるのだろうか。
ますます謎だね。

23 :神も仏も名無しさん:2013/10/17(木) 08:33:04.59 ID:N8dBkxe/
>>18

> 完全に意志や行動やあらゆる事柄が宿業に左右される愚悪の凡夫たる自覚を持って
>いるならば正しさは主張でき得ないと思うよ

そこは難しいところですよね。
凡夫の自覚を持っているがゆゑに善悪の判断は難しい、ただ親鸞さんの教えその
ものの正否までがわからないと考えると何もいえなくなってしまう。

24 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/17(木) 10:11:07.39 ID:xK6mqWIe
>>22
>ますます謎だね。

 >> 6 に気づかない上での言葉でしょうか。>> 6を無視した上での言葉でしょうか。
>> 6が分かった上での発言でしょうか

 掲示板は、先行レスを読んだ上で書き込みたいものですね。

25 :神も仏も名無しさん:2013/10/17(木) 14:29:32.53 ID:ooQheWv2
>>20
歎異抄は公開すべきだよ
だから書店に並んでるんだし
ただ歎異抄に書いてあることではなく歎異抄自体を通して今ここにまで届く真の宗と言わざるを得ない如来回向の内実に気付くことを目的としなくちゃならないとは思うけどね

>>23
何も言えなくなればいいんだよ
それでも真の宗と言い切れるものが今あなたにまで届く如来回向の内実なんだから
何を選択するかだよ
真宗は親鸞の思想(回向表現)そのものを学ぶのではなくその思想を通して方法論(自分自身に届く回向表現とは何か)を学ぶんだと思うよ

26 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/17(木) 16:46:54.24 ID:xK6mqWIe
>>25
> 歎異抄は公開すべきだよ
> だから書店に並んでるんだし

 書店は売れると思うと並べる。売れないと思うと並べない。それだけの話だ。
 親鸞や蓮如の意見に現代人が同調する必要は無いというのは、その通りだが、

 おぬしは、親鸞・唯円・蓮如、少なくともこのお三方に対し、貴方の意見は間違っ
ていますよと、反論できる自信があるのか?

 少なくともこの三人が「悪苦しからず」という教えを非公開にしなければならないと
考えていたその理由を、述べてみろ。そして、それに反論してみろ。

27 :神も仏も名無しさん:2013/10/17(木) 17:19:52.84 ID:ooQheWv2
> 書店は売れると思うと並べる。売れないと思うと並べない。それだけの話だ。

その奥にある意味を見出さないといけないね

> 親鸞や蓮如の意見に現代人が同調する必要は無いというのは、その通りだが、

> おぬしは、親鸞・唯円・蓮如、少なくともこのお三方に対し、貴方の意見は間違っ
>ていますよと、反論できる自信があるのか?

間違っていないよ別に
回向の表現は人それぞれだからね
根元をたどれば同じことを言っているんだよ

> 少なくともこの三人が「悪苦しからず」という教えを非公開にしなければならないと
>考えていたその理由を、述べてみろ。そして、それに反論してみろ。

善人なおもてのところを指してるのかな?
具体的な場所を教えてもらえれば応えられると思うよ

28 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/17(木) 17:53:15.56 ID:xK6mqWIe
>>27
>善人なおもてのところを指してるのかな?
具体的な場所を教えてもらえれば応えられると思うよ

>>24,>>6
 掲示板は、先行レスを見てから書き込むことを常識としたいものだ。

 >>6に、特に解説が必要ですか?

29 :神も仏も名無しさん:2013/10/17(木) 19:37:27.85 ID:O2EvCkfq
タダイマ

30 :神も仏も名無しさん:2013/10/17(木) 19:56:23.90 ID:Sq9pB3Ez
>>6
>歎異抄は浄土真宗の重要な文書である。決して妄りに人に見せてはいけない。公開範囲を限定すべきである。
>奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、念仏道場を開ける実力が付き、これから念仏道場をひらくぞという人に、
>念仏道場運営の「虎の巻」として許可すべきである。
 
これは渡海さんの考えじゃないの? 
だとすれば渡海さんは、歎異抄はだれもが勝手に読んでいい、とは言ってないよね。
その理由を聞いているのだけど。そうやって傲慢に構えるのはなぜ?

31 :神も仏も名無しさん:2013/10/17(木) 20:28:35.50 ID:sgsd+1sV
>>28
ご消息は広本かな?善性本かな?
文脈の中から読みたいからできたら何の本に載ってるとかもうちょっと特定できるように詳しく教えてもらいたいな

まあぱっと見た感じでいいなら
親鸞の文章には同意できるよ
ただ

> 浄土真宗の中に、悪人こそ救われるという主張がないわけではない。しかし、それは、一般の人、その中でも
>とりわけ歪んだ心を反省しないような人にまで妄りに説いてよい教えではないわけです。

とは思わないし

> 歎異抄は浄土真宗の重要な文書である。決して妄りに人に見せてはいけない。公開範囲を限定すべきである。

とも思わないし

>奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、念仏道場を開ける実力が付き、これから念仏道場をひらくぞという人に、
>念仏道場運営の「虎の巻」として許可すべきである。

とも思わないけどね

この文章の核は宿業の表れ方の違う人間に対して自分の糞狭い価値観に立って一方的に裁くなってことだからね
あと当然この文章は親鸞自身を包んでいるよ

32 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/17(木) 21:00:11.58 ID:xK6mqWIe
 もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・
礼・智・信あることを知らんや。(信の巻)

仏教の内外の諸問題で、仁・義・礼・智・信を説くことこそが諸仏菩薩にとって極めて重要な
ことである。

 修多羅及び諸の戒律を除きて、その餘の説あり。四句之偈なり。いわゆる諸惡を作すことなし。
諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと。(大般涅槃経要門 親鸞真
筆 専修寺)

 悪いことをするな。良いこと行え。高い意識を持て。これこそがあらゆる哲人達の普遍的な教
えである。

 汝若し修せずしてすなわち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五
会念仏法事讃略抄 親鸞真筆 専修寺)

 もし貴方が、座禅も戒律も守らないで自分は仏になるんだと言えば、それは空腹の人物が風下
に立って吹いてくる風を腹にため込もうというような、実に愚かなことである。

 出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、
内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり(改邪抄 覚如)。   

 仏道では五戒を守れと言う。仏道で五戒と言っているものは、非仏道界で五常と称する仁・義
・礼・智・信のことである。つまり、五戒を守れと言っている文脈は、五常を守れと言う文脈で読み、
仁・義・礼・智・信を守り、その上で、心の奥には他力の教えを保持してほしい。これが、親鸞聖人
から伝わってきた教えである。

内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁義をもって本とすべし。(お文)

 心にはしっかりと他力の信心を蓄え、世間の仁義を守ることを基本とせよ。

33 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/17(木) 21:03:09.45 ID:xK6mqWIe
 王法は額にあてよ。仏法は内心に深く蓄えよ」との仰せに候う。仁義と云う事も、端々あるべ
きことなるよしに候う。(聞き書き)

 社会のルールを頭にしっかりたたき込み、仏法を心の中で抑えておく。仁義が大事だと言うこ
とを常に仰っていました。

 もと、盗み心あらんものも、極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、
思い直してこそあるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめある
べからず候。(消息集 広本)

 浄土真宗の中に、悪人こそ救われるという主張がないわけではない。しかし、それは、一般の
人、その中でもとりわけ歪んだ心を反省しないような人にまで妄りに説いてよい教えではないわ
けです。


他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず
他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり
罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえ
本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。

34 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/17(木) 21:06:44.29 ID:xK6mqWIe
 於無宿善機、無左右不可許之者也。(蓮如奥書)
  宿善
前世で行ったよい行為。前世で積んだ善根。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/105145/m0u/%E5%AE%BF%E5%96%84/
 そうなし【左右無し】
1 ためらわない。無造作である。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E5%B7%A6%E5%8F%B3/m0u/
 
 (歎異抄は)宿善のない人にまで無造作に見せてはならない (蓮如)

 歎異先師口伝之真信(唯円)
くでん【口伝】
1 言葉で伝えること。くちづたえ。 2 師が、学問や技芸の奥義などを弟子に口で伝えて教え授けること。
また、その教え。口授(くじゅ)。口訣(くけつ)。 3 奥義を伝えた文書や書物。秘伝書。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/%e5%8f%a3%e4%bc%9d/m0u/

ひでん【秘伝】
秘密にして、特別の人にだけ伝授すること。また、その事柄。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/185747/m0u/%E7%A7%98%E4%BC%9D/

 歎異抄は、親鸞先生から、秘密にして、特別の人にだけ伝授される口授(くじゅ)、口訣(くけ
つ)として秘伝された教えである。

外見あるべからず。(唯円)
外見
2 他人に見せること。また、他人に見られること。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E5%A4%96%E8%A6%8B/m0u/
 
 歎異抄は、関係者以外、他人に見せる書ではない。

 しばらく書き込み困難。2,3日休みます。

35 :神も仏も名無しさん:2013/10/17(木) 21:07:33.73 ID:sgsd+1sV
そんなに理論武装しなくても大丈夫だよ
自分自身の言葉で語ってみなよ
どんな言葉でも理解しようとするからさ

36 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/17(木) 21:24:07.00 ID:xK6mqWIe
 ただこの高僧の説を信ずべし (正信偈)

>>35
 気になるから、しばらく呼ばないでくれないか。

37 :神も仏も名無しさん:2013/10/18(金) 02:10:21.75 ID:2a6j+HCO
うんまあその言葉は還相をくぐって、化身土をくぐって如来回向に気付き真実教を選択して初めて意味を持つんだよね
間違いに立つ自覚を持って初めて意味があるんだよ

仁義を大切にするってのを否定してる訳じゃないんだよ
人間の自我意識じゃ19願20願からは逃れられないからね
ただ問題なのはそれを盾にとって事実としてあるどうしょうもない自分を守ることであり、剣にして他人を裁き斬り殺すことなんだよ
勿論そこからはどんなに反省しても逃れられない
だからこそ歎異ってのは自分自身を含まざるを得ない
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、こう劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしって法然が拠った善導も言ってるんだよ
親鸞はここに立って全てのことを言っているんだよ

38 :神も仏も名無しさん:2013/10/18(金) 05:09:35.99 ID:Lt+nP9KQ
もしかして、
自分は悪人だという自覚が親鸞にあったということか?

39 :神も仏も名無しさん:2013/10/18(金) 08:15:42.05 ID:5DjRM4n8
歎異抄にある
「外見あるべからず」というのは
@念仏者以外には見せても無駄と言う意味。
Aたんなる仏教の作法としてのことばで、これは法然さんも選択集において「壁底に埋めよ」
 と言うのと同じでこの書物で諍論するなと言う意味。

ぐらいに考えればよろしい

また歎異抄に唯円自身を含めるかと言うことについては
凡夫の自覚のある唯円さんだが著書には自信を持っているだから
自分自身を嘆いているわけではない。
凡夫ゆえに善悪の判断はできないが、親鸞の直接音声を聞き普段の生活を知っている
唯円は他の念仏者が間違った念佛をしているのに一言注意したかったと考える。
そのためになくなく歎異抄を書いた。そのように記している。

40 :神も仏も名無しさん:2013/10/18(金) 08:24:20.77 ID:5DjRM4n8
親鸞さんという人がどのような人であったか、それは
消息集、歎異抄を読めばわかる。
人を知った上で教行信証に進めば理解も早いように思う。

井上ひさしさんというのがどういう人物であったかは、本人が書いた
著作ではわからないその細君や子供の証言でわかる。
いくら楽しい小説を書いても平和運動の旗頭になっても
細君の顔がわからないぐらい殴りつけるようなDVであったと言うこと
を知れば彼の平和運動もむなしいであろう。

親鸞さんの思想は唯円の証言でわかる、寝食をともにした人の
証言は貴重だ。
教行信証などの余所行きの飾られた言葉より真実を伝えているように思う。

41 :神も仏も名無しさん:2013/10/18(金) 23:13:18.23 ID:gDL2nId1
>>38
悪人とも思えないしどこまでいっても善人にしか立てない極悪人の自覚があるよ
だからただ如来の回向に帰依せざるを得ない

>>40
まあどこまでいっても想像の域を出ないよね
俺はそう思わないってだけでどう承るかはその人の業によるからね
なぜ自分に信を持てない凡夫が自信を持てるのかが重要だろうね

あといのうえひさしの反戦運動はむなしくないと思うよ
痛みを知らないものの反戦運動よりとても悲嘆と尊厳に満ちていると思うよ

42 :神も仏も名無しさん:2013/10/20(日) 07:51:14.28 ID:/dzI8li4
不体失往生と言う場合は浄土は心の中のことを言うのだろうね、
そうとしか考えられない。
あるいは実際にこの世にPURE LANDというものを想定しているのかどうか。

43 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/20(日) 11:20:46.01 ID:iaQ6crbQ
 歎異抄を公開すべきではないという議論は、ひとまず出尽くしたと
考えます。

 この後は、この掲示板を見てくれている方が、それぞれお一人
お一人の思考の中で考えてください。

>>3の続きを2,3日後から書きたいと思う。  

44 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/20(日) 11:41:20.38 ID:iaQ6crbQ
>>42
 不体失往生論は重要な問題だ。
 この問題は、
  ↓
【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン72【御同行】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1379158458/321

 ここから開始し、ランボーの邪魔が入り、途中で切れてしまった。

【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン72【御同行】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1379158458/935

親鸞仏教質問箱で続けると宣言していますので、そのつもりでいます。
しかし、外の議論が始まってしまいました。

 不体失往生論は重要な問題ですので、必ず続けます。少し時間を
ください。

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265781799/614
天台止観を大衆に教えることこそが親鸞のライフワークだったと思います。

 親鸞のライフワークは何だったか。この議論が終われば、不体失往生論に移行しようと
思います。全て議論は密接に関連しています。

45 :神も仏も名無しさん:2013/10/20(日) 11:46:30.55 ID:qzGkLJDk
>>3
存覚の個人的なものがどれくらい反映されているかわからないですけど
「七高僧」の概念が出てこないとすれば興味深い。
教行信証も(ということはご和讃も)、はとにかく七高僧ですからね。
書簡では聖覚、隆寛のおすすめもありますが。

晩年の親鸞聖人は十字名号を御本尊にされていたと何かで読んだ記憶があります。
かなりシンプルなものを好まれたのではないかなあ。
もっとも、これは晩年の円熟がもたらしたものであって、
入門者にとって親切なものであるとは限らないですが。

存覚は諸神本懐集なんかを書いたりしてる人だから、察するに、
浄土教にあらわれた人物やら何やらを、とにかく綜合的なものことに興味があったのではないかなと思います。
祭壇の前で一望できるように全部を表現してやろうと。
いわば曼荼羅的な志向ですね。

46 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/20(日) 11:55:36.73 ID:iaQ6crbQ
>>42
>不体失往生と言う場合は浄土は心の中のことを言うのだろうね、

 「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」(信の巻)と言っているから、「心の
中のこと」というのは間違いだろうと思う。
 仏教の原点は善因善果・悪因悪果だから、これを合理的に思考した先にあ
ると言うべきだ。
 僕の考えを後で詳しく説明します。

>この世にPURE LANDというものを想定しているのかどうか。

 違うと思う。
 親鸞聖人という人は、非常に合理的な思考の人だから、学ぶ僕らも合理主
義を徹底すべきだ。親鸞聖人という人は、ものすごく大きなことを考えていると
思う。

47 :神も仏も名無しさん:2013/10/20(日) 16:18:42.35 ID:0DV5rtOg
>>42
不体失往生をどのように理解しているかがまず分からないからどうとも言えないけど難思議往生はこの身が受けるのであって人間の自我上には双樹林下往生と難思往生しかあり得ないよ
だから帰依ということが起こるんだからね

あとこのあらゆる不浄を許容する穢土こそが浄土だよ
人間の描く浄土は主観的かつ個別的で相対的である以上穢土でしかありえないからね
まあその本来的には穢土でしかあり得ない主観的浄土を選び取ることこそが重要なんだけども

48 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/20(日) 21:43:47.38 ID:iaQ6crbQ
>> 47さんは、「自我上には双樹林下往生と難思往生しかあり得ない」「あらゆ
る不浄を許容する穢土こそが浄土だ」「本来的には穢土でしかあり得ない主観
的浄土を選び取ることこそが重要」。このように心得たということでしょうか

 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。 〜 少し
も、心得たると思うことは、あるまじきことなりと、仰せられ候う(聞き書き)

 先人の真意は慎重に考えたいものですよね

49 :神も仏も名無しさん:2013/10/21(月) 08:01:17.49 ID:CIZLIeWs
不体失往生はそもそも
渡海が批判する大谷派の近代教学か石泉学から導きだされるものである。
どうしても臨終往生を否定するならか心の問題とするしかない。

50 :神も仏も名無しさん:2013/10/21(月) 08:06:27.22 ID:CIZLIeWs
また仏教の原点は善因善果、悪因悪果ではない
転迷開悟すなわち迷いから悟りへの転換が原点であろう。
悟りと言っても何も難しいことではない、真実を覩て迷いを断ち切ること
がゴータマの本意だろう。
ゴータマは平易な現地語でそれを語った、誰でもが理解できるはずである。
支那語への翻訳過程で支那文字を使うことで誰もが困惑する迷宮に入ったのである。

51 :神も仏も名無しさん:2013/10/21(月) 08:33:56.82 ID:CIZLIeWs
>>47
> あとこのあらゆる不浄を許容する穢土こそが浄土だよ
> 人間の描く浄土は主観的かつ個別的で相対的である以上穢土でしかありえないからね
> まあその本来的には穢土でしかあり得ない主観的浄土を選び取ることこそが重要なんだけども


なんだか難しいい方をしているけど、穢土=浄土つまり
現世で浄土を選び取るということですか。
それなら心の問題ですが・・・

52 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 09:12:13.90 ID:GVpdt/kp
 全体の話の流れは体失・不体失往生論の方向でしょうか?
 それなら、その流れに乗ろうと思います。

53 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:13:00.00 ID:GVpdt/kp
>>http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1379158458/233
「〜が浄土に行った」なんてどうやって証明するの?

>>http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1379158458/235
 証明は出来ない・・だろうね。浄土に限らず「死後なんらかの形で存在する」「死後の世界はある」
という事も"万人が認識できる"形では証明しようがないと思う。

 【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロン72【御同行】で出てきた疑問を原点とし、体失・不体失往生
論について渡海難が持論を主張しています。
 議論は終結していません。体失・不体失往生論について、アラシが激しくなって続けられなくなりま
した。このスレで改めて議論の叩き台として提出します。

54 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:15:18.98 ID:GVpdt/kp
321
>「〜が浄土に行った」なんてどうやって証明するの?

 今、柔道界にいるという人は少なくない。生まれながらに柔道界にいたという人はいない。今、柔
道界にいる人は、全て柔道界の外から柔道界に行った人だ。
 「彼等は柔道界に行ったなんて、どうやって証明するんだろうね?」「え?!。何言っているんだ?
見て分かんないのか?。(笑)」
 芸能界にいるという人は少なくない。生まれながらに芸能界にいたという人はいない。今、芸能界
にいる人は、全て芸能界の外から芸能界に行った人だ。
 「芸能界に行ったなんて、彼等はどうやって証明するんだろうね?」
 「え?!。何言っているんだ?見て分かんないのか。(笑)」

 極楽浄土とは何か。浄土に行ったという問題は、極楽浄土とは何かということから考える必要が
ある。
 親鸞の極楽浄土、大無量寿経の極楽浄土、阿弥陀経の極楽浄土、観無量寿経の極楽浄土、全
て概念が違うようだ。各経典にはそれぞれ著者がいる。経典の極楽浄土は、それぞれ経典の著者
の極楽浄土観をもって描かれている。大無量寿経の場合、梵文と漢文とでも違うようだ。梵文は梵
文著者の極楽浄土観、漢文は漢訳者の極楽浄土観をもっている。
 僕はそれぞれについていま説明している余裕はない。経典毎の極楽浄土の相違に関する議論は、
僕は説明することなく自分の墓の中に抱えたまま持ち込み、闇の中に葬ることになるんだろう。
 極楽浄土はそれぞれ異なる。いまここでは、親鸞の極楽浄土観に基づいて往生を説明すれば足
りるだろう。

 善信は、念仏往生の機は体失せずして往生をとぐという。 〜 善恵房の体失してこそ往生はとぐ
れと、たてらるるも、また、やがて、さぞと、おおせあり。(口伝抄)

55 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:17:39.83 ID:GVpdt/kp
322
 親鸞の思想の中に体失往生という発想がないわけではない。しかし、親鸞の往生を考えるなら、ま
ず不体失往生でその思想をしっかり固め、それを足場にして体失往生に話を拡大していくという順序
が分かりやすい。浄土真宗がほとんど葬式仏教化してしまった現代では、体失往生の議論は避けら
れない。その場合でも、少なくとも親鸞中心で考えるなら、不体失往生の議論を先に固めておかない
と、体失往生の議論はとんでもない勘違いに飛んでいく。不体失往生の議論から考えよう。これが基
点である

 1882年、嘉納冶五郎先生は東京にある永昌寺で「講道館」という看板を掲げた。これが現代の世
界柔道の原点だそうだ。
 柔道界に来ませんか。人々にこのように声を掛けると、声を掛けられた人は三通りの反応をする。
 第一のグループ「とんでもない。絶対に嫌だ。俺は死んでもあんなことはしたくない」。第二のグルー
プ「うーんどうしようかな。やってみようかな、止めておこうかな。うーん」。第三のグループ「もちろんだ。
是非やりたい。誘われなくても自分はやるよ」。この三通りである。

 念仏界に来ませんか。人々にこのように声を掛けると、声を掛けられた人は三通りの反応をする。
 第一のグループ「とんでもない。絶対に嫌だ。俺は死んでもあんなことはしたくない。勧められるの
は絶対に嫌だ」。第二のグループ「うーんどうしようかな。やってみようかな、止めておこうかな。うー
ん」。第三のグループ「もちろんだ。是非やりたい。誘われなくても自分はやるよ」。この三通りである。

56 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:20:15.35 ID:GVpdt/kp
323
 第一のグループを親鸞は邪定聚という。聚とは衆、集という意味だ。邪という字を使っていても特
に悪い意味はない。ようするに、念仏なんかしたくないというひとだ。浄土真宗のお坊さんには特に
念仏のこの邪定聚が多い。念仏をやろうというと「いやだ」という。
 第二のグループを親鸞は不定聚という。「当今の凡夫は、 〜 また不定聚と名づく(化身土)」。親
鸞に言わせれば、現代人のほとんどが、この不定聚だという。浄土真宗のお坊さん以外では、21世
紀でも多分通じる話だろう。浄土真宗のお坊さんには、この不定聚の人に仏法が弘まるのを邪魔し
たいと思っている人がいそうである。
 第三のグループを親鸞は正定聚という。昔も今も数は少ない。現代でこの正定聚がいないという原因
は、現代浄土真宗の存在がその妨害になっているという面がありそうだ。しかも、とりわけ妨害してい
る人に限って、本当は邪定聚のくせに自分は正定聚だと、誤解している人が、特に、浄土真宗の新興
宗教の教祖などにいる。

 柔道場に行くと、練習時間の内の非常に長い時間、道場の隅で小さくなっている人がいる。誘われ
てきたんだが、勝手が分からずどぎまぎしている人だ。決して柔道が強いというわけではないが、積
極的に練習に励んでいる人もいる。勝手が分からずどぎまぎしている人と、積極的に練習に励んでい
る人は、同じ柔道場にいても、住んでいる世界は違うはずである。

57 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:22:35.41 ID:GVpdt/kp
471
 柔道場にA君・B君という二人の仲良しが通うようになった。A君は半年前から通っており、いつも
生き生きと練習している。来年の昇段試験では初段を受けるという。一週間に2回の練習日を休む
ことがほとんどなく、道場に来ればほとんど動き回って練習している。B君はA君の友人だ。A君に誘
われて最近通うようになった。

 二人は、道場から一緒に揃って家に帰る。そんな折り、二人が交通事故に遭って大けがをした。
柔道場に警察から電話が入り、入院先の病院の名前が告げられた。C氏が病院に行く。C氏はベ
テランの柔道家で、柔道四段、国体の出場経験があり、オリンピックの代表選手候補にも名が上が
り、将来が有望視されている。病院では警察官が待っていた。

 眠った状態のA君を指さして警察官がC氏に聞く。
 「あなた方のお仲間ですね」
 「はいそうです。非常に可愛い仲間です。よく柔道の練習に来ています」。
 眠った状態のB君を指さしてC氏に聞く。
 「こちらの少年もあなた方のお仲間ですね」
 「う?!。はいはい!。うちの道場の登録会員です」

 C氏はB君を「仲間ですね」と聞かれ、一瞬息が詰まる。B君は、先週初めてやってきて、次の練
習会を休んでいる。今日は2回目である。道場に来て挨拶はしたが、その後はほとんど隅でずっ
と座り続け、受け身の練習さえうまくできなかった。A君はC氏にとって非常に可愛い仲間である。
しかし、B君は入会したばかりでまだ遠い存在なのである。それでは、嘉納冶五郎先生の目から
見た場合、A君、B君がどのように見えるだろうか。嘉納冶五郎先生から見た場合、A君とB君とは、
ほとんど差のないとても可愛い仲間に見えるだろう。

 C氏から、「もちろん仲間です」と言われるA君も実は、B君のような時期を通過し、その後にC氏
から「仲間だ」と思って貰えるような世界に転入している。浄土真宗親鸞聖人の極楽浄土もこういう
世界観と共通する。僕はそう思う。

58 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:24:54.65 ID:GVpdt/kp
522
 A君とB君は、柔道場にどのようにして参加しているか考えると、二人の違いが分かる。B君は柔
道場に入るとき挨拶をした(礼拝門)。B君は挨拶をして参加する。挨拶をして柔道場に参加してくる
者は、嘉納冶五郎先生から見ればみんな仲間である。嘉納冶五郎先生が創設した世界(極楽浄土)
にやってきた人々である。先生は、自らが創設した世界の中に差別を持ち込むことはなかった。嘉
納冶五郎先生から見て、A君とB君の間にいかなる差別もないということである。

 しかしいったい人は何をしに柔道場に来るかの。B君はA君に誘われたから柔道場に来たのであ
り、A君との友人関係を切りたくないから道場に来た。B君はまだ、柔道をしたいという気持ちは大き
くない(疑城胎宮)。しかし、考えて欲しい。柔道場の目的は何か。挨拶(礼拝)が目的ではないだろ
う。挨拶だけすればいいということではない。柔道場に来れば、やはりそこでは練習に参加して欲し
い。C氏ならそう思う。C氏から見れば、積極的に練習に参加してこないB君は、確かに柔道場に近
いところ(近門)にはきている。だから柔道場の隅(辺土)いるのだ(難思往生)。本物の稽古場(報
土)には来ていない。B君は仮に様子を見に来ている(仮土)。だから柔道場の本当の仲間ではまだ
ない。

 A君から見て見てB君は、誘えば柔道場に来るような人物だった(不定聚)。A君は、自分では柔道
を非常に面白いと思っている(讃嘆)。A君の中には、「柔道は凄い。面白い」と思う気持ちがわいて
きてきている。A君は誘われなくても自律的に自主的に練習に参加する(正定聚)。A君にとって柔道
は何が面白いのか。柔道をすること(行)が面白いのだ。我流ではなく、できるだけC先生の教えに忠
実に柔道をすることが楽しい。面白い。中学・高校生あたりが半年・一年程度練習をしても、まだまだ
強いとは言えないだろう。五年も十年も続けてきた人に比べれば、練習量は圧倒的に少ない。しかし、
C先生の教えを(教)できるだけ忠実に守って柔道をやると(行)、C先生のようにきっと強くなる。将来
きっと強くなる(証)。

59 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:27:17.70 ID:GVpdt/kp
523
A君には、この認識(教行証)を客体とし、その客体を感動を伴って喜ぶ(敬信)主体としての心(信楽
心)ができてきている。おそらく、できかかってきているという状況だろう。この認識は、C先生の認識
と同一のものだろう。C先生の教えを(教)できるだけ忠実に守って柔道をやると(行)、A君だってB君
だってC先生のようにきっと強くなる。将来きっと強くなる(証)。A君はC先生の認識を共感的共有的
に享受しつつある。
 A君はC先生と共通の認識界、C先生の柔道界に転入している(難思議往生)。C先生は同じ柔道
界の仲間(大会衆の数)としてA君を認識しつつある。柔道のベテランのC先生から見て、A君とB君
とは違いがある。A君は、柔道界の大会衆の数に入った。大会衆の数に入ったA君には、それまで
見えなかったものが視界に入ってくる(功徳大宝海)。先生に恵まれ、自分も来年の昇段試験を受け
てみよう。そんな目標ができてくる(功徳)。

 C氏とA君とは同じ世界だろうか。C氏から見ればほとんど同じ共通の価値観を持った同じ世界(報
土)の同じ仲間ということになるだろう。柔道界の人なら、みなA君、あるいはC氏と同じ価値観を持っ
ている。同じ価値観世界(報土)に存在する。しかし、病院で待っていた警察官のような人からみれば、
A君とC氏は全く世界が違う。国体に出場し、オリンピックの選手候補にも名が挙がるような人であれ
ば、C氏はまさに柔道界(蓮華蔵世界)の人として認識するだろう。しかし、柔道を始めて半年・一年程
度の中学・高校生で、初段にもなってないA君を、警察官は柔道界の人とは見ないだろう(要に逢わ
ず)。書類の中に、病院に駆けつけたC氏を警察官は柔道家と記載することはあっても、A君を柔道家
と記載することはないだろう。

 このようなC氏であるが、このC氏であっても、ある日突然そのようなところに到達したわけではない。
B君の段階(難思往生)、A君の段階(難思議往生)を通っている。やがて、単に面白い、楽しいではな
く、「これは真剣にやらなければいけない」と真剣に思うようになり(作願門)、実力をつけてきた(蓮華
蔵世界)。実力者になってもC氏は修行中の身であり、まだ目指すべき上(屋門・園林遊戯地門)があ
る。

60 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:30:27.55 ID:GVpdt/kp
524
 奢摩他・毘婆舎那(証の巻)を目指す親鸞の極楽浄土も、本質はこれと全く変わらない同じような世
界なのである。親鸞は、極楽浄土に五つの門を設定した。第一門・近門・礼拝門・化土・疑城胎宮。第
二門・讃嘆門・報土・功徳大宝海。第三門・作願門・報土・蓮華蔵世界。第四門・屋門・報土・蓮華蔵世
界。第五門・園林遊戯地門・教化地。

 柔道家にとって世界は大きく二つに分かれる。スポーツ界(仏道界)と非スポーツ界である。
スポーツをしていなかった者がスポーツを行うようになれば、それまで抱えていた大きな一つの宿題(生
死)が片付くことになる(双樹林下往生)。柔道家にとってスポーツ界は二つに分かれる。柔道界(浄土
門)と非柔道界(聖道門)である。柔道をやってみようかなと思う者が柔道を始めれば(難思往生)、そ
れだけで大きな一つの宿題(生死)が片付くことになる。
 挨拶だけでもしに来ませんか。最初はそう誘う(礼拝門)。挨拶だけでもしにくれば(難思往生)、挨拶
だけでもしにこない人に比べれば、嘉納冶五郎先生の目から見て、大変な進歩である。
 しかし、B君のように挨拶だけで帰るのでは残念だ(仮土往生)。楽しい、面白いとA君のように思って
くれる(功徳大宝海)こと(報土往生)は重要なことだ(讃嘆門)。A君のように面白いと思うようになれば、
ここで本当の柔道界への参加となる。面白いと思ってくれれば、自律的に柔道を続ける。そうすれば必
ずうまくなる(正定聚)。
 面白い、面白いと思ってるのはいいが、いつまでも楽しい楽しいだけの遊び半分では残念である。や
はりいつかはC氏のように真剣にやらなければならないと思って欲しいものだ(作願門)。それがなけれ
ば進歩がない。真剣にやらなければならないと思った(真如の門)先(蓮華蔵世界」)にこそ柔道界の本
質(要)がある。
 柔道界の本質に入れば、いくつかの難関(屋門)がある。オリンピックに出る。日章旗を掲げるという
目標を持つこともいいだろう。難関(屋門)を通過してこそ、本当の卒業(園林遊戯地門)がある。

 極楽浄土の往生とは、一念念仏・多念念仏によってまさにこの段階を進むことを言う。

61 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:33:50.06 ID:GVpdt/kp
708
「帰命尽十方無碍光如来」は、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、「尽十方無碍光如来」はすなわちこ
れ讃嘆門なり。 〜 「願生安楽国」は、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の言なり。(行の巻)
 南無阿弥陀仏の南無には挨拶(礼拝)の意味がある。阿弥陀仏には讃嘆の意味がある。南無阿弥陀
仏は願生安楽国という言葉をを伴う。願生安楽国には願いを立てる(作願)という意味がある。念仏界に
積極的に参加することを求めるという意味がある。南無阿弥陀仏には、礼拝・讃嘆・作願の意味がある。
南無阿弥陀仏をとなえることは、礼拝・讃嘆・作願を実践することである。

 ここをもって本願の欲生心成就の文、〜 浄土論(論註)に曰わく、「云何が回向したまえる。一切苦
悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆ
えに」とのたまえり。回向に二種の相あり。 〜 還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方
便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまう
なり(信の巻)。
 親鸞聖人の教えを(教)できるだけ忠実に守って念仏をすると(行)、親鸞先生のようにきっと奢摩他・
毘婆舎那ができてくる(証)。この認識(教行証)を客体とし、その客体を感動を伴って喜ぶ(敬信)主体
としての心(信楽心)ができてきてきたとき(欲生心成就)、奢摩他・毘婆舎那が現実を帯びてくる。

 王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)
 親鸞は、釈尊が厳父に座禅して念仏をすることを勧めていることを引用し、念仏の作法を明らかにす
る。極楽浄土では結跏趺坐が公式な着座法である。親鸞の念仏は、座禅して行うのが正式である。親
鸞の念仏道場(至道抄)では座禅して念仏を行うのが原則である。
 念仏道場では座禅して念仏を行う。念仏道場は奢摩他・毘婆舎那を実践する。奢摩他・毘婆舎那が
できてくると、教育力つまり方便力が成就してくる。

62 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/21(月) 23:36:10.37 ID:GVpdt/kp
709
 入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもってのゆえに、かの所に到
ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門と名づく(証の巻)。

 定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す(化身土)。
念仏三昧はこれ真の無上深妙の門なり。 〜 「王いま座禅してただ当に念仏すべし」(行の巻)。
一念をひがごととおもうまじき事(一念多念念仏文意)

 座禅してただ当に一念念仏すれば、善導流の定善観をしなくても、定観成就の効果を得る。かの妙荘
厳を専念し観察したのと同じ益を得る。つまり、毘婆舎那を修せしむ。入第四門、屋門を通るのだ。

 奢摩他・毘婆舎那が出来てくるのは決して一本道ではない。奢摩他ができるようになっても、毘婆舎那
ができるとは限らない。しかし、やがて奢摩他・毘婆舎那がともにできるようになるときがくる(屋門)。
 奢摩他・毘婆舎那ができ、教育指導力も体得できれば、教化地に至る。出第五門を果たし、『法華経』
の普門示現の類(証の巻)として活動できる舞台が開けてくる。

 親鸞聖人の不体失往生とは、おおよそ、以上のような内容であると考えます。
 体失往生(死後往生)は、不体失往生(生前往生)を原点にして議論を拡大していきます。浄土真宗は、
思想的には空也宗を基本とし、空也宗の上に親鸞宗が重なっています。体失往生は、先に親鸞宗の体
失往生を明確にし、その議論を空也宗レベルに矛盾なくシームレスに拡大延長して考えていくことになる
と思います。

63 :神も仏も名無しさん:2013/10/22(火) 08:19:16.69 ID:zLoLpFzC
@仏教は現生での迷い苦しみを転迷開悟することであった
A当然死後のことではなく現生において教えである
B生老病死は大きな苦しみであり、六道輪廻の思想が当時の庶民の苦しみの一つの原因でもあった
C真実の探求によって転迷開悟したのがゴータマであった
Dゴータマはやがて仏と称されるようになった
Eゴータマの死後弟子たちが様々なテキストを作りゴータマの教えを説いた
F経典と呼ばれるのがそれである、経典は人間が作った
Gインドの言葉から支那の言葉へ翻訳されるときに漢字を用いた故経典自体が
 不可思議な呪文のようになった
H浄土門はテキストのうち慈悲を中心に記された経典を採用した
I現生での転迷開悟は難しいとの認識に立っている
Jやがて死後の苦しみについては心配しなくともよい、という人が現れた
K法然さんもその一人である、法然さんは迫害を受けながら懸命に宗を起てた
L真実と慈悲と言う二本柱で死後の憂いを和らげたのである
M鎌倉時代には日本では葬儀の際に特別な儀式を執り行うようになってきていた(引導など)
N特別な儀式のない教えは念仏者を不安に駆り立てた
O特別な儀式なしに「すでに救われている」と言う思想は必要だった
P現生正定聚がそれである

後日に続く

64 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/22(火) 13:15:27.92 ID:IJ/SyYuT
>> 61,62 がわかりにくい。少し言い直そう。

1 「帰命尽十方無碍光如来」は、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、
2 「尽十方無碍光如来」はすなわちこれ讃嘆門なり。
3 「帰命尽十方無碍光如来」は「願生安楽国」が続き、これ作願門なり
 南無阿弥陀仏には礼拝・讃嘆・作願門が含まれている。

 B君は挨拶(礼拝)門を通過して化土にいる。A君は讃嘆門を通過して功徳大宝海にいる。C氏は
作願門を通過して蓮華蔵世界にいる。柔道の中には礼拝門・讃嘆門・作願門が具わっている。柔道
には礼拝門・讃嘆門・作願門が具わっているから、B君は挨拶(礼拝)門を通過し、A君は讃嘆門を
通過し、C氏は作願門を通過したのだ。礼拝・讃嘆・作願門が存在しなければ、通過することはでき
ない。

 親鸞の南無阿弥陀仏は座禅して称える(行の巻)。南無阿弥陀仏には、礼拝・讃嘆・作願門が含
まれている。念仏を実践すれば、礼拝門、讃嘆門、作願門に到達する。不定聚は化土に進み、化土
から功徳大宝海(報土)に転入して正定聚となる。正定聚は、功徳大宝海から蓮華蔵世界にまで到
達するのである。 

 A君が自分は柔道家であると言っても、警察官は笑うだろう。しかしC氏が自分は柔道家であると
言えば、警察官はそう思うだろう。本格的な柔道はC氏のように作願門から蓮華蔵世界に入って始
まる。A君のように、面白い、面白いと思って、その功徳を満喫しているだけでは十分ではない。
 本格的な柔道、蓮華蔵世界の中にこそ様々な本物の難関(屋門)がある。C氏はその一つ一つを
不屈の精神力で克服していくだろう。柔道家は、寝技、立ち技を体得し、指導力が体得できて人々に
柔道を教えることができる

 奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入する(証の巻)。念仏者は、奢
摩他と毘婆舎那と方便つまり指導力とが体得できて初めて極楽浄土を卒業する。

65 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/22(火) 13:18:54.78 ID:IJ/SyYuT
 入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむる(証の巻)。蓮華蔵世界の中
には第四門がある。屋門である。屋門はかの妙荘厳を専念し観察して克服していく。この妙荘厳を
専念し観察するという実践を、親鸞はどのようにして行えというのか。
 念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す(化身土)。すなわち、かの妙荘厳を専念し観察し
て毘婆舎那を実践する観察行つまり定観は、念仏三昧によって達成する。
 念仏三昧はこれ真の無上深妙の門なり。「王いま座禅してただ当に念仏すべし」(行の巻)。念仏三
昧は、座禅してただ当に念仏することで実践する。

 親鸞の念仏には、一念念仏と多念念仏とがある。いずれも疎かにしてはいけない。一念念仏と多
念念仏には、このようにして礼拝門・讃嘆門・作願門・観察門が開けている。だからこそ、一念念仏
と多念念仏とを座禅して実践すれば、B君の通過した礼拝門、A君の通過した讃嘆門、C氏の通過

た作願門、C氏が向かっている観察門に至る。
 奢摩他・毘婆舎那・方便力が成就すれば極楽浄土を卒業し、多くの人々に念仏を指導することに
なる。これが園林遊戯地門である。

 念仏者はこのようにして体失せずとも極楽浄土に往生し、出第五門を達成して観音菩薩の普門示
現の類を実践することになる。

 これが親鸞聖人の往生論の全てである。体失往生論は、ここから派生する。

66 : ◆K3PkkhVAkA :2013/10/22(火) 20:01:42.11 ID:2D71o3A5
6(^з^)6  66  6(^ε^)6

67 :神も仏も名無しさん:2013/10/23(水) 07:47:53.21 ID:um2USqrK
第7条
 念仏者は無碍の一道なり。

ねんぶつしゃは

 念仏の行者は無碍の一道(何ものにもさまたげられないひとすじの道)を歩む者という意。
「念仏者は」の「は」を「者」に添えた訓(よ)み仮名とみて、「念仏は」と読む説がある。

その場合、念仏は無碍の一道であるという意になるが、いずれにしても念仏の法が無碍道
であるから、念仏者は無碍者であることを明かしているのである。(歎異抄 P.836)



☆念佛はさとりとつづくみちでもある
意識せずとも悟りへと導くものでもある

68 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/23(水) 13:59:54.52 ID:XP4eS4EI
 A君は、一年以上昏睡状態が続いた後、帰らぬ人になった。C氏はA君の両親に手紙を書いた。

 A君のご不幸につきまして、心からのご冥福をお祈り申し上げます。
 A君が亡くなられたことは、誠に悲しく、残念に堪えまん。事故から一年以上、ご両親様によ
る献身的なご看病・ご苦労にも関わらず、事故の後、二度と目を開けることがなかったことは、
ご両親様におかれましてその悲しさはいかばかりかと思い、言葉もありません。
 A君は柔道の練習を実に熱心に楽しんでくれていた少年でした。今年は昇段試験も無事終了し、
その結果発表もありました。A君と同時期に柔道を始めた仲間も、数人が初段に受かりました。
 思えばA君のように、あれほど生き生きと元気よく力強く練習に励んでくれる少年は、珍しかった
と思います。生前のA君が一生懸命に柔道に励んでいたことは、決して無駄ではなかった。そのよ
うに思いたいと思います。今では、天の川の星々の一つになり、柔道の有段者の一人として、歴史
的なかつてのかずかずの名選手達と共に、天上界で、きっと楽しく柔道の練習に励み、私たちのこ
とも見守ってくれていることでしょう。
 ご両親様も、どうかお気持ちに区切りをつけられ、一日も早くお元気な生活に戻られることを
お祈り申し上げます。

 以上のような手紙は、僕は決しておかしなものとは思わない。
 次のような手紙を書いたらどうだろうか?

 A君は、亡くなって残念でした。柔道をしていたことがみんな無駄になってしまいました。死
んでしまえば、みんな終わりです。無駄になって終わってしまいました。何のためにあんなに柔
道の練習なんかしていたんでしょう。いくら初段になりたいと思っても、試験も受けられず死んでし
まえば、あんな努力は馬鹿みたいでした。
 どうせ死んでしまうんだったら、柔道なんかしないで、その間、うまい物を食い、たのしい映
画でも見ている方が利巧でした。
 A君の柔道は、死んでしまえば実に馬鹿馬鹿しい、意味のないあほらしい人生でした。

 C氏がこんな手紙を書いたらどうだろうか。恐らく非常識という批判を免れないだろう。それ
では、仏教の原理主義に忠実に照らした場合、昇段試験を受けることなく死んだA君の柔道はど
うに考えるべきか考えてみたい。

69 :(^_^.):2013/10/24(木) 07:38:28.21 ID:Ffuf3d+3
縷々意見を述べてきたがそろそろで尽くしたので


跋文

念佛には不可思議な働きがある機根の相違にてはたらきも違うようだ、
念佛によって救われる人から念佛によって現生の間に正定聚なり悟りに近い
境地に至る人まであるようだ。たとえて言うなら似たようなことで登山がある。
登山と一言で言っても冬山の富士山はプロでも登頂は難しい、
一方条件がやさしい低山ハイキングのような登山もある。

念佛には初歩の段階から高度な段階までレベルによっていろいろあるようだ。同じように
プロの山岳ガイドは様々な状況に応じて高度なテクニックを身につけなければいけない、
とりわけ案内する相手によって難易度を知り安全にガイドすることが重要な任務である。
念佛も同じこと、プロの指導者は瞑想法や呼吸また知識を涵養しておく必要がある、
そうでなければとても念佛を他人に教えることはできないであろう。
渡海は本願寺を批判する、プロの念仏者として指導できないような教義を頭においてのことであろう。
それはそれでごもっともな意見の一つだろう。聞き置くべきことかもしれない。

真実を探求し慈悲を知るそれが浄土門であり仏教の本道でもある。
そのことを念佛によって知っていくことが一番大切。
それ以外に別にない                         以上

2013年10月24日        花押     (^_^.)

70 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/25(金) 14:02:45.13 ID:WLodEoKb
 親鸞聖人の考え方が分からなければどうするか。
 釈尊に返る。釈尊の悟り、釈尊の出家に戻って考えよう。


 2〜3日多忙です。

71 :神も仏も名無しさん:2013/10/25(金) 17:14:20.03 ID:zVOLDUed
>>48
その通りだと思うよ
凡夫に心得たなんてことはあり得ない
それはどこまでいっても自分の間違った価値観で心得るからなんだよね
そういうことで何を語ろうとしているのかってことが重要だよね

>>51
ちょっとよく分からないからそうなのかもしれないけど
とにかく言いたいのは現世で穢土を選び取ることだよ
真仏土はこの世で我々の自我はどこまでいっても化身土でしかあり得ないってことが言いたいの

72 : ◆K3PkkhVAkA :2013/10/25(金) 22:14:06.34 ID:duiGt5Oj
(^-^) ナニ〜?

73 : ◆K3PkkhVAkA :2013/10/25(金) 22:17:00.85 ID:duiGt5Oj
>>69
(^ε^) 新メンバーだね、ヨロシク!

74 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/29(火) 10:09:16.97 ID:45OmarsX
 親鸞聖人の教えでつまづけば、法華経に戻る。釈尊に返る。これが鉄則である。親鸞聖人の教え
を学ぶ上で、法華経の理解の重要性は言うまでもないだろう。親鸞は天台宗の僧侶であり、法華経
の実践こそが天台僧のライフワークだった。親鸞という人は、まさに行動する法華経、躍動する法
華経そのままの人だった。僕はそう思う。同時に、親鸞の教えは釈尊に始まる。釈尊は、四門出遊、
アーラーラ仙人・ウッダカ仙人との出会い、開悟、祇園精舎開園などを行った人だ。親鸞の思想も、
これらを背景にしながら考えて行くべきである。

 釈尊は何を悟ったか。律蔵を引用する。僕には仏教の専門的研究環境がないので引用は中村元先
生の「原始仏教(春秋社刊)」を頼る。
 釈尊は何を説いたか。聖水経を引用する。
 まさに知るべし。二辺の行あり、諸の道をなす者の当に学ぶべからざるところなり。一にいはく、
歓楽・下賎の業・凡人の所行に著す。二にいはく、自ら煩ひ、自ら苦しむ。賢聖が法を求むるに非
ず。義と相応すること無し。五(人)の比丘よ。この二辺を捨てて中道を取ることあらば、明を成し、
智を成し、定を成就して自在を得。智に趣き、覚に趣き、涅槃に趣くは、すなはち八正道なり。正
見乃至正定なり。これすなはち八となす。

 転法輪経を引用する。
 或るとき世尊はベナレス・仙人の住処・鹿の園におられた。そこで世尊は五人の修行者の群れに
告げられた。修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。その二つとは何である
か。一つはもろもろの欲望において歓楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行いであり、高
尚ならず、ためにならぬものである。他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、
高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとっ
たのである。(それは眼を生じ、認識を生じ、平安・超人知.正しい覚り、安らぎ(ニルヴァーナ)に
向かうものである。修行僧らよ、真理の体現名のさとった中道──それは眼を生じ、認識を生じ、
平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルヴァーナ)に向かうものであるが──とは何であるか。

75 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/29(火) 10:11:36.27 ID:45OmarsX
それは実に〈聖なる八支よりなる道〉である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、
正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。これが実に、真理の体現
者のさとった中道であり、眼を生じ、認識を生じ、平安・超人知・正しいさとり・安らぎ(ニルヴ
ァーナ)に向かうものである。
 実に〈苦しみ〉という聖なる真理は次のごとくである。生れも苦しみであり、老いも苦しみであ
り、病いも苦しみであり、死も苦しみであり、〔憂い・悲しみ・苦痛・愁い・もだえもまた苦しみ
であり、〕憎い人に会うのも苦しみであり、愛する人に別れるのも苦しみであり、欲するものを得
ないことも苦しみである、要約していうならば、五つの執着の素因としてのわだかまりは苦しみで
ある。
 実に〈苦しみの生起の原因〉という聖なる真理は次のごとくである。それはすなわち、再生をも
たらし、喜びと貧りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。  (以下、「四諦、
三転十二行相」が語られて行く  省略)

 中道について以下のような記載もある。
「修行僧らよ。かくてわたくしは自ら生ずるたちのものでありながら、生ずることがらのうちに患
いを見て、不生なる無上の無上の安穏・安らぎ(ニルヴァーナ)を求めて、不生なる無上の安穏・
安らぎを得た。(中略)そしてわれに知と見とが生じた。我が解脱は不動である。これは最後の生
存である。もはや再び生存することは無い。」と。

 中村元先生は、十二因縁と四諦と八正道と中道とは全く別々の異なった思想であるかのように書
いている。しかし、中村元先生のその考えは、少なくとも釈尊の直弟子達の賛同は得られないだろ
う。現在伝わっている十二因縁と四諦と八正道と中道とは、それぞれ思想的に洗練されているが、
釈尊は、原始的な十二因縁、原始的な四諦、原始的な八正道、原始的な中道を悟ったのであり、そ
れは渾然一体の同一のものだったに違いない。恐らくその後の仏弟子達もそのように観念していた
と僕は思う。

76 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/29(火) 10:14:12.31 ID:45OmarsX
 我々には無明がある。この無明を引きずった生活作用によって我々は物事を識別する。だからこ
そ、再起挫折再起挫折という苦しみが連続する(十二因縁)。無明を断ち切ろうではないか。歓楽
・下賎の業・凡人の所行を排除しよう。自ら煩ひ、自ら苦しんでいく道を排除しよう。賢聖の法を
求めようではないか(中道)。どのように実践するのか。正しい見解・正しい思惟・正しい発言、
正しい行動、正しい生活、正しい努力、正しい思索、正しい瞑想を実践しようではないか(八正道)。
苦しみという事実を知ろう。苦しみは断たれなければならないと知ろう。苦しみを止滅することを
現実化しよう。苦しみを止滅する道を歩もうではないか(四諦)。解脱は不動である。解脱を得れ
ば、それが最後の生である。もはや再び生ずることは無い。釈尊はそのように認識した。

 釈尊の悟りは四つの言葉で簡単にまとめられている。
 修多羅及び諸の戒律を除きて、その餘の説あり。四句之偈なり。「いわゆる諸惡を作すことなし。
諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと」。
   (大般涅槃経要門 親鸞真筆 専修寺)

 釈尊は、基本的には善因善果・悪因悪果を説いた。善因善果・悪因悪果を広げると、十二因縁と
なり、四諦となり、八正道となり、中道となる。
 釈尊は、何が善で何が悪か分からない人々には戒律と禅定と智慧を説いた。戒律と禅定と智慧の
中に、釈尊は、人々が守るべきもの、知るべきもの、行動すべきものを込めた。釈尊は、善因善果
・悪因悪果の思想を説き、その実践を指導したのである。釈尊はそれを体得すれば、それが最後の
生であると示した。

 体失往生の概念もここから考えるべきである。

77 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/29(火) 11:12:46.54 ID:45OmarsX
 嘉納冶五郎先生は何を説いたのか。善因善果・悪因悪果を説いたと考えるべきだろう。
 我々には無明がある。この無明を引きずった生活作用によって我々は物事を識別する。だからこ
そ、再起挫折再起挫折という苦しみが連続する。無明を断ち切ろうではないか。歓楽・下賎の業・
凡人の所行を排除しよう。自ら煩ひ、自ら苦しんでいく道を排除しよう。賢聖の法を求めようでは
ないか。どのように実践するのか。正しい見解・正しい思惟・正しい発言、正しい行動、正しい生
活、正しい努力、正しい思索、正しい瞑想を実践しようではないか。苦しみという事実を知ろう。
苦しみは断たれなければならないと知ろう。苦しみを止滅することを現実化しよう。苦しみを止滅
する道を歩もうではないか。解脱は不動である。解脱を得れば、それが最後の生である。もはや再
び生ずることは無い。嘉納冶五郎先生はそのように認識した。
嘉納冶五郎先生は、何が善で何が悪か分からない青少年に、まず柔道を説いた。柔道界を創設し、
柔道のルールを定め、柔道の体系を構築し、技の実践を指導した。ルールと体系と実践の中に、嘉
納冶五郎先生は、柔道家が守るべきもの、知るべきもの、行動すべきものを込めた。嘉納冶五郎先
生は、善因善果・悪因悪果の思想を説き、その実践を指導したのである。嘉納冶五郎先生は、柔道
を体得すれば、恐れるものは何もないと示した。

 今では、天の川の星々の一つになり、柔道の有段者の一人として、歴史的なかつてのかずかずの
名選手達と共に、天上界で、きっと楽しく柔道の練習に励み、私たちのことも見守ってくれている
ことでしょう(>>68)。

 A君を愛し、柔道を愛し、A君の両親に心のこもった手紙を書くC氏の思いの根源も嘉納冶五郎
先生のこの思想から考えるべきだろうと僕は思う。 (続く)

78 :神も仏も名無しさん:2013/10/29(火) 11:14:35.51 ID:PyB1p2KL
曽我量深でも読めよ

79 :神も仏も名無しさん:2013/10/29(火) 11:19:14.44 ID:PyB1p2KL
星野元豊、山辺・赤沼、鈴木大拙、西田幾多郎、安田理深、金子大栄でもなんでもいいから読めって書いてあるから

80 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/29(火) 17:13:32.27 ID:45OmarsX
>>78
 曽我量深の本は、読書量としては多分貴方より僕の方が
読んでいると思うよ。
 まあ、貴方がどのくらい読んでる人か知らないで言うのは
大変おこがましいんだけど。
 でもね、どんだけ読んだかなんてことは、どうでもいいことだ。

 もともと僕は曽我派だ。曽我さんの東京での最後の講演も
聞きに行っているんだ。それでも、あるとき、曽我さんが嫌でい
やで堪らなくなったのが、独自の道を歩むきっかけだ。

 僕の主張から、僕の遍歴が読めないか?
 まあ、読めないでいいんだよ。そんなものは糞みたいものだ。

 僕の立場は曽我批判のつもりだが、曽我批判の立場は読めるか?
まあ、読めないだろう。それでいんだ。

 僕は曽我がああだ、こうだなどというつもりは無い。あの人は死んだ
人だ。過去の人だ。終わった人だ。
 曽我選集は全巻を以ているんだ。先日、YAHOOのオークションに出
したんだが売れないで残ってしまった。欲しかったら売ってあげるよ。
八万円の売値を付けた。いまなら、5万円でもいいよ。

 僕は、曽我があって僕があるんじゃない。曽我なんか関係なくて
今の僕の主張がある。そう思ってくれて十分だ。

81 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/29(火) 17:29:15.17 ID:45OmarsX
 僕は、教行信証を山辺・赤沼から入ったんだ。

 僕の教行信証論は、山辺・赤沼を基礎にし、山辺・赤沼を通説
と規定して、これに対して批判論を展開している。

 過去の「質問箱」を読んでほしい。

 山辺・赤沼の主張と渡海の主張と、どっちが正しいか、
読み比べて欲しいものだ。

 ちなみに、最近の書き込みでは
○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265781799/418

 この辺で扱っている

 

82 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/29(火) 18:25:53.38 ID:45OmarsX
 僕はもう、曽我さんが何を書いていたか、言っていたか、全部忘れてしまった。

 僕は、常に自分の主張は自分のオリジナル説だと思って主張する。

 ところが、何気なしに曽我さんの本を開くと、自分のオリジナル説だと思ってい

たのが、曽我説だったと知って苦笑いすることがある。

 ここまで曽我さんの主張が自分に染みこんでいたかと、自分でびっくりする。

まあ、その辺はどうしようもない。

 以前、2ちゃんねるで突然「お前は大谷教学だな」と言われたことがある。

僕の主張が、大谷教学であることを見抜く人もいる。

 曽我の影響は、僕から消せないかも知れないが、僕は、>>78のように、後続

の人に曽我さんの本は薦めないよ。あれは、もう過去の人だ。

83 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/29(火) 20:27:19.53 ID:45OmarsX
星野元豊、安田理深、金子大栄
             全く関心が無い。興味もない。どうでもいい。

鈴木大拙、西田幾多郎
            別に読もうとも思わない。知らなくても、全く困らない。


 >>79さんが読んでそれを2チャンネルで書き込んでくれれば、
それを勉強させてもらおう。

 

84 :神も仏も名無しさん:2013/10/30(水) 03:50:46.21 ID:FUP72a5t
なんかごめんなwww
じゃあ俺も専攻してたし色々教えてよ
最近は還相の結果としての、化身土をくぐった真実教ということについて考えてるからなんかそのことについてなんか君目線でいいから聞かせてほしい
あとなんで曽我を嫌いになったのかも聞きたいな

てか読もうと思ったけどログ落ちしてて見れなかったわ

>○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265781799/418

85 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/30(水) 14:41:59.80 ID:6Sh+rvxL
>>84
>なwww
   「なwww」の意味について説明してもらいたい。これはどういう意味ですか?

>最近は還相の結果としての、化身土をくぐった真実教ということについて考えてる

 考えてるというなら、もう少し丁寧に考えたいものです。
 「結果としての」は、「化身土」を修飾しているのでしょうか?。「真実教」を修飾している
のでしょうか?。
 「化身土」を修飾しているなら読点は間違いでしょう。「真実教」を修飾しているなら意味
が分かりません。「化身土」を修飾していても、意味が分かりません。

 「還相の結果としての」という言葉もよく分かりませんね。
 「化身土をくぐった?」。化身土はくぐるものなんですか?
 何をお考えになっているのか、伝わってきません。

 特に申し上げることもないでしょう。

>曽我を嫌いになった

 40年も前の話です。全く興味がありません。僕にとっては消えた人です。
 貴方が、曽我の魅力を語れば、それにコメントを付けるかも知れませんし、
無視するかも知れません。もう死んだ人です

86 :神も仏も名無しさん:2013/10/31(木) 06:06:57.28 ID:Gmw6breM
ごめん結構勉強してるみたいだからてっきりこれで分かると思ってしまってたよ
まあ前提が分かってなかったら質問の意図を理解したり、それに対して応えることは当然できないもんね
配慮が足りなかったよ

じゃあまあかわりの質問といったらあれだけど著作や論文を出している人で君がいいなと思う人を教えてほしいな

>>曽我を嫌いになった

> 40年も前の話です。全く興味がありません。僕にとっては消えた人です。
> 貴方が、曽我の魅力を語れば、それにコメントを付けるかも知れませんし、
>無視するかも知れません。もう死んだ人です

まあ曽我批判とか曽我なんかなくて今の僕がいるとかっていってるのが気になったんだよね

俺の知る限り曽我の見解に対する批判は法蔵菩薩理解に対するものや現生正定聚や往生理解、戦争問題に対するものとかその流れを汲む後学の著作や論文とかで応えられてるものばっかだし

曽我の還相の結果として君が君に帰るために回向された問題を現に持ちながら関係ないとかいうし

ちょっと所々にそういう真宗の基本的なところが抜けてるように感じて本当に読めてるのかなって思ってしまうところがあるんだよね
だからその辺をもうちょっと詳しく聞きたかっただけなんだごめんね

87 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/31(木) 13:13:51.40 ID:n9WsOn90
>>86
 ノーコメント

>>77
 この見解については、当然、批判論が出ると期待していましたが、期待に反して批判論が出て
きません。残念です。自分で批判論を建て、それに対する反論を示し、論拠の地盤固めをし、次
の段階の議論に話を進めます。

 嘉納冶五郎先生は何を説いたのか。善因善果・悪因悪果を説いたと考える。この主張は、柔道
は仏教であると言っている主張に等しい。柔道は仏教であるというなら、世の中の全てが仏教と
なり、仏教でないものは存在しないということにならないか。野球が仏教か。パチンコが仏教か。
ストリップが仏教なのか。どうして柔道を仏教というのか。この批判に僕は誠実に回答していか
なければ、柔道は仏教であるという主張に説得性がない。
 親鸞仏教で分からなくなれば釈迦仏教に返れ。それは、納得して貰えると思う。釈迦の時代に
仏教はなかった。釈迦の教えの中に、存在しなかった柔道がどうして含まれるのか。明らかな矛
盾ではないか。こういう批判にも回答していかなければ、次の段階の議論に話を進めるのは不適
当だろう。これを考えて見る。

 釈迦の教えの中に柔道は仏教であるという主張を求めることは不可能だと僕は思う。しかし、
釈迦の直弟子達の教え、釈迦を自分達のかけがえのない師と仰ぎ、釈迦から直接教えを受けた釈
迦以後の哲人達、賢人達の信念の中には厳然と存在すると僕は思う。
 僕のこんな主張は、曽我量深にも金子大栄にもない。清沢満之にもない。曽我の見解に対する
批判論にも、法蔵菩薩理解に対する批判論にも、現生正定聚や往生理解に対する批判論にも、戦
争問題に対する批判論の中にも存在しない。その流れを汲む後学の著作や論文の中にも完全に存
在しない。つまり、曽我の還相論でも、真宗の基本的なところでも完全に抜けている議論、それ
を僕は主張している。
 曽我の還相論でも、真宗の基本的なところでも完全に抜けている議論を渡海難は主張する。だ
から、渡海難は、浄土真宗の基礎が全く分かってないやつだ。そのように言うなら勝手に言えば
いい。勝手に思えばいい。僕には浄土真宗の基礎など、全く関係がない。そんなものは、全く眼
中に存在しない。

88 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/31(木) 13:14:56.09 ID:n9WsOn90
 その道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布けること二十万里
なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝・衆宝の王たるをもって、これを荘厳せ
り。 〜 無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍ず。その声を聞けば深法忍
を得、不退転に住せん。

 南方の仏教国の寺院では、現代でも必ず菩提樹を植樹するそうだ。菩提樹は道場樹とも言う。
釈尊は、北インドのブッダガヤ、菩提樹の下で悟りを開いた。インド菩提樹は、最大では高さ2
0mにも及ぶ及ぶ高木に育つという。地図の無い時代、雨の少ない熱帯乾燥地域では、道行く人
の道しるべになり、歩みに疲れた人の休息場所になったはずである。
 西方には、どんな場所からでも見える巨大な菩提樹がある。釈迦に教えを受けた直弟子達の確
信だ。曽我量深も星野元豊も山辺・赤沼も鈴木大拙も西田幾多郎も安田理深も金子大栄も、想像
すら及ばなかった哲人達の確信である。
 古代インドでは時計がない。人々は、太陽の位置で、その日の時間を知った。太陽は、東から
昇って西に沈む。東は過去、西は未来を象徴する。未来を信じて進んで行けば、必ず、どんな場
所からでもその菩提樹が見える。
 音楽を学ぶ人も、科学を研究する人も、スポーツをする人も、今いるその場所から西に目を向
ければ、必ず巨大な菩提樹が見える。自分の進んで行く方角が分からなくなれば、当たりを見回
して菩提樹を捜せ。菩提樹が見えれば、それが西である。未来に向かって歩め。そうすれば、や
がて必ず釈迦の悟りが聞こえてくる。釈迦の悟りが見えてくる。釈迦に教えを受けた直弟子達の
それが確信だった。僕はそう思う。

 嘉納冶五郎先生も、一日で柔道を完成したものではない。未来を信じ、未来に向かって真剣に
努力されて柔道を完成された。そうであれば、そこには必ず釈迦の悟りが含まれている。僕はそ
う思う。

89 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/10/31(木) 13:16:07.89 ID:n9WsOn90
 釈迦の悟りは、仏教徒という看板を首から提げている人の独占物ではない。愛玩物ではない。
道楽ではない。
 仏教徒という看板を首から提げていれば、必ず釈迦の悟りが含まれているというものでもない。
曽我の見解に対する批判にも、法蔵菩薩理解に対する批判論にも、現生正定聚や往生理解に対す
る批判論にも、戦争問題に対する批判論の中にも、釈迦の悟りなど全く存在しなくても、その流
れを汲む後学の著作や論文の中に、欠片ほどの存在もなくても、真宗の基本的なところには釈迦
の悟りが欠片も存在しなくても、不思議に思う必要は無い。釈迦の悟りは、仏教という看板にく
っついているゴミではない。

 未来を信じ、未来に向かって真剣に努力された嘉納冶五郎先生の柔道には、仏教という看板は
無くても、釈迦の悟りはきっと含まれているだろう。もし、そうでなければ、嘉納冶五郎先生に
続いた無数の柔道家達が、未来を信じ、嘉納冶五郎先生を信じて未来に向かって真剣に努力した
とき、菩提樹が見えないという結果になるはずだ。しかし、そんなことはあり得ない。もしあれ
ば、それは、釈尊の直弟子達の考えが間違っていたことになるだろう。そんなことはあり得ない。

 西に向かえば、つまり未来に向かえば、必ずや巨大な菩提樹が見える。その菩提樹は広大な枝
葉を茂らせている。枝葉は互いにこすり合って音を立て、その音を聞けば深法忍を得、不退転に
住す。
 釈迦の悟りは、決して特殊なものではなく、普遍的な真理である。どれほど浄土真宗の基礎の
なかで探し回って見つからなくても、僕は、音楽にも、絵画にも、学問にも、釈迦の悟りは普遍
的に含まれている。柔道の神髄にもかならず含まれている。僕はそう思う。

90 :神も仏も名無しさん:2013/10/31(木) 14:26:51.89 ID:7aUxol1x
異安心

91 :お前が言うな。:2013/10/31(木) 22:05:44.32 ID:KsfGhTu7
>>90
         お前が言うな。

      ./| | ̄ ̄ ̄ ̄| |\
  源信
.//. | | 異安心 | |//\ 釈迦
  ∧_||// | | ∧_∧ | | //||_∧
 (´-ω||// | | <#`Д´ | |   ||ω-`)
 ( .⊃ ||/ / |__∧_∧_| .\ .||⊂  )
 ⊂_)|/   < >>1 >. . .\||(_⊃
    |\    (  O  )    /|
    |  \   u―u'   ./  |
   ∧_∧| | ̄ ̄ ̄ ̄| |  ∧_∧
   (  -ω| .|  ∧_∧| | (ω-`  )
   (  . ⊃.|∩(;;  ;; )∩| ⊂   )
   (_) __) |_(    )| |/( __(_)
   法然    ( __人_)   親鸞
           蓮如

92 :やりなおし:2013/10/31(木) 22:08:34.57 ID:KsfGhTu7
         お前が言うな。

      ./| | ̄ ̄ ̄ ̄| |\
  源信.//. | | 異安心 | |//\ 釈迦
  ∧_||// | | ∧_∧ | | //||_∧
 (´-ω||// | | <#`Д´ | |   ||ω-`)
 ( .⊃ ||/ / |__∧_∧_| .\ .||⊂  )
 ⊂_)|/   < >>1 >. . .\||(_⊃
    |\    (  O  )    /|
    |  \   u―u'   ./  |
   ∧_∧| | ̄ ̄ ̄ ̄| |  ∧_∧
   (  -ω| .|  ∧_∧| | (ω-`  )
   (  . ⊃.|∩(;;  ;; )∩| ⊂   )
   (_) __) |_(    )| |/( __(_)
   法然    ( __人_)   親鸞
           蓮如

93 :間違えた(w):2013/10/31(木) 22:13:19.08 ID:KsfGhTu7
         お前が言うな。

      ./| | ̄ ̄ ̄ ̄| |\
  源信.//. | | 異安心 | |//\ 釈迦
  ∧_||// | | ∧_∧ | | //||_∧
 (´-ω||// | | <#`Д´ | |   ||ω-`)
 ( .⊃ ||/ / |__∧_∧_| .\ .||⊂  )
 ⊂_)|/   < >>90>. . .\||(_⊃
    |\    (  O  )    /|
    |  \   u―u'   ./  |
   ∧_∧| | ̄ ̄ ̄ ̄| |  ∧_∧
   (  -ω| .|  ∧_∧| | (ω-`  )
   (  . ⊃.|∩(;;  ;; )∩| ⊂   )
   (_) __) |_(    )| |/( __(_)
   法然    ( __人_)   親鸞
           蓮如

94 :神も仏も名無しさん:2013/11/01(金) 15:11:27.34 ID:/9OMFtuW
>>87
いやあるってまじで
やっぱそれ言いにくいけど読めてないよ
てかそれ皆言ってるって
まじで本当の本当に言ってるからその視点で読み直してみなよ
性から、今ここの真実から、本願成就の現実から立ち返って、納得できるように読んでごらんよ
親鸞は本願成就に立って因願を選んだということをよく考えてごらんよ

>>90
異安心なんてあり得ないよ
この人はこの人の内実の回向表現をしてるんだから
表面的な言葉を、相対的なものを見るのではなく、その奥を見なくてはならないよ

95 :神も仏も名無しさん:2013/11/01(金) 16:04:50.08 ID:/9OMFtuW
念の為に書いておくけど、君の主張を否定してる訳じゃ決してないからね
真宗の基礎なんて関係ないってのはその通りだし、そんなもんは糞の役にもたたない
自分に回向された問題に責任を持って応えようとする態度はもう如来回向の表現としか言いようがない
ただ、それはもう40年以上前に、750年以上前に、2000年以上前に、永劫の過去から語られてきたことなんだってことに気付いてほしいってことだよ
曽我も、親鸞も、釈尊も、法蔵も、君も同じ人間なんだってことが言いたいんだよ

96 :神も仏も名無しさん:2013/11/02(土) 07:10:20.47 ID:l5OiPfDu
>>94
教義を自分勝手に解釈しては異安心
あなたも異安心。

97 :神も仏も名無しさん:2013/11/03(日) 10:59:32.50 ID:bQce2+Ca
善因善果悪因悪果というけど
何が善で何が悪か、そのこともわからん
善をなせない人間こそ往生するのだよ。

98 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/04(月) 13:39:27.30 ID:GOMvnInz
>>97
>善因善果悪因悪果というけど何が善で何が悪か、そのこともわからん善をなせない人間こそ往
生するのだよ

>善をなせない人間こそ往生するのだよ
 善をなせない人間、悪をする人間こそが往生する
悪人もっとも往生の正因なり(歎異抄)。

 ID:bQce2+Caに嘘を教えてきたのは本願寺か!!

☆  ID:bQce2+Caに歎異抄を読ませるな。
 もと、盗み心あらんものも、極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、
思い直してこそあるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめある
べからず候。(消息集)
 歎異先師口伝之真信(歎異抄冒頭)
 外見あるべからず(歎異抄末尾)。
 於無宿善機、無左右不可許之者也(蓮如添え書き)。

☆  ID:bQce2+Caには、真の仏教を教えなければいけない
 修多羅及び諸の戒律を除きて、その餘の説あり。四句之偈なり。いわゆる諸惡を作すことなし。
諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと。(大般涅槃経要門 親鸞真
筆 専修寺)
 因果を撥無する見を、空とす。(行の巻)
 二つには大乗の五逆なり。 〜 五つには、謗じて因果なく、長夜に常に十不善業を行ずる
なり、と。(信の巻)
 ことごとくこれ邪業なり。何をもってのゆえに、因果を求めざるがゆえなりと。(真仏土)
 また二種あり。 〜 因果なく、 〜 もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づ
く(化身土)。

99 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/04(月) 13:40:39.83 ID:GOMvnInz
☆  ID:bQce2+Caには、何が善であるかを教えよ
☆☆ ID:bQce2+Caには、善としての称名念仏を教えよ。称名念仏が善である。
 これ(称名念仏は)もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり(行の巻)。
 もしよく(称名念仏という)広大善を修集すれば、かの人、大因力を成就す。もし人、大因力
を成就すれば、すなわち殊勝決定の解を得。もし殊勝決定の解を得れば、すなわち諸仏の為に護
念せらる。(信の巻)
 この(阿弥陀仏の)嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。かるがゆえに善本と曰うなり(化
身土)。

☆☆ ID:bQce2+Caには、仁・義・礼・智・信を守ることが善であると教えよ。仁・義・礼・智・
信を守ることがが善である。
 もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・
礼・智・信あることを知らんや。(信の巻)
 内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁義をもって本とすべし。(お文) 王法は
額にあてよ。仏法は内心に深く蓄えよ」との仰せに候う。仁義と云う事も、端々あるべきことな
るよしに候う。(聞き書き)
 汝若し(戒律と禅定を)修せずしてすなわち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風
を掩ふがごとし(五会念仏法事讃略抄 親鸞真筆 専修寺)
 出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、
内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり(改邪抄 覚如)。

100 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/04(月) 13:47:14.29 ID:GOMvnInz
☆☆ ID:bQce2+Caに、称名念仏は五会念仏をもって座禅を実践することであると教えよ。これが
善である。
 父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる(行の巻)
 念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。 〜 父の王に謂いて曰わく、「王いま座禅してた
だ当に念仏すべし」と(行の巻)。
 (教行信証の)『五会讃』法照禅師の述作する所、一巻の書なり。 〜 今の所引の文は、こ
れ序の初なり。流布の本に「深妙」の下、「問答」の上に禅の一字あり。 〜 次に「如来」等
とは、これ五会念仏を釈する文なり。 〜 試みに今これを推するに、上には「念仏三昧是真無
上深妙禅門」といい、今は「如来常於三昧海中」という。 〜 三昧の中に念仏三昧甚深の義。
鈎鎖相連してその理を成ぜんが為にかくの如く次第せり(六要抄)。

☆☆ ID:bQce2+Caに、多念念仏と一念念仏とを教えよ。
 一念をひがごととおもうまじき事 〜 多念をひがごととおもうまじき事(一念多念文意)


 ID:bQce2+Caを洗脳しているノータリン教義には呆れかえるばかりだ。
 仏教の初心者に、悪因をもって往生すると教えれば、それがどんな弊害をもたらすか、誰だっ
て予想が付くだろう。

 因果の教えを教えない。称名念仏を教えない。五会念仏を教えない。仁義礼智信を教えない。
ID:bQce2+Caにノータリン教義を洗脳している者は、洗脳を止めよ。宗教音痴・仏教音痴・真宗音
痴が嘘親鸞の教義を宣伝するのは止めよ。歎異抄を正面に掲げ、因果の教えを否定するなら、
それは「富闌那教」である。「富闌那教」の看板を掲げよ。

 (続きは明日以降)

101 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/04(月) 14:23:59.88 ID:GOMvnInz
>>97
>善をなせない人間こそ往生するのだよ。

 善をなせない人間こそ往生するなどと考えるのは止めたらどうよ。

 往生は、何事も何事も、凡夫の計らいならず、如来の御誓いに、任せ参らせたればこそ、他力に
ては候え。様様に計らい合うて候らん、可笑しく候。(消息集)

>何が善で何が悪か、そのこともわからん

 内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁義をもって本とすべし。(お文)

一 世に曲事(くせごと)の起こりそうらいしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の
祈りに心をいれて、申し合わせ給うべしとぞ覚え候。(消息集)

二 もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・
義・礼・智・信あることを知らんや。(信の巻)

 坐禅しながら五会念仏を実践し、多念念仏・一念念仏を行う。
 十七条の憲法と論語全文の書写をする。

 何が善で何が悪か分からないとういうなら、このくらいのことを手始めにしたらどうですか?

102 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/04(月) 18:25:56.66 ID:GOMvnInz
>>97
 忙しいんだが、こういう書き込みを見ると、気が散ってしょうがないんだ。
 >>97の主張がいかに反仏教的か、もう一つ書いておこう。

 本願寺はこういう考えを教えない。まさに富闌那教だ

 、阿鼻地獄の人は、大焦熱地獄の罪人を見ること、他化自在天処を見る
がごとし。 〜 なにをもつてのゆゑに。地獄の人はきはめて大きに臭きを
もつてのゆゑに。 〜 因果を撥無するもの、このなかに堕つ。
      [『観仏三昧経』による。                (往生要集)

103 :神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 09:51:31.86 ID:sTIq4Ivw
唯円 善鸞様。早くおそばへ。もう御臨終でございますぞ。
善鸞 (我れを忘れてよろめくように親鸞のそばに寄る)父上様。(声咽喉(のど)につまる)
親鸞 皆ひざまずいて三宝を礼拝(らいはい)していられる。金色の木(こ)の果(み)
    が枝をはなれて地に落ちた。皆それをあつめて十方の諸仏を供養なさるのじゃ……
    あ、花がふる。花がふる…………
唯円 (親鸞の耳に口をあてる)善鸞様がお越しなされました。
善鸞 (声を高くする)父上様。善鸞でございます。わかりましたか。わたしでございます。父上様。
親鸞 (目を開き善鸞の顔を見る)おゝ、善鸞か。(身を起こそうとしてむなしく手を動かす)
侍医 (制する)おしずかに。
善鸞 (涙をこぼす)会いとうございました……ゆるしてください。わたくしは…………
親鸞 ゆるされているのだよ。だあれも裁くものはない。
善鸞 わたくしは不孝者です。

104 :神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 09:53:28.82 ID:sTIq4Ivw
親鸞 お前はふしあわせだった。
善鸞 わたしは悪い人間です。わたしゆえに他人がふしあわせになりました。
    わたしは自分の存在を呪(のろ)います。
親鸞 おゝおそろしい。われとわが身を呪うとは、お前自らを祝しておくれ。
    悪魔が悪いのだ。お前は仏様の姿に似せてつくられた仏の子じゃ。
善鸞 もったいない。わたしは多くの罪をかさねました。
親鸞 その罪は億劫(おっこう)の昔阿弥陀(あみだ)様が先に償うてくだされた
    ……ゆるされているのじゃ、ゆるされているのじゃ。(声細くなりとぎれる。
侍医眉(まゆ)をひそめる)わしはもうこの世を去る……(細けれどしっかりと)お前は仏様を信じるか。
善鸞 …………
親鸞 お慈悲を拒んでくれるな。信じると言ってくれ……わしの魂が天に返る日に安心をあたえてくれ……
善鸞 (魂の苦悶(くもん)のためにまっさおになる)
親鸞 ただ受け取りさえすればよいのじゃ。
一座緊張する。勝信は顔青ざめ、目を火のごとくにして善鸞を見ている。

善鸞 (くちびるの筋が苦しげに痙攣(けいれん)する。何か言いかけてためらう。
     ついに絶望的に)わたしの浅ましさ……わかりません……きめられません。
      (前に伏す。勝信の顔ま白になる)
親鸞 おゝ。(目をつむる)
  一座動揺する。

侍医 どなた様も、今が御臨終でございますぞ。
深い、内面の動揺その極に達する。されど森(しん)として声を立つるものなし。
弟子衆(でししゅう)枕(まくら)もとに寄る。代わる代わる親鸞のくちびるをしめす

105 :神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 10:01:22.29 ID:sTIq4Ivw
親鸞 (かすかにくちびるを動かす。苦悶(くもん)の表情顔に表わる。
    やがてその表情は次第に穏やかになり、ついにひとつの静かなる、
    恵まれたるもののみの持つ平和なる表情にかわる。小さけれどたしかなる声にて)
    それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善(よ)い、調和した世界じゃ。
    (この世ならぬ美しさ顔に輝きわたる)おゝ平和! もっとも遠い、もっとも内の。なむあみだぶつ。

侍医 もはやこときれあそばしました。
尊き感動。一座水を打ちたるごとく静かになる。一同合掌す。
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の声ひとしきり。やがてやむ。一瞬間沈黙。平和なヒムリッシュな音楽。親鸞の魂の天に返ったことを示すため。

――幕――


☆義絶された善鸞が臨終の席にかけつける、ついに信心を表明することなく今生の別れとなった。
それを許す親鸞。。
善や悪をどう読み取るかそれが問題だ。
善因善果悪因悪果など簡単すぎる、もっと深い業にまで立ち入って考えてみるがよい。

106 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/05(火) 10:41:17.34 ID:/Zb4USgf
 中村元さんの本を読むと、親鸞聖人の教えで分からなかったことの重要部分のほとんどが分かって
くる。昔の人は一切経を読んだ。僕にはそんな環境はない。しかし、中村元さんが重要部分をつまみ
出してくれている。中村元さんの原始仏教で親鸞が分かった気になってそれでいいのか、若干心配に
なるが、疑問に対して非常に合理的な理解を導いてくれる。合理的な理解に導いてくれる限り、僕は
これで満足している。

 中村元さんの本を読むまで、迂闊にも自分では気がつかなかったことが幾つもある。釈尊の考えに
対しては、批判者する者がいたということ。批判論の中に、非常に重要な指摘があり、釈迦の主張は
恐らく釈迦の在世中から批判を受けて変貌してきたということである。言い換えれば、仏教の教えの
中には、釈迦の悟りと、その批判論という二つの大きな柱があり、両者間の緊張と統合によってダイ
ナミックに成立しているということが分かった。

 「一切空無我なりと通達すれども、専ら浄仏土を求めて、必ずかくのごときの刹を成ぜん。」僕は、
若い頃、大無量寿経の中のこの言葉が非常に気になっていた。なかなかその意味が分からなかった。
中村元さんの原始仏教を読んで謎が解け、仏教のダイナミズムを見たと思った。

 釈尊は、三十五歳の時、因果の法則を悟った。しかし、それは、果たして「善因善果・悪因悪果」
という言葉で記述できるものだったかどうかは不明だ。原始的な十二因縁、原始的な四諦、原始的な
八正道、原始的な中道であり、後の弟子達が「善因善果・悪因悪果」という言葉で誤りなく記述でき
るそのような内容のものだったと僕は思う。

107 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/05(火) 10:42:20.90 ID:/Zb4USgf
 因果の法則に対し批判論が出てくる。善因は必ずしも善果をもたらさない。悪因こそが善果をもた
らすことがある。むしろ、現実には、悪因こそが善果をもたらすことの方が多いではないか。他人に
正直になるより、相手を騙したときの方が、巨額の利益を得られることが多いではないか。敵に勝つ
には、味方も騙した方がやりやすいこともある。正直者が馬鹿を見るというのは、まさに日常茶飯事
である。だからこそ、ものごとには様々な戦略を練り、仕掛けを作る。棚からぼた餅を待つ方が得策
のこともある。嵐の時は何もしないでじっと待っている方が、いい方がある。他人から恨まれても、
憎まれても、罵られても、相手を押しのけ、騙し、殺戮していった方がいい場合がある。実際に善も
悪も相対的なものである。善だ悪だと分けられないのがほとんどである。善因善果・悪因悪果などと
いうのは、全く馬鹿馬鹿しい話である。そういう主張が出てきたようだ。考えてみれば当たり前の話
だ。中村元さんの本にはそこまで書いてないが、批判論者の背景は十分に推測できる。

 われわれ仏教徒は、因果の法則を疑うことはなにか大変悪いことのように思わされてきている。善
因善果・悪因悪果を疑ってはいけない。信じなければいけない。そのようにしむけられている。しか
し、それは全くの間違いであり、因果の法則を疑うということは、仏教理解の上で実は極めて大事な
ことであるということを、僕は中村元さんの本から教わった。仏教の理解は、釈尊の悟りを徹底して
疑うことから始まる。少なくとも我々の古代の先人達は、そのようにして仏教を学んだのであり、そ
の道こそが仏教を学ぶ本道であると僕は思う。

 因果の法則の批判に対しては、当然反駁がある。その反駁に対して再反論もある。仏教はこのよう
な道をたどって反対論をダイナミックに包み込んだ。体失往生論は仏教のこうしたダイナミックな動
きを遠因とし、これに光を当てることで不体失往生論から導かれてくる。

108 :神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 11:27:49.22 ID:SBdgbs7X
質問です。

浄土真宗の教えというのは、簡単に言えば、
「南無阿弥陀仏」を唱えれば死後、浄土に行ける、という教えで合ってますか?

109 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/05(火) 12:09:48.08 ID:/Zb4USgf
>>108
 いまはノーコメントとします。

110 :神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 12:40:31.83 ID:SBdgbs7X
なんでやねんw

質問箱じゃねえのかここはw

111 :神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 14:53:01.07 ID:sTIq4Ivw
(『顕浄土方便化身土文類講讃』 梯實圓著)P.408、P.409より引用


信罪福心

「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり」といわれた「信罪福心」は、
『大経』の胎化段に仏智を疑いながら、罪福を信じて善本を修習するという胎生の因を説かれたところ
で用いられた言葉である。

もともと罪福を信じるとは、仏教で一般的に語られる善因楽果、悪因苦果という善悪業報の因果、
自業自得の因果を信ずることであり、それを実践しているのが廃悪修善の行であった。
しかし親鸞聖人はここで「罪福を信ずる心」を自力心の変え名として用いられている。
それは善悪平等の救いを誓われている仏不智思議の本願を受け容れないで、廃悪修善の諭理
で本願を理解しようとしていることを「信罪福心」といわれたと解釈されたからである。
つまり親鸞聖人は「罪福を信ずる心」を「自力のはからい」の替え名として用いられたのであった。

後略

☆善悪を自分で判断し善を頼みに修行するとこと自体が阿弥陀仏の本願を疑うことには
なりはせぬか、 罪福こそが浄土宗の障げになりはせぬか、
現代でも鎌倉時代でも同じように争われた論点ではないでしょうか。

112 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/05(火) 16:59:08.77 ID:/Zb4USgf
>>110
 見る立場が異なれば、どのようにでも言えるでしょう。
 人参だって、切り口、角度が違えば、丸いとも言える。楕円形とも言える。三角と言える。
赤いともいえる。臭いがあるともいえる。
 どの立場から見ようとしているのかわからなければ答えようがない。

 今は体失往生論を釈迦の悟りに戻って考えているところで、僕はこの流れを変えたくない。
だから、ノーコメントと申し上げました。
 公開掲示板だから、外の人が貴方の問いに回答することは、僕は止めるつもりはありませ
ん。

 往生に、「唱える」という条件と「死」という二つの条件を必須と想定するのは、現代の本願
寺でしょう。
 答えは「ノー」と一言言ってそれで済むなら簡単ですが、それでは済まないでしょう。だから
ノーコメントです。

>>111
 貴方は、何が言いたいのか、少なくとも渡海難には分かりません。

113 :神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 18:01:17.48 ID:Dbqz5K2X
なんで浄土真宗の人って煙に巻くような答えしかできないんだろ。

114 :神も仏も名無しさん:2013/11/06(水) 09:37:52.20 ID:aM+N/vM0
>>112
何が善で何が悪かを知り
善だけを積み上げて精進しましょう。

と善を頼みに往生を願うか、生きている間には宿縁によって
何をしでかすかわからない凡夫だから十八願に頼るか、
それが問題だ。
善を頼める聖人は親鸞さんの道とは違う別の道があります。
今生で善を頼めない悪人こそが往生するのです。
それ以外に別に仔細はございません。

115 :神も仏も名無しさん:2013/11/06(水) 10:43:53.23 ID:+3n7mreU
>>112
>往生に、「唱える」という条件と「死」という二つの条件を必須と想定するのは、現代の本願寺でしょう。

現代の本願寺は、「南無阿弥陀仏」を唱えれば死後浄土に行ける、という教えなんですね。

本来の教えは違うのですね。どう違うのですか?

116 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/06(水) 16:16:45.62 ID:TEjQPs/e
>>114
 今生で善を頼めない悪人こそが往生するのです。
      本願寺コミンテルンの樹立思想だな (苦笑)

 自国の勝利のために挙国一致で戦うのではなく(城内平和)、戦争への協力を拒否し、その混
乱や弱体化に乗じて革命で政権を掌握させるべきとした。具体的には、反戦運動で厭戦を高揚さ
せることで自国の戦争遂行を妨害したるすることなどである。 革命的祖国敗北主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E7%A5%96%E5%9B%BD%E6%95%97%E5%8C%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9


 コミンテルンの日本支部たる日本共産党は大正十一年、佐野学、堺利彦、荒畑勝三等に依り結
成せられました・・・世界共産主義社会実現の為日本に於いて革命を遂行し・・・我が国に共産
主義社会を実現せんとする結社であります。(−ゾルゲ事件−尾崎秀実の手記 昭和17年2月)

 共産党対本願寺―乗っ取るまでの30年暗躍史
http://books.google.co.jp/books/about/%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E5%AF%BE%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA.html?id=XYJWywAACAAJ&redir_esc=y

 親鸞聖人の教えは、コミンテルンの敗北革命主義ではないよ。

117 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/06(水) 16:17:36.41 ID:TEjQPs/e
 もし善業を遠ざからば、すなわち惡果を得む。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すな
わち聖道を求めて修習すべからず。もし道を修せずば、すなわち解脱なし。一切の聖人が道を修
するゆえんは、定業を壊して輕報を得るがゆえなり。不定の業は果報が無きゆえなり。もし一切
の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。
 もし、聖道を修習することを遠離して解脱を得れば、この處(こと)はりあることなけん。解
脱を得、涅槃を得ずば、またこの處(こと)はりあること無けん。善男子よ、もし、一切の業で
定んで果をえれば、一世の所作、純善の業は、まさにながくすでに常に安樂を受くべし。一世所
作、慇重の惡業は、またながくすでに大苦悩の業果を受けるべし。若し爾らばすなわち修道し解
脱する涅槃の人はなからん。

 もし、誓願を發し、三賓を供養すれば、これを名づけて定業とす。善男子よ、智者の善根は深
く固く動じ難し。この故によく重業を輕となさしむ。愚癡の人は、不善が深く、厚く、輕業をし
て重報をなさしむ。この義をもってのゆえに、一切の諸業は決定と名づけず。菩薩摩訶薩には地
獄の業無けれども、衆生の爲の故に大誓願を發し、地獄の中に生ず。善男子よ、かつて衆生の壽
が百年の時、恒砂の衆生は地獄の報を受く。我、これを見おわるに、すなわち大願を發し、地獄
の身を受く。菩薩はその時、實にこの業なけれども、衆生の爲のゆえに地獄の果を受く。我はそ
の時、地獄の中にありて無量の歳を經、諸の罪人の爲に十二部經を廣開し、分別せり。諸の人は、
一闡提を除き、聞きおわるに、惡果報を壊し、地獄を空ならしむ。これを菩薩摩訶薩の、現生に
あらずして後にこの惡業を受くと名づく。また次に善男子よ、この賢劫の中に、無量衆生が畜生
に堕し、その中で惡業果を受く。我、これを見おわるに、また誓願を發せり。法を説き、衆生を
度せんとおもうがためのゆえなり。
(本願寺が公開を嫌がっている)大般涅槃經要文  親鸞真蹟小部集 伊勢専修寺蔵宗祖真蹟本

 現代文に訳す時間がない。

 >>114とは住む世界が違う。僕は、コミンテルンと宗教論を議論するつもりはない
  以後ノーコメントとします。

118 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/06(水) 16:21:45.15 ID:TEjQPs/e
>>115 にもノーコメント

 >>115の質問は、已に現在進行形の議論です。

  続きは明日以降

119 :神も仏も名無しさん:2013/11/07(木) 10:16:15.09 ID:mYAifePr
マルクスとコミュンテルンはぜんぜん違うが一般人では違いはわからないだろう。
十八願の他力念仏と諸行往生の自力念仏一般的には違いがわからないだろう。

120 :神も仏も名無しさん:2013/11/07(木) 10:44:31.32 ID:LQcXNmaW
回答者は一般人にも分かり易く説明してくれ。

121 :神も仏も名無しさん:2013/11/07(木) 11:07:00.23 ID:KXbcLyjS
>>115
極楽浄土は色界の第四禅天の浄居天であるという説や、
この方↓の法話によりますと、
http://www.mettakaruna.jp/cn24/cn13/pg105.html
観音様の心を扉にして浄土の世界が広がっているという説があります。
この方によりますと、禅定を修めて不還果になる+阿弥陀への完全な信がないと行けないみたいですよ。
ですから実は、「1億の人がいれば、1人か2人しか行かない」場所のようです。

122 :神も仏も名無しさん:2013/11/07(木) 11:36:44.71 ID:LQcXNmaW
1億の人がいて1人か2人しか行かない場所なら、
宝くじの1等みたいなもので、ほぼ全ての人にとって全く関係ない話なんですね。
ありがとうございました。

123 :神も仏も名無しさん:2013/11/07(木) 11:48:16.40 ID:Ukzwdzmc
>>122
あくまで、一つの説ですので、
この説が必ずしも正しいということではないですからね^_^

124 :神も仏も名無しさん:2013/11/07(木) 11:49:33.12 ID:LQcXNmaW
いろいろな説が入り乱れているのですね。
浄土真宗の公式の説みたいなものはないのですか?

125 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/07(木) 14:07:37.31 ID:lAP0Ar/8
>>120
>回答者は一般人にも分かり易く説明してくれ。
  >>116-118は本道から外れた議論ですから、無視してください。

>>121
>観音様の心を扉にして浄土の世界が広がっているという説があります。

 この教えか
  ↓
 本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく」(論)とのたまえり。示応化身とは、
『法華経』の(観音経)普門示現の類のごときなり。遊戯に二の義あり。一には自在の義。菩薩、
衆生を度す。譬えば師子の鹿を摶つに所為難らざるがごときは、遊戯するがごとし。二には度
無所度の義なり。(証の巻)

>この方によりますと、禅定を修めて不還果になる+阿弥陀への完全な信がないと行けないみ
たいですよ。ですから実は、「1億の人がいれば、1人か2人しか行かない」場所のようです。

 この方とは親鸞のことか。
 また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この(>>121の)人の信心、ただ道
ありと信じて、すべて得道の人、(普門示現の類)ありと信ぜざらん、これを名づけて「(>>121を)
信不具足」とす、といえり。  (信の巻)

>>123
>あくまで、一つの説ですので、この説が必ずしも正しいということではないですからね
     まあ、外道の富闌那、コミンテルン坊主の説でしょう。

>>124
>浄土真宗の公式の説みたいなものはないのですか?
     公式の説が出たらどうするの?それを妄信しようと網を張っているのか?
    おぬしは、浄土真宗なんて捨てた方がきっと幸せになる。

126 :神も仏も名無しさん:2013/11/07(木) 16:06:47.62 ID:r4ex5HrB
>>125
>公式の説が出たらどうするの?それを妄信しようと網を張っているのか?

別に。
公式の説みたいなものがあるのか無いのか聞いてるんですけど?

127 :神も仏も名無しさん:2013/11/08(金) 08:42:59.60 ID:tp/eQYvN
公式の見解

念仏者は極重悪人の凡夫と言う認識の上に成り立つ
本願を獲得した人は正定聚として今生をまっとうし
臨終後は浄土へ往生する

128 :神も仏も名無しさん:2013/11/08(金) 11:14:33.09 ID:WFZyb46+
>>127
ありがとうございます。
「本願を獲得する」とはどういうことですか?
どうすれば、本願を獲得できますか?

129 :神も仏も名無しさん:2013/11/08(金) 11:54:32.21 ID:tp/eQYvN
>>128
本当はすべて知ってるんでしょうw

ま、しかし本願を獲得するってのは難しい、簡単に言うと
十八願を疑いなく信じる(あるいは頂く)と言うことでしょうけれど
その説明では難しいですね。
法蔵菩薩の四十八願はすべての衆生を平等に差別なく救いたいということですね。
それは大慈悲に他ならないわけです、大慈悲にふれてありがたいと思う気持ち、
そして世の中もすべてそうなってほしい、世を安穏なれといのる気持ちが起きた時、
それが信心を獲得したときではなかろうか。

130 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/09(土) 14:48:21.52 ID:2j+w88I7
>>127
>本願を獲得した人は正定聚として今生をまっとうし
 阿弥陀を信じた人は(年取ったおばあさんの真似をして)何もしないで死ぬ時をじっと待ち、

>臨終後は浄土へ往生する
 死んだら見事に極楽浄土に往生する

釈迦の教え
 慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信じ難し(大無量寿経)。

 本願寺は、戦争のできない国民、戦うことのできない怠け者の国民を作る。
 敗北主義・亡国主義・売国主義の道を進む。

 自国の勝利のために挙国一致で戦うのではなく(城内平和)、戦争への協力を拒否し、その混
乱や弱体化に乗じて革命で政権を掌握させるべきとした。具体的には、反戦運動で厭戦を高揚さ
せることで自国の戦争遂行を妨害したるすることなどである。
  革命的祖国敗北主義

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E7%A5%96%E5%9B%BD%E6%95%97%E5%8C%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9

  本願寺教義の恐怖
  外国(中国・朝鮮からの侵略を歓迎する)
  本願寺コミンテルンの主張
 戦争とは、相手の国の人のいのちも、更には自国の人(兵隊)の いのちをも軽視していない
とできるものではありません。戦争を始めよ うとするする人々(権力者)は決して自ら戦場に
は行きません。なぜな ら殺されるのが嫌だからです。自分のいのちが大切だからです。しか し、
その一方で相手の国の人のいのちや自国の兵士のいのちは、どうなっても構わないと思っていま
す。自分のいのちと他人のいのちとの間に上下関係をみているのです。差別しているのです。だ
から戦争をすることができるのだと私は思います。  (念仏者九条の会)
http://www.eonet.ne.jp/~9jou-nenbutsusha/page012.html

131 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/09(土) 14:50:06.50 ID:2j+w88I7
 戦わない国は滅びる
 ラサをはじめとするチベットの主要な町はことごとく占領され、東チベットと西チベットに大軍が集結された。こうして、チベットの武力支配は完成した。
http://www.tibethouse.jp/history/19510523.html

 1949年12月までに人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された(新疆侵攻)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

実権はウラーンフーに握られ内蒙古は完全に中国共産党の指揮下に入ることとなる。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

 中国軍のブータン侵略
http://www.youtube.com/watch?v=I_ZMnxdU5to

 中国軍のベトナム侵略
http://www.youtube.com/watch?v=Gz_mo9lhe0E&list=PL3FFB9AB60F780035

 中国の日本領海侵略
http://www.youtube.com/watch?v=bkDQMHR_ZvY

 滅びた国、町、村には、広島型・長崎型原爆の数十倍の原爆が、以後、日常的に連日のように原爆が投下され続け、虐殺されていく。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/1029Uyghur.html

 滅びた国の国民は焼身自殺する。
http://www.youtube.com/watch?v=SL55tEuORd8

 戦う国は敗れても世界中から感謝される
 http://www.youtube.com/watch?v=RntUs2gjM3g
 http://www.youtube.com/watch?v=Yi6t6r7FbjM

132 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/09(土) 14:52:02.08 ID:2j+w88I7
  本願寺の嘘
 元弁護士でいま龍谷大学教授の戸塚悦朗氏が「従軍慰安婦は犯罪なんですよ。北朝鮮の拉致と同
じ犯罪なんですよ」と語っています。
http://hirobuchi.com/archives/2007/03/post_177.html

 正しい歴史
http://www.youtube.com/watch?v=EcOXH-uzAzk

 

コミンテルンの欺瞞  (尾崎秀実の手記 ゾルゲスパイ事件で死刑)
 以上の如き予想に基づいた現実の形態と更にこれに対処する方式として私がしきりに心に描い
たところは、次の如きでありました。
第一 日本は独伊と提携するであろうこと。
第二 日本は結局英米と相戦ふに至るであろうこと。
第三 最後に我々はソ連の力を借り、先ず支那の社会主義への転換を図り、これとの関連に於い
て日本自体の社会主義国家への転換を図ること。

 日本は、社会体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべき
であると考へました。

最も崩壊の危険性の多いのは英、独で、これについではソ連であり、次には日本、アメリカとい
ふ順序にあるのではないかと思はれます。・・・ソ連の如きが戦力を破砕された場合にその国家
社会体制に如何なる影響を蒙るかと云ふことは吾々の立場から言へば文句のある点であります。

 社会主義は一国だけで完全なものとして成立するものではありません。
 もちろん、私の行ってゐる如きことが猛烈な反国家的な犯罪であることは云ふまでもありませ
ん。従って理論的には、その行動を是認しつつも時に具体的行動の後めたさを感じたことも否定
できません。私は常に露見、逮捕と云う如き場合の結果を自分の一個の死と結びつけて考へて居
りました。「要するに死ねばいいのだろう」と云う点に一つの覚悟の基礎を置いて居たわけであ
ります。

133 :神も仏も名無しさん:2013/11/09(土) 15:05:38.45 ID:5E7UglC2
>>129
10回念仏すれば極楽へ行けるんですね。

134 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/09(土) 15:11:09.79 ID:2j+w88I7
>>130

× 年取ったおばあさんの真似をして

○ 寝たきりのおばあさんの真似をして

135 :神も仏も名無しさん:2013/11/09(土) 15:15:40.12 ID:5E7UglC2
>>129
アミダさんの願いをありがたいと思うようになれば極楽に行くんですね。

136 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/09(土) 18:04:10.63 ID:2j+w88I7
 本願を獲得して正定聚となり、年取ったおばあさんの真似をしてじっと死
を待ち、念仏者九条の会の心で侵略者の生命を守り、自ら武器をもって戦
わなかった人々が迎えたコミンテルンの極楽浄土。

 http://www.youtube.com/watch?v=uUhoBfRzfOA

137 :神も仏も名無しさん:2013/11/10(日) 10:01:58.68 ID:hvVOQqM6
>>133
>>135
そのとおり、
極楽往く前に現生で妙観察智と平等性智の一部を体感出来るようになる。
妙観察智と平等性智とはなにかは唯識論によるから複雑になるのでここでは割愛します。

本願獲得の後は以上のような能力を得るのでおばあさんのまねをして
死ぬまでじっと待つ、と言うことはない。
念仏者として他を感化し社会性を持つようになる。

138 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/10(日) 12:07:49.41 ID:Nf2jdcTc
>>137
 今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲
始終なし。念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々(歎異抄)

 のみ [副助]
 種々の語に付く。 1 ある一つの事柄・状態に限定していう意を表す。…だけ。…ばかり。
「あとは結果を待つ―である」「日本―ならず全世界の問題だ」
 http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E3%81%AE%E3%81%BF/m0u/tab/

>>137の本音
 他を感化し社会性を持つということは、イコール寝たきりの念仏ばあさんを演じ、ただひ
たすらじっと死の到来を待つことである。

>>137の本音と推測するその根拠
    (>>137が洗脳された浄土真宗)

 1 踊躍歓喜の心疎かに候。(歎異抄)
2 念仏に優るべき善なきゆえに。(歎異抄)
3 自力作善の人は、一重に他力を頼む心欠く(歎異抄)
4 急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」虚仮・雑毒の善
をもって、無量光明土に生まれんと欲する、必ず不可
                     (教行信証の歪曲解釈)

139 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/10(日) 12:09:39.82 ID:Nf2jdcTc
 歎異抄信者の仮面 (念仏者九条の会 等の印象)

1 表の顔 (共産主義を支持しない人に対して)
   消極的反戦運動を行う
   寝たきりの念仏ばあさんの真似をして、寝ていましょう。
戦争への協力を拒否させ、侵略軍・革命軍に対する国家の反抗力を弱体化する
   共産主義にたいする防波堤を低くする
   罪悪感を反国家観を植え付ける
  
2 裏の顔 (共産主義を支持する人に対して)
   積極的戦闘的反戦運動を喚起、高揚、強化する
社会的混乱と不安感を煽るる
   反軍・反自衛隊・反靖国・反基地・反原発闘争を展開する

140 :神も仏も名無しさん:2013/11/10(日) 12:14:11.49 ID:wgEw3ytu
親鸞の教えは、アミダの願いをありがたいと思うようになれば死後に極楽に行くということで合ってますか?

141 :神も仏も名無しさん:2013/11/10(日) 12:44:58.10 ID:hvVOQqM6
>>140
合ってます。

仮にそれが間違いだとしても極重悪人の凡夫にはそれ以外他に方法なしと知るべき。

親鸞は「聞」という字を「納得して信じる」と読みます、日々において煩悩に犯されていない
すばらしい話を聞く、そしてそのことがアーラヤ識に転写され習気され次の行動に現れる、
そしてそれがさらにアーラヤ識に繰り込まれる。
そのようにして少しずつ大円鏡智へと向かうのです。

しばらく多忙につきしばらく書き込み不能。

142 :神も仏も名無しさん:2013/11/10(日) 12:47:31.72 ID:hvVOQqM6
>>141
ごめんなさい、ややこしい書き方になったw

結局は

念仏してだけが真実なのです、念仏して現生正定聚になり臨終を待つ。
そういうことです

143 :神も仏も名無しさん:2013/11/10(日) 12:56:31.98 ID:wgEw3ytu
>>141-142
ありがとうございました!

144 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/10(日) 12:59:48.05 ID:Nf2jdcTc
>>137
>念仏してだけが真実なのです、念仏して現生正定聚になり臨終を待つ。
そういうことです

 本音では、寝たきりの念仏ばあさんのふりをしてその演技をするということと
同じではないか(笑)

 >>137
 「と言うことはない。」 という一言は、無意味な言葉だったでしょ(笑)。

145 :神も仏も名無しさん:2013/11/11(月) 21:05:41.53 ID:wy0SeuoE
臨終を待たなくていいんですよ。

146 :神も仏も名無しさん:2013/11/11(月) 22:51:26.46 ID:1lWFVarh
>>145
生きてるうちから極楽に行けるんですか?
それって具体的にどういう状態のことですか?

147 :神も仏も名無しさん:2013/11/12(火) 12:42:59.84 ID:aZf8R01p
昔の人たちには親鸞が説法がこんな風に見えたのでしょうか?

静岡新聞などで連載中の小説「亲鸾完结篇」の挿し絵がファンキーな件
http://togetter.com/li/584738

148 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2013/11/12(火) 13:50:11.62 ID:zkRbD1N3
>>146

 >>52以降、不体失往生の問題について議論してきました。
 不体失往生について話が終わり、既に体失往生の議論に入っています。
 議論がループする可能性がありますので、渡海難は、>>146に対するコ
メントを控えます。
 書き込み自由の掲示板ですので、別の方がこの問題にコメントすること
は、渡海難は反対しません。
 
 体失往生についての議論が>>107で止まってしまいました。>>146に付い
てはノーコメントとし、暫くしたら、>>107の続きを書きたいと思います。

149 :神も仏も名無しさん:2013/11/12(火) 14:15:10.77 ID:ZqBe8Y4n
>146

   親鸞聖人御消息

有念無念の事

 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、
いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、
すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。
来迎の儀則をまたず。

☆それ他力か自力かによっては阿弥陀仏の来迎を待つか待たぬかの違いがある。

坐禪、瞑想や諸行の人は十九願の往生にて臨終の際には阿弥陀仏の来迎を待って往生する、
ということが親鸞のお言葉にある。
十八願を疑いなく信じる人は臨終時に阿弥陀仏の来迎を期待しなくとも浄土へ往生することが
すでに決まっている。
まあ結局は大慈悲によって救われていることは同じこと、現生で自力を捨てられぬ人も
臨終時に来迎をまてば往生すると消息の中ではっきりと述べられている。

150 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/13(水) 12:56:34.74 ID:zEPW7rXz
 暫く多忙です。

>>149
 「坐禪、瞑想や諸行の人は十九願の往生(である。)」ということが
書いてあると貴方が言う親鸞の−−お言葉(根拠)−−を、貴方が引用
紹介したら論議しよう。

 証文にあるというなら、その具体的証文の言葉を共通の認識にして議論
しなければ話にならない。

 貴方が具体的にその証文を出さないなら「親鸞のお言葉にある」という
レスに対し、

        −−笑止−−

 というコメントで僕は対応する。

151 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 13:06:55.19 ID:iF2k06ti
>>149
なるほど、生きてるうちから極楽に行くのではなくて、極楽に行くことが決定するということですね。
ありがとうございました。

ちなみに極楽って本当にあるんですか?

152 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 14:08:50.70 ID:YLepihYL
>>150
歎異鈔ではなくて親鸞の消息の中から具体的に指摘されてだいぶ
衝撃を受けたようですねw
衝撃の大きさに多忙中が長くなりそうですね。
以下の文章を読みましたか?

  親鸞聖人御消息

有念無念の事

 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、
いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、
すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。
来迎の儀則をまたず。


一行目の諸行往生ということに「坐禪、瞑想、善行」をすべて含みます、以上の
行者は自力の行者で臨終に阿弥陀仏の来迎を待つということがはっきり読み取れます。
十八願による信心を得てないとはっきり書かれています。
証拠として不適切ですか?これほどはっきりしているのに。。
諸行往生は十九願ですよと無量寿経に書かれています、今更コピペする必要はないでしょう。
不信があるなら原典に当たってください。

153 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 14:12:11.82 ID:YLepihYL
>>151
> ちなみに極楽って本当にあるんですか?

形あるものは形而下のこと形がないものは形而上のこと、
形がないものを証明するのはできませんが、
あると思う人は確かにあると確信しているでしょうね。
そもそも宗教とは清沢満之さんの言葉によれば
すべて主観的事実ですから個々の主観によって違いますね。

154 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 14:17:58.83 ID:YLepihYL
>>151
> なるほど、生きてるうちから極楽に行くのではなくて、極楽に行くことが決定するということですね。


ちなみに「極楽に行く」という言葉も少々問題があるように思います、
普通に誰でも使う言葉ですが、意味をはっきりさせるためには
先ほども申しましたが形而上のことですから心の状態のことのほうが
正しいような気もします。
だから極楽状態wになる、つまり憂いなどが無くなる状態になることと
考えたほうがわかりやすいですね。
と私は思います。あなかしこあなかしこ

155 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 14:22:04.84 ID:YLepihYL
追伸

現生往生という言葉も浄土や極楽に往くというわけではなくて
心の状態を言う。と考えれば適当かと。

往生だから生きている間に実体ある空間としての浄土に往くと考えるとなんだか
へんてこりんな日本語になるような気がいたします。
あくまで形而上のことです。

156 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 14:33:21.88 ID:iF2k06ti
>>153-155
ありがとうございます。
ということは、生きてるうちから憂いなどが無くなって極楽状態になるんですか?
浄土真宗の信者やお坊さんは、そういう状態なんですか?

157 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 15:00:32.68 ID:YLepihYL
>>156
少なくとも鎌倉時代はそうでした、当時最大の恐怖は臨終後に
六道輪廻をさまよい生前の行いによっては地獄や畜生に落ちると
されていましたから、そのことがなくなり浄土へ往生ができると
確信するだけでも極楽じゃないですかw
現在の信者やお坊さんのことは個別のことなのでよく知りません、
というか私には答えることができかねます。
御清聴 ありがとうございました

158 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 15:38:35.91 ID:TCYe2Upv
>>157
なるほど。
今の人は六道輪廻をさまようとか別に信じてないから、
浄土真宗の意味って無いような気がしました。

159 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 16:20:11.85 ID:EvRsYdZp
今の浄土真宗は宗教としての形骸化・葬式仏教化が激しいが、親鸞聖人ご自身は立派な
志をお持ちだったと思う。それは親鸞聖人の師である法然上人の志を受け継いでいたから
だと思う。立派な堂塔伽藍を備えた寺を建立せず生涯を社会に生きる全ての人々を救おう
と活動されていた事からも理解できる。
でもその後の浄土真宗は私には受け入れがたいものがある。
実践者ではあったが理論家としては疑問点も多い、
南無阿弥陀仏の念仏で救われるというのは理論的に曖昧さが多く、その後の浄土真宗の
形骸化に大きく影響している。様々な解釈が出てくる教義というのは仏教論的な基礎が弱い
証拠でしょう。
お釈迦様ではなく阿弥陀如来を信仰すること自体、どうなのでしょうね。

160 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/13(水) 16:49:38.02 ID:zEPW7rXz
>>152
>具体的に指摘されてだいぶ衝撃を受けたようですねw
        −苦笑−

>衝撃の大きさに多忙中が長くなりそうですね。

        −苦笑−   気が散るから呼ばないでくれ。


>一行目の諸行往生ということに「坐禪、瞑想、善行」をすべて含みます、

   証文を求めた核心部分が、証文のない本願寺坊主の脳内変換であることにきづ
 いてくださいな。   まあ、無理か。 (笑)

  多忙は2,3日〜1週間程度のつもりだ。 保証はしない。

161 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/13(水) 17:21:32.83 ID:zEPW7rXz
 追加
 「諸行往生ということに「坐禪、瞑想、善行」をすべて含」
 こういう証文は無いことは僕はよく分かっているから、捜さなくていいよ。
 渡海難は優しいだろう。

 それよりも、坐禪、瞑想、善行と19願との関係が分かってないようだから、
次回はここの説明をしてから、体失往生の話に復帰しようと思う。

 少し待っててね。
 

162 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 20:57:36.57 ID:sCAjMjS2
自分は145なんだけど、質問に答えていない。
ハッキリって、質問者さんがどういう状況にあるのか全くわからないから。
それぞれの状況に応じた回答があります。答えは一つなんですけどね。

163 :神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 21:23:47.30 ID:iF2k06ti
>>162
消えて。

164 :神も仏も名無しさん:2013/11/15(金) 12:57:39.15 ID:66IsLvsj
待てど暮らせど来ぬ人を
宵待ち草のやるせなさ

証文だしたろかな

165 :神も仏も名無しさん:2013/11/15(金) 17:04:26.84 ID:IYu/p5z+
待てど暮らせど来ぬ阿弥陀

166 :神も仏も名無しさん:2013/11/18(月) 11:11:11.14 ID:h6mibVlh
待ちぼうけ、待ちぼうけ
今日は今日はで待ちぼうけ
明日は明日はで森のそと
兔待ち待ち、木のねっこ

167 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/19(火) 15:33:51.66 ID:jCFkGSVO
  〜 門はすなわち八万四千の仮門なり、余はすなわち本願一乗海なり(化身土)。

 善導大師は八万四千種類以上という表現をしている。善導大師は、「たくさんある」というアバ
ウトな表現として八万四千余門という伝統的な表現をする。
 親鸞は、たくさんの仏道の修行の中に楔を入れ、二種類に分ける意思で善導の主張を換骨奪胎す
る。アバウトな表現として八万四千余門という表現をしている善導の文字面を剽窃しながら、「八
万四千の法門」と「余の法門」とに大上段に切り分け、親鸞独自の結論を導いていく。
 親鸞は言う。八万四千の門とその他とに分ける、と。八万四千の門は仮門である。余とは本願一
乗海である。八万四千の門と余門とは本質が異なる。余門こそが重要であり、余門以外が全て八万
四千の門に入ると主張する。

168 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/19(火) 15:34:40.39 ID:jCFkGSVO
 本願一乗海とは何か。
 本願一乗海を案ずるに、円融、満足、極促、無碍、絶対不二の教なり(行の巻き)。
 大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂
し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり(行の巻)。

 本願一乗海、真如一実の功徳宝海とは何か。それは無碍光如来の名を称することである。

 「帰命尽十方無碍光如来」の「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり(行の巻)
 「尽十方無碍光如来」はすなわちこれ讃嘆門なり。(行の巻)
 南無阿弥陀仏と称えれば、その中に礼拝門と讃嘆門が収まる。
 「願生安楽国」の一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の言なり。
 南無阿弥陀仏(帰命尽十方無碍光如来)という言葉は、「願生安楽国」という意味が続く。これ
は作願門である。天親菩薩が礼拝(帰命)するときの言葉である。
 つまり、南無阿弥陀仏と称えると言うことは、礼拝門・讃嘆門・作願門を実践することである。

169 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/19(火) 15:49:22.65 ID:jCFkGSVO
 安楽集に云わく、観仏三昧経に云わく、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう。(行の巻)
 父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつると(行の巻)
 念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。 〜  如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙
げて、父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)。

 称名はどのように実践するのか。念仏は念仏三昧をもって実践する。
 念仏三昧は無上深妙の禅門である(五会法事讃略抄 親鸞著,六要抄 存覚著)。
 念仏三昧は座禅して行うべきである。

 諸行往生とは、「座禅して念仏申す」という修行法以外の全てを含むということです。
 諸行往生の内訳は、煩雑なので省略します。興味があれば教行信証を読んでほしい。

 なお、参考までに。
 五正行の称名は礼拝門を通って化土で止まる(功徳大宝海に進まない)(化身土巻)。
 正定の業の念仏は功徳大宝海で止まる(蓮華蔵世界に入らない)(行の巻き)
 「座禅して念仏申す」念仏三昧は蓮華蔵世界まで至る(証の巻)

170 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/19(火) 15:51:22.78 ID:jCFkGSVO
 なお、持戒がなければ、園林遊戯地門を出て教化地に至ることはできないというのが親鸞の理解
であると考える(根拠は「五会法事讃略抄」)。

 持戒坐禪を正法と名づく。念佛成佛これ眞宗なり。佛言を取らざるを外道と名づく。禪律如何これ正
法なり。念佛三昧これ眞宗なり。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち佛
になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし。 (五会法事讃 略抄 親鸞真筆)

171 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/19(火) 16:05:27.25 ID:jCFkGSVO
 坐禪持戒は、実体的効果を得るために必要である。念仏三昧をしていれば、座禅はしていること
になる。しかし、戒律を保たないで自分は仏になるのだというなら、それは腹を空かした人が風下
に立ち、吹いてくる風を腹の中にため込んで空腹を満たそうというのと同じで、全く意味のないこ
とである。持戒は極めて重要である。

 「腹を空かした仏は教化地に至ることはできない」。そのように考える。 

持戒の勧めの意味は二つに分かれる。
 出家は、梵網戒を基本とし、その解釈は四分律による。
 在家は、五戒を守るのを原則とするが、その五戒は五常と読み替え、仁義礼智信を守る(改邪抄)

172 :神も仏も名無しさん:2013/11/19(火) 16:16:39.68 ID:ppaDeXRV
持戒というのはセックスしたらダメなんだよね、
宗祖はそのてんどうなんだ。
子供がたくさんいるけど

173 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/19(火) 17:26:28.45 ID:jCFkGSVO
>>172
 宗祖に破戒はない。
 宗祖は破戒者ではない。
 宗祖に破戒があるという主張には、根拠がない。
 宗祖が破壊者であるというのは、宗祖を貶めるための本願寺の謀略である。

 【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロンで盛んに書きました。
 過去スレを捜して欲しい。

174 :神も仏も名無しさん:2013/11/20(水) 02:35:14.45 ID:haJf9nCI
>>172
親鸞上人は法然上人の教え「修行の助けになるなら妻帯してもいい。」という
教えと「南無阿弥陀仏と念ずれば全ての衆生は浄土に救われる。」という思想を
実践する意味で肉食妻帯をしました。

親鸞上人が信じていた法然上人ご自身は持戒の清僧でした。

鎌倉時代当時、法然上人の教えを広めるパフォーマーとしての行動だったので
しょうが、戒律を守るという点から見れば浄土真宗は異端の仏教です。

歴史的な事実としても明治5年の太政官布告133号が発令されるまで、浄土真宗
以外の僧侶の破壊行為は重大犯罪で、江戸時代でさえ破壊僧は晒し者にされて
処刑されています。

では、法然上人や親鸞上人がまなんだ比叡山延暦寺、天台宗開祖最澄の考え
はどうだったかというと、飲酒妻帯肉食は厳禁でした。飲酒さえ禁じていたのです。

では法然や親鸞の教えが最澄の教えより革新的だったのかといえば、全くそんな
ことありません。最澄の思想は全ての鎌倉仏教の根本となるものを包含していま
した。日本仏教界の巨人ですね。法然や親鸞がやったことはそれを単純化しただ
けです。

175 :神も仏も名無しさん:2013/11/20(水) 09:15:54.03 ID:AtXNkPHN
子供があってもそれは他人の子供
ゆゑに破戒なし。
どうもありがとうございました

176 :神も仏も名無しさん:2013/11/20(水) 11:39:05.14 ID:C7scdmx7
クラシックを聞くようになってから友人が数人いなくなった。
歎異抄を読むようになったら友人がいなくなった。

会社でもボッチなので
南無阿弥陀仏を呟いてます。
なんだか屋根の上にいる気分。

このままでいいのだろうか?

177 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) :2013/11/20(水) 12:09:39.09 ID:hnpR0TPd
寧ろ逆に満足だろ
他に別に満喫だろ
当然正反対に充分だろ

178 :神も仏も名無しさん:2013/11/20(水) 16:07:05.77 ID:cBwKARqD
>>176
それ寂しいね。
数年後、十数年後、後悔するよ。
てか、クラシック聞こうが、歎異抄読もうが、友人なくさなくてもいいだろ。

179 :神も仏も名無しさん:2013/11/21(木) 09:35:42.04 ID:2aYJ1/mZ
仏教は鎌倉時代に初めて庶民の家庭に入ってきた
当然庶民は持戒などできない。
肉食妻帯だった親鸞、蓮如は持戒できていないということだろ。
持戒無しは化土までで坐禪持戒は功徳大宝海ということはどうかな。
おかしすぎる

180 :神も仏も名無しさん:2013/11/22(金) 09:51:23.47 ID:8wSJh7aG
>>170
>  なお、持戒がなければ、園林遊戯地門を出て教化地に至ることはできないというのが親鸞の理解
> であると考える(根拠は「五会法事讃略抄」)。
>
>  持戒坐禪を正法と名づく。念佛成佛これ眞宗なり。佛言を取らざるを外道と名づく。禪律如何これ正
> 法なり。念佛三昧これ眞宗なり。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち佛
> になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし。 (五会法事讃 略抄 親鸞真筆)


五会法事讃略抄が間違っているのでは?

181 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/22(金) 12:45:28.69 ID:xIuLsKDg
>>180
 / / x f s . j p / X s N b 9

 五会法事讃略抄の全文を照会しています。
 漢文と読み下し文とを併記しています。
 漢文とその返り点は、親鸞の直筆です。
 読み下しは渡海難が行いました。
 和訓と返り点は、鎌倉時代に完成しています。
 その意味で、親鸞の和訓、返り点には若干の違和感もあります。

 読んでみてください。

 なお、ファイルはヤフーのボックスに入れてあり、そのURLが極端に
長いので、短縮URLに変化したら、それが過去に2チャンネルであらし
に使われたようで、直接書き込んだら規制にかかってしまいました。
 http://から進んでください。

 無料オンラインストレージからmyyahooにつながっています。

182 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/22(金) 14:33:40.54 ID:xIuLsKDg
>>179
>当然庶民は持戒などできない。
 在家は五常を守れ。僧は戒律を守れ。 当たり前の話ではないか?
 親鸞は、人にできないことなど言ってないよ。
 
 八正道 
 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定
 本願寺は嘘をついてもいいですよと、教えているのか?

 若仏子、自ら妄語し、人に教へて妄語せしめ、方便して妄語せば、妄語の因、妄語の縁、妄語
の法、妄語の業あり。乃至、見ざるに見たりと言ひ、見しに見ずと言ひ、身心に妄語す。しかも
菩薩は、常に正語・正見を生じ、また一切の衆生をして正語正見を生ぜしむ。しかるを反りて更
に一切衆生をして邪語・邪見・邪業を起こさしめば、これ菩薩の波羅夷罪なり (梵網経 第四
重戒)
 本願寺は、見ざるに見たりと言ひ、見しに見ずと言ひ、身心に妄語しなさいと教えているのか?
一切衆生に邪語・邪見・邪業を起こさせようというのか?みんな凡夫だから?

183 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/22(金) 14:35:33.78 ID:xIuLsKDg
 凡夫なら、嘘をついても、売国しても、国の名誉を傷つけてもいい。さあ、みんなで嘘をつき
ましょう。教団大学では学生にそんなことを教えてるのか?
 日本の屑。日本宗教のゴミ。日本の文化の恥部というべきか。
元弁護士でいま龍谷大学教授の戸塚悦朗氏が「従軍慰安婦は犯罪なんですよ。北朝鮮の拉致と
同じ犯罪なんですよ」と語っています。
http://hirobuchi.com/archives/2007/03/post_177.html

 阿弥陀を信じた人は寝たきりのおばあさんの猿真似をして何もしないで死ぬ時をじっと待ちま
しょうと教えているそうだ。
 「本願寺よ恥を知れ!!」。本願寺教学に対しては、これ以上適切な言葉を僕は知らない


>持戒無しは化土までで坐禪持戒は功徳大宝海ということはどうかな。おかしすぎる

 >>169に書いてあることを、引用した形でわざわざ歪曲するというのは、どういう料簡だ?。
失礼な奴だな。

184 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/22(金) 18:57:16.41 ID:xIuLsKDg
>>179
肉食 浄肉不浄肉の文 「涅槃経言・・・」 (親鸞肉筆)
妻帯 僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。 (後序)
   何か不都合があるのか?

 餘人ありて淨行を樂まざれば、捨戒して家に還ることを聴す、若し復仏法の中に出家し、淨行を
修せんと欲すれば、應さに度して出家し大戒を受けしむべし(四分律)
 親鸞はこの方法を採ったんだろう。推定の証拠は十分にあると考える。

>蓮如は持戒できていないということだろ。

  蓮如が戒律を守っていなかったという証拠はない。

今『大経』には「唯除 〜 誹謗正法及誹謗聖人」と言えり。聖人を誹謗することは避けたい
ものだ。

>>176
>歎異抄を読む

 そんなものを読むより、論語を読んだ方がいい。
 論語を書写し、暗記するといいだろう。

185 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/22(金) 21:55:32.93 ID:xIuLsKDg
元弁護士でいま龍谷大学教授の戸塚悦朗氏が「従軍慰安婦は犯罪なんですよ。北朝鮮の拉致と
同じ犯罪なんですよ」と語っています。
http://hirobuchi.com/archives/2007/03/post_177.html

>当然庶民は持戒などできない。

 本願寺は、戸塚に、嘘をついてもいいですよと教えているのか。
 本願寺は、戸塚に、嘘は止めましょうねと言っているのか?

 本願寺は社会に向かって、本願寺は信じるに値しませんよと説いているか。
 本願寺は社会に向かって、本願寺の主張を信じてくださいと説いているのか。

 本願寺が社会的に信頼に値する物は何?
 本願寺は、何一つ信頼に値しないのか?
 いったい何を信じたらいいんだ?

 本願寺は、所詮ペテン師の集まりです。嘘つきばかりです。千三つです。
ゲスです。ノータリンです。憲法九条を守りましょう。嘘です。本当です。嘘つきです。

 本願寺は、社会に向かって、何を説くつもりなんだ? 嘘か?アホウか?ペテン師か?

 本願寺の坊主は戒律を守れ!! 在家には仁義礼智信を説いてみろ!!
 それができないなら、解散してしまえ。

186 :神も仏も名無しさん:2013/11/23(土) 14:49:32.84 ID:dPg7Qa+u
「なぜ持戒できていなかった」、ということが誹謗に当たるのだろうか?
別に持戒できないことで誹謗したつもりはさらさらないが。
持戒というものは真宗では大きな意味を持たないと考えているだけなのだが。

客観的データ

蓮如

妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。
子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。
死の直前まで公私共に多忙を極めた。

187 :神も仏も名無しさん:2013/11/23(土) 15:18:28.11 ID:dPg7Qa+u
持戒坐禪を正法と名づく。念佛成佛これ眞宗なり。

持戒坐禪は釈迦などの聖人が行うものこれは正法
念佛成仏は凡夫が行うものでこれは真宗

と読むのでは

188 :神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 02:20:17.19 ID:m8FEIx//
座禅しなければ 念仏しなければ と 縛り は 元々 何も無い

189 :神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 12:33:42.45 ID:D6LdNm7B
親鸞ってなんか高校時代いじめとかしまくってでも大人になって更正した俺偉いっていう
DQNのクズみたいな印象があるんですがどうなんですか?

190 :神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 12:37:01.21 ID:nxP0f7x2
そういうのはヤクザ上がりの牧師に多いよ。

191 :神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 13:47:11.36 ID:D6LdNm7B
何というか親鸞はセックスしまくりのリア充で
オタクっぽい人やぼっちをいじめてたのではないですか?
そこが気になって親鸞を好きになれません

192 :神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 13:55:00.11 ID:nxP0f7x2
好きになる必要はないっしょ。

193 :神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 14:04:02.96 ID:KrpPlqOT
>>189
逆でしょう。
親鸞上人は慈円(天台座主)という皇統につながる高貴な僧侶の時代に比叡山横川
で12年以上きっちり持戒で修行した天台法華一乗の秀才でした。
偈や和讃、歌の名人だったようです。
六角堂詣での修行を始めた29歳で夢告により比叡山下山を決意しています。

194 :神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 14:06:45.32 ID:KrpPlqOT
>>191
法然と共に罪人として流罪になっていた、立派な堂塔伽藍をもつお寺を建てなかったから
リア充ではないでしょう。

195 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/24(日) 14:27:40.70 ID:h89Dg6Mk
>>186
「なぜ持戒できていなかった」、ということが誹謗に当たるのだろうか?
持戒できないことで誹謗したつもりはさらさらない
持戒というものは真宗では大きな意味を持たない
生涯に5度の婚姻をする。・・・子を儲ける。

 酷い書き込みだよなぁ。>>191の書き込みの方がまだ可愛く見える。
 まあ、歎異抄コミンテルンの主張に疑いを挟むことなく、ひたすら信じて騙されているんだろう
と思うけどね。

 「秘密保護法案反対。九条守れ」。 赤旗と五星紅旗の翻りが目に浮かぶよ。
            −苦笑−

196 :神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 16:55:18.61 ID:pnz3ybX8
民衆の旗赤旗は 戦士のかばねをつつむ
  しかばね固く冷えぬ間に 血潮は旗を染めぬ
  高く立て赤旗を その影に死を誓う
   卑怯者去らば去れ われらは赤旗守る



民衆の酒 焼酎は 安くてまわりが速い
 焼き鳥固く 冷えぬ間に 血潮は顔を染めん
 高くたて杯を その影に涙あり
 特級酒 去らば去れ 我らは焼酎守る 

197 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/24(日) 17:11:29.92 ID:h89Dg6Mk
>>196

 苦笑

 >>186-187の主張が正しいなら、>>189,191のような考えが浮かんでくるよな。
人々が>>189,191のような考えを持つようになることが、コミンテルンの第一の
目標だろうと思う。

 人々が親鸞を蔑み、蓮如を蔑み、仏教による救済力を粉砕し、人々が自覚的に
覚醒していく道を塞ぎ、ひたすら寝たきりのおばあさん状態に誘導する。

 寝たきりのおばあさんと言えば、布団の上で口を開けて待っているだけ。排泄すら
自分で自律的にできない。これがコミンテルンの理想だ。介助がなければ死んでしま
う。人々をこうした寝たきりのおばあさん状態にすること、これを人権とはき違えるん
じゃないか。
 レーニン・スターリン・尾崎秀実・毛沢東・赤旗新聞の思想と、現代歎異抄論との関
係を明確化するには、僕の力では不可能だけど、精神的にはものすごく強いつながり
を僕は感じるんだ。

198 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/24(日) 18:00:47.11 ID:h89Dg6Mk
蓮如は持戒できていない(>>179
5度の婚姻をする。  子を儲ける。(>>186
    まるで東京裁判みたいな裁判だよな。

A級戦犯 平和ニ対スル罪
 A級戦犯は、法定されていない条項を適用し、不遡及の原則を無視してて裁かれ、死刑にさ
れた。
 ポツダム宣言には、国際法を守ると書いてあったのに、国際法を無視した復讐裁判だった。

 東京裁判はGHQが執行した。裁判官は、全員が戦勝国側で、その中には、日ソ不可侵
条約を破って参戦し、本来は裁かれるべきソ連もはいっていた。

 まさに日本にとっては屈辱の裁判だ。

 親鸞・蓮如は、コミンテルンが大好きなまさにこのA級戦犯扱いじゃないか。

199 :神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 22:46:38.40 ID:em0LsPcU
>>197
現代歎異抄論ってのがあるんですね。
その特徴と気に入らない所をズバッと教えてください。
たとえ話的なのではちょっ解りづらくなってきました。

200 :神も仏も名無しさん:2013/11/25(月) 08:09:15.01 ID:pWhY22D7
>>197
>>198
何事においても事実は大切だ本願寺を無理にコミンテルンと結びつける必要もない。

客観的データ

蓮如

妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。
子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。
死の直前まで公私共に多忙を極めた。


ということに間違いがあるならそれを正せばよいだけではないのか?
戒律を守るのが真宗だという渡海思想のために無理に事実を捻じ曲げる必要もなかろう。

201 :神も仏も名無しさん:2013/11/25(月) 08:20:18.38 ID:pWhY22D7
>>197
どうですか?
赤旗の歌詞を見てメロディーがすぐに出てきましたか?
1970年安保の頃は渡海さんも赤旗を振って活躍されてたのではないですか?

今日はもっと勇壮なインターナショナルをお送りします
ネットは便利でいいですね。
しばし若かりし日々を思い出して感傷に耽って下さい。

http://www.youtube.com/watch?v=KFlGfHCCZdQ

起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
醒めよ我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ
暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの


本願寺はコミンテルンという批判より、
世界的に珍しい世襲制度であり体制べったり宗派という批判のほうが多いようですよ。

202 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/25(月) 10:51:10.97 ID:x/CdbIWM
>>199
>現代歎異抄論ってのがあるんですね。 〜 ズバッと教えてください。

 ズバッ 開始  −現代歎異抄論とは、現代の歎異抄論です− ズバッ 終わり

>たとえ話的なのではちょっ解りづらくなってきました。

 現代歎異抄論とは何か。ズバッと申し上げましたが、ズバッと分かりましたか?
 貴方に分かりやすい話をするということは、恐らく極めて困難と思います。
 歎異抄論は、過去にもいろいろと解説してきました。良かったら探してみてくださ
い。しかし、あなたに分かりやすい話かどうかは分かりません。

203 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/25(月) 12:59:52.75 ID:x/CdbIWM
>>186
>持戒というものは真宗では大きな意味を持たないと考えているだけなのだが。

 蓮如上人を理由もなく誹謗中傷するな。

A 浄土真宗にはとても大事で、人々の誤った考えを正すことになる珠玉の文書、本願寺も専修
寺も公開を嫌って事実上、頑なに隠し続ける親鸞真筆の大般涅槃経要文 (専修寺蔵)

A−1 又言はく。「一切の江河は必ず廻曲あり。一切の?林(そうりん)は必ず樹木と名づく。
一切の女人は必ず諂曲多し。一切自在なるは必ず安楽を受く。
 釈尊は次のように説いた。「河川はすべて曲がりくねっている。全ての草むら、あるいは林は、
樹木を本質とする。女性は全て他人に諂(へつら)い、あるいはひねくれが激しい。人は、束縛
から離れれば安楽を得る」と。

 その時に文殊師利菩薩摩訶薩、即ち座より起ち、偏に右の臂(ひじ)を袒(かたぬぎ)、右膝
を地につけて、すすんで佛足を禮し、偈を説きて言ふさく。
文殊師利菩薩摩訶薩は、座から立ち上がり、右の肘から肩を脱ぎ、右膝を地につけて、すすん
で釈尊を礼拝し、偈を説いて次のように言った。

 一切の河は必ず廻曲あるに非ず。 一切の林は悉く樹木と名づくるにあらず。一切の女は必ず
諂曲を懐くにあらず。一切自在なるも必ず楽を受けず。佛の所説の偈、その義は餘りあり。 〜
 一切の女人は必ず諂曲を懐くこと是また餘りあり。何をもっての故に。また女人あり。善く戒
を持ち、功徳を成就せりと。」

204 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/25(月) 13:02:07.13 ID:x/CdbIWM
 「河川が全て曲がりくねっているわけではありません。全ての草むら、あるいは林は、樹木を
本質にしているわけではありません。樹木のない草むらもあります。女性は必ず他人に諂(へつ
ら)い、あるいはひねくれが激しいということではありません。束縛から離れれば必ず安楽があ
るということでもありません。釈尊先生の御説は、極端過ぎると思います。 〜 女性は必ず他
人に諂(へつら)い、あるいはひねくれが激しいというのも、また極端すぎる話です。理由を申
し上げます。女性であっても、熱心に戒律を守り、優れた徳を持っている方がいらっしゃいます」。

 戒律を守らなければ、男でも、女でも他人に諂(へつら)い、あるいはひねくれが激しくなり
かねない。戒律を守ることは、極めて重要である。僧は戒律を守れ。在家は五戒を五常と読み替
え、仁義礼智信を守れ。

A−2 いかんぞ菩薩は五事を遠離す。いわゆる五見なり。何等を五となす。一に身見、二に邊
見、三に邪見、四に戒取見なり。五に見取なり。この五見によりて六十二見を生ず。 〜 菩薩
は、いかんが六事を成就す。いわく六念處なり。何等を六となす。 〜 六に念戒。これを菩薩
は六事を成就すと名づく。 〜 

205 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/25(月) 13:21:09.79 ID:x/CdbIWM
 菩薩はどのようにして五事から離れるのか。五つの間違った考え、間違ったこの五つの考え離
れることをもって、五事から離れる。五とは何か 〜 四に戒取見つまり、戒律に対する誤解、
 〜 この五つの間違った考えで、六十二通りの誤った見解が生まれる。 〜 正しい菩薩は六
つのことを完成する。六念処という。具体的には、 〜 六に念戒である。戒を念じることを含
む六つのことをもって、間違った見解から離れるのである。僧は戒律を守れ。在家は仁・義・礼
・智・信を学べ。

A−3 もし精進を勤修すれども、菩薩はいまだ涅槃の樂の利益を得ず。 〜 自から戒律を疑
い、羸損あるが故なり。
 努力してもなかなか悟りを得ることができない。それはどうしてか。例えば、 〜 自分から
戒律を疑い、これによって損をしているからである。僧は戒律を守れ。在家は仁・義・礼・智・
信を学べ。

A−4 今出家して善根を已に斷ずといえども、よく戒を受持し、耆舊・長宿・有徳の人を供養
し、恭敬せむ。初禅乃至四禅を修習せむ。これを善因と名づく。かくのごとき善因は、よく善法
を生ず。〜 まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。
 善根は無くても、出家し、その上で戒律を守り、老人、あるいは有徳者を援護し、尊敬する。
如来禅は実践できなくても、それより下位の初禅乃至四禅程度であっても一生懸命訓練する。こ
れが善因である。このようなことを行えば、必ず善因として善法を得る。必ず悟りに至る。僧は
戒律を守れ。在家は仁・義・礼・智・信を学べ。

206 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/25(月) 13:23:10.70 ID:x/CdbIWM
B 教行信証 信の巻
 もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・
礼・智・信あることを知らんや。
 もし諸仏や菩薩方が、世間道と出世間道における善道を説いて人々を正しく教育するというこ
とがなければ、人々はどうして仁・義・礼・智・信を学ぶことがあるだろうか。学ぶことがない。
だからこそ、諸仏や菩薩方は、世間道と出世間道の両方を説き、人々に仁・義・礼・智・信の大
切さを説かなければならない。
 僧は戒律を守れ。在家は仁・義・礼・智・信を学べ。

C 浄土真宗にはとても大事で、人々の誤った考えを正すことになる珠玉の文書、本願寺も専修
寺も公開を嫌って事実上、頑なに隠し続ける親鸞真筆の五会法事讃略抄 (専修寺蔵)
 汝若し修せずしてすなわち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし
 貴方がもし、戒律を守らないで仏になるというなら、例えば空腹の人が風下に立ち、吹いてく
る風を腹に蓄えて腹の足しにするようなもので、全く意味のないことである。
 蓮如上人が、戒律を守らないで仏になろうとしていたひとなら、空腹の人が風下に立ち、吹い
てくる風を腹に蓄えて腹の足しにするようなもので、全く意味のないことである。
 蓮如上人は全く無意味なことをしていたのだろうか?蓮如上人は無意味なことをしていた。戒
律を守らないで仏になろうとしていた。そのようなことを、証拠もなく主張することは残念なこ
とである。

207 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/25(月) 13:23:50.56 ID:x/CdbIWM
『無量寿如来会』に言わく、 〜 ただ 〜 (親鸞聖人・蓮如上人を含む)もろもろの聖人
を誹謗せんをば除く。

208 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/25(月) 13:46:21.98 ID:x/CdbIWM
>>200
>妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子
を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。

 蓮如上人がどのような戒律を破ったのか、その条項を示してもらおう。
 蓮如上人が受戒した思われる戒律の中で、破った具体的な戒律の条項に該当がなければ、戒律
を破るということはあり得ない。

 >>200  ID:pWhY22D7さんよ。
 貴方は、結婚をしたということが破戒であると考えるのか?
 子供がいたということが破戒であると考えるのか。
 これは貴方にとってとても簡単な話のはずだ。それができないなら話にならない。できないな
ら、蓮如上人は破戒僧であるという主張は止めるべきだ。

 参考
 ヤショーダラ妃とシュッドーダナ王の子(釈迦)のあいだに、その顔容ラーフの敵と紛う息子、
ほかならぬラーフラと名づくる息子が誕生した
  (ブッダチャリタ 大乗仏典13巻 中央公論社 昭和49年発行)

209 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/25(月) 20:22:50.63 ID:x/CdbIWM
 在特会が行っていたヘイトスピーチを嫌悪する人はすくなくない。在特会が行って
いたヘイトスピーチを行っていたことは、ユーチューブでも動画になり、誰も疑いよう
がない事実であることは明らかである。しかし、それをもって在特会を犯罪者である
という者はいない。なぜなら、ヘイトスピーチデモを行っていたことは事実でも、ヘイ
トスピーチデモを犯罪と判断する法律は無いからである。

 本願寺の歎異抄コミンテルン坊主は、蓮如上人を破戒者よばわりするのを止めろ。
蓮如上人を破戒者というなら、その前に理由を示せ。議論はそれからだ。
 本願寺の坊主は、理由も言えずに浄土真宗の高僧を蔑み、貶め、誹謗中傷する
る行為を止めろ。

210 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/25(月) 21:04:35.53 ID:x/CdbIWM
>>186
>持戒というものは真宗では大きな意味を持たないと考えている

 >>186は、発言の根拠を示して欲しい。
 主張の根拠となる証文を求める。

 議論は、貴方が呈示するその証文から始まると思います。

211 :199:2013/11/26(火) 00:01:14.68 ID:K1kKOmrp
>>202
ごめんなさい。
念仏します。

212 :神も仏も名無しさん:2013/11/26(火) 08:58:57.33 ID:uiAqQYNn
>>210
末法の時代の戒律などについては
『末法灯明記』を教行信証 化巻で引用され説明されております。
いまさら説明する必要もないでしょう。
袈裟を着て戒律を守るような真似事は末法の時代にどのような意味があるのか、
町の中にトラを放すようなものではないか。

私は蓮如さんを破戒者と呼んだことは一度もありません、
渡海さんのかって読みに迷惑しております。
末法の時代ですのでいかに蓮如さんでも戒律を守れなかった
、若しくは守るべき戒律はなかった、
と言う理解ですのでそのように書いているはずです。
破戒者とは書いていません。

しばらく書き込み不能

213 :神も仏も名無しさん:2013/11/26(火) 10:22:52.20 ID:uiAqQYNn
論義するまでもない話なので真宗と戒律の話はこれで終わりにしたい。

214 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/26(火) 19:07:21.40 ID:J7/w5OPd
>>212
>いまさら説明する必要もないでしょう。

 我が所説の十二部経のごとし、あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり
(真仏土巻)。
 釈尊の教えは様々である。釈尊が、自分の思いに正直に語る随自意説もあれば、聞き手の心に合
わせた随他意説もある。自分と聞き手の両方の思いに合わせた随自他意説もある。話の内容は18
0度変わる。

 如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて、未だ六部を信ぜず。このゆえに名づけて「聞不
具足」とす。
 親鸞聖人の教えは様々な文書で書かれている。教行信証と歎異抄を信じ、大般涅槃経要文、五会
法事讃略抄を信じない。こう言う人を聞不具足という。

 教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をと
るべし(聞き書き)。
 信心なく、浄土真宗の深みを知らず、表面を眺めただけで分かったとは、思い込みたくないもの
だ。「いまさら説明する必要もないでしょう」などと、分かった振りはしたくないものだ。

215 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/26(火) 19:08:32.26 ID:J7/w5OPd
>破戒者とは書いていません。
 詭弁を弄するのは止めたらどうだ?
    −−不妄語戒 故意に虚言を吐かない。 (沙弥十戒 第四)−−
 若仏子、自ら妄語し、人に教へて妄語せしめ、方便して妄語せば、妄語の因、妄語の縁、妄語の
法、妄語の業あり。乃至、見ざるに見たりと言ひ、見しに見ずと言ひ、身心に妄語す。しかも菩薩
は、常に正語・正見を生じ、また一切の衆生をして正語正見を生ぜしむ。しかるを反りて更に一切
衆生をして邪語・邪見・邪業を起こさしめば、これ菩薩の波羅夷罪なり (梵網経 第四重戒)

 >>213は、嘘をつくことに抵抗がないようだ。残念な奴だなぁ。
 五に大叫喚地獄といふは、叫喚の下にあり。縦広、前に同じ。苦の相また同じ 〜 その寿八千
歳なり。 〜 妄語のもの、このなかに堕つ。(往生要集)

「蓮如さんでも戒律を守れなかった」と「守るべき戒律はなかった」とは、大変な違いだ。「ヘイ
トスピーチのデモ隊は法律を守れなかった」と「ヘイトスピーチのデモ隊には法違反を問う法律が
存在し無かった」とは大変な違いだ。ヘイトスピーチを禁じる法律が無い。だから、ヘイトスピー
チをやっても、「在特会は法律を守らない」という議論など聞いたことがない。

 「戒律を守れなかった」と言えば、蓮如は守るべき戒律があったのに戒律を守らなかった。つま
り、破戒僧だったということだ。
 蓮如には、守らなければならない戒律はなかったのか?

216 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/26(火) 19:09:26.32 ID:J7/w5OPd
蓮如 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82
 永享3年、青蓮院で得度し、中納言広橋兼郷の猶子となる。名を「中納言兼壽」と改める。
 青蓮院は天台宗の寺院であり、蓮如は17歳の時、そこで得度している。

得度   僧侶となるための出家の儀式。
 本来、僧侶になるには、仏教教団の十名の先輩構成員(三師七証)の承認があり、戒律を護る事
を誓う http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E5%BA%A6

 得度では受戒をする。鑑真和上は、出家の戒律を四分律と梵網戒とに限定してくれた。伝教大師
は、さらに四分律を後に下げ、僧は、梵網戒だけで足りることにしてくれた。ただし、梵網戒の疑
義については四分律をもって解釈しなければならないなから、天台宗でも、実際は四分律と梵網戒
との両建てだろうと考える。
 得度のとき、蓮如は何を受戒したか。四分律が全面に出てくる南都六宗では、多分波羅提木叉を
授けられると思うが、天台宗ではどうか。
 想像だが、17歳の時は、多分「沙弥十戒」が授けられたんだろうと思う。蓮如上人には守るべ
き戒律が無かったとは、余りにも幼稚な主張ではないか。少なくとも還俗しない限り、「沙弥十戒」
は一生守らなければならない戒律だ。蓮如には、守らなければならない戒律はあったんだよ。

217 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/26(火) 19:20:26.03 ID:J7/w5OPd
 比叡山には蓮如上人の遺跡がある。僕のあやふやな記憶では、たしか東大寺で菩薩戒を受けたと
いう記載が比叡山にあったと思う。
 西山証空上人は円頓菩薩戒を比叡山で受戒している。恐らくこれば梵網戒における十重戒と四十
八軽戒全体だろうと思う。東大寺での菩薩戒はあやふやだが、蓮如上人が同じような受戒をしてい
なかったとは思えない。

 受戒したらその戒律は守らなければならない。当たり前の話ではないか?受戒とは、その戒律を
守りますという誓いを立てることだ。最初から守る意思のない誓いは妄語となる。戒律が守れない
なら最初から受戒しない。僧にならない。僧になる四角がない。当たり前の話ではないか?。

 「蓮如さんでも戒律を守れなかった」
 不実の事をもつて仏を謗り、 〜 悪口して聖人を罵り 〜 これを十悪のものとなす。
      (往生要集)   残念な奴だ。

>>213
>論義するまでもない話なので真宗と戒律の話はこれで終わりにしたい。
  暫く書き込み不能と思ったが、不能期間は終わったようだ。

218 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/26(火) 20:52:28.19 ID:J7/w5OPd
>>216
× 沙弥十戒が授けられたんだろう

○ 沙弥十戒又は梵網経の十重戒がが授けられたんだろう

219 :神も仏も名無しさん:2013/11/26(火) 21:00:47.61 ID:JS3r2+B2
蓮如上人の時代まで本願寺は天台宗の末寺みたいな立場だったみたいですね。
比叡山で修行されたのも順当な話ですし、この時代までは六時礼讃を勤行としていたそうです。

220 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/26(火) 21:19:30.74 ID:J7/w5OPd
>>219
 本願寺は青蓮院の末寺で、比叡山から攻撃を受けると青蓮院に
度々保護を求めている。

 本願寺は青蓮院の末寺であり、青蓮院は天台宗の門跡寺だ。
本願寺のトップが率先して破戒していれば、青蓮院は立場がな
くなる。蓮如がおかしなことをしていれば、青蓮院から破門されて
いただろう。

221 :神も仏も名無しさん:2013/11/26(火) 21:19:43.94 ID:gdKvpga5
                                

222 :神も仏も名無しさん:2013/11/27(水) 11:20:40.19 ID:fjBVY69k
>嘘をつくことに抵抗がないようだ。残念な奴だなぁ。
>詭弁を弄するのは止めたらどうだ?
>残念な奴だ。

罵詈雑言は渡海さんには似合わないな。

そもそも話の発端は
真宗僧侶は守るべき戒律はないと言う常識に対して
真宗僧侶も戒律を守れ!在家は論語でも読んでろ!という渡海説では?

客観的データ

蓮如

妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。
子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。
死の直前まで公私共に多忙を極めた。

上のことを普通に考えれば蓮如さんには守るべき戒律はなかった、若しくは必要はなかった。
と言う推論がなぜお気に召さないのでしょうか?
もしあなたが言うように戒律を受け臨終時まで戒律を守ったなら上の公認されたデータは
どのように読むのでしょうか?
また戒名があるなら臨終時の蓮如さんの戒名を教えてください。
受戒したのち臨終まで戒律を守ったなら必ず戒名があるはずです、ご教授ください。

223 :神も仏も名無しさん:2013/11/27(水) 11:30:45.47 ID:fjBVY69k
忘れなさい

囲碁や将棋の名人は定石または定跡を勉強し、
勝負のときはそれを忘れて自分の考え一つで試合に挑む、
あくまでオリジナルな世界だよ。

佛道でも同じこと
経論釈を勉強しやがて忘れる、そして自分の言葉で語る。
この「忘れる」ってのが大変重要であり経論釈をいくらこねくり回しても
真実はわからないよ。

頼れるのは真実の法と自分自身じゃないか、
法を灯りとして自分を灯りとして一切皆苦の世を
転迷開悟するのが目的ではないですか。

224 :神も仏も名無しさん:2013/11/27(水) 12:41:07.93 ID:fjBVY69k
渡海さん、君の話には合理的なところがない
蓮如さんに27人もの子供がいるならたとえ十八で受戒したとはいえ
人生のある時期以降それを捨てて守るべき戒律がなかったと考える
他に合理的な説明がつかないだろう?
生涯戒律を守ったとするならそれは到底受け入れられない。
最後まで受戒者だとすると破戒行為になる、だから私は
ある時期以降戒律を守らなくてよい立場に転向したと理解している。
それともすべての子供が養子だったのかw

君の話は東京都知事の猪瀬さんの釈明と同じ匂いがしますよw
もうこれ以上議論する必要はないだろう。

225 :神も仏も名無しさん:2013/11/27(水) 12:42:12.66 ID:fjBVY69k
これ以降話があるならサロンの方へ移動して多くの人の意見を
聞こうではないか。

226 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/27(水) 13:15:33.58 ID:VsqLa03F
ID:pWhY22D7を相手にするのは止めます。馬鹿馬鹿しくてきりがない。

 同年仲冬、真仏上人初めて帰依したまう。 〜 聖人を招請し、即ち剃髪して御弟子となりた
まう。聖人かたく止め給えども、荐〈しき〉りに申されしかば、ちからなく戒師となりて薙染せ
しむ。 〜 真仏房と法名を授けたまいき。(親鸞聖人正統伝)

 ここから分かることを抽出します。
1 親鸞聖人正統伝という文書がある。
2 親鸞に真仏という名の弟子がいたと書いてある。
3 親鸞は真仏の戒師になったと書いてある。
4 親鸞が戒師になることは真仏からの申し出であったと書いてある。
5 親鸞は当初、戒師になることをかたく止めたと書いてある。 

 学者の説(真宗資料集成 第7巻)によると、正統伝は徳川時代の五天良空という人が編纂し
たようです。
 ここから推理を建てます。少なくとも徳川時代(1700年代)、高田派には戒律は重要であ
るという思想が存在していた。
 親鸞聖人は戒師になる資格を持っていたと高田派では信じられていた。このことは、かなり親
鸞思想の根幹に関わるかなり重要な事実でしょう。
 4,5については、事実の検証は困難であるが、徳川時代には4,5を肯定する伝承があった
と考える。現代でも4,5を否定する証拠は何もない。

227 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/27(水) 13:16:38.57 ID:VsqLa03F
 徳川時代、高田派では戒律を重視する考えがあったとすれば、その淵源は親鸞の五会法事讃略
抄と大般涅槃経要文まで遡ると考える。ただし、いまは五会法事讃略抄と大般涅槃経要文の引用
は省略する。

 上記の考え方をベースにして教行信証を読む。親鸞は繰り返し、戒律の重要性を主張する。

 ただ清浄に戒を有てる者、 いまし還りてこの正法を聞く。 悪と慢と蔽と懈怠のものは、 もってこ
の法を信ずること難し(行の巻)。
正法よく世間を超出す。 持戒・座禅を正法と名づく。(行の巻)
 清浄に戒をたもてる者、いまし正法を聞くことを獲ん(化身土)
 超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。(前序)
 五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除かん(信の巻)
人戒を持たざれば、諸天減少し、阿修羅盛なり。善龍力なし、悪龍力あり。悪龍力あれば、す
なわち霜雹を降して、非時の暴風疾雨ありて、五穀登らず、疾疫競い起こり、人民飢饉す、たが
いに相残害す。もし人、戒を持てば、多く諸天威光を増足す(化身土)。

 しかし、親鸞は教行信証でさらに言う。
 多聞と浄戒を持てるとを簡ばず。 破戒と罪根深きを簡ばず。(行の巻)
経文に準ずるに、千五百年の後、戒・定・慧あることなきなり。(化身土)

228 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/27(水) 13:17:28.64 ID:VsqLa03F
 今の時のごときは、これ最末の時なり。かの時の行事、すでに末法に同ぜり。しかればすなわ
ち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに
戒法なし、何の戒を破せんに由ってか破戒あらんや。破戒なおなし、いかにいわんや持戒をや。
(化身土)
 たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これ誰が信ずべ
きや。(化身土)

 歎異抄コミンテルンは、親鸞の主張の半分だけを強調し、もう半分を無視する。「持戒・座禅
を正法と名づく。」の一節で、真宗に正法は不用であるというきちがいじみた主張をする。唯徐
の文を完全に骨抜きにして親鸞の主張を歪曲し、誹謗する。

 我が所説の十二部経のごとし、あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説な
り(真仏土巻)。
 如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて、未だ六部を信ぜず。このゆえに名づけて「聞
不具足」とす。
 親鸞聖人の教えは様々な文書で書かれている。教行信証と歎異抄を信じ、大般涅槃経要文、五
会法事讃略抄を信じない。こう言う人を聞不具足という。親鸞聖人の考えは教えの全体構造から
把握しなければ、木を見て森を見ずと言うことになる。

 親鸞聖人の教えで矛盾したことがあり、分からなくなれば法華経の原理に戻る。法華経に戻る
ことも視野に入れながら親鸞の真意を考えてみたい。

229 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/27(水) 13:26:15.37 ID:VsqLa03F
 体失往生論は、しばらく棚上げにする。なお不体失・体失往生論は、佳境に入ると別の議論に
誘導しようとする書き込みがされて、核心部分の議論がし難くなったように、真宗戒律論も佳境
に入れば、また別の議論に誘導しようとする書き込みがされて核心部分の議論がし難くなる可能
性があります。
 
 どこまで突っ込んだ話ができるか保証はできません。可能な範囲でやってみたい。なお、親鸞、
蓮如の妻帯と戒律の問題は、可能な限り詳細に議論してみたい。

230 :神も仏も名無しさん:2013/11/28(木) 09:22:18.66 ID:xkO7Qpx4
>>197
>  レーニン・スターリン・尾崎秀実・毛沢東・赤旗新聞の思想と、現代歎異抄論との関
> 係を明確化するには、僕の力では不可能だけど、精神的にはものすごく強いつながり
> を僕は感じるんだ。


ものすごく範囲を広げすぎw
少なくとも本願寺は左翼と言うより伝統的な世襲制度を維持する保守本流でしょ。

231 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/28(木) 12:51:57.98 ID:t/DW5uTv
 世にくせごと(曲事)の起こり候らいしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈り
に心をいれて、申し合わせ給うべしとぞ覚え候。       (消息集)
 生活の中で困ったことが起きたら、それを契機にして、念仏を深く信じ、ものごとがよくなり
ますように、社会がよくなりますようという祈りを込め、できるだけ多くの人と一緒に念仏を称
えてみて下さい。

 念仏を称えようではないか。人々にこのように誘うと、人々は、三種類に分かれる。
 第一は反発型だ。冗談じゃない。俺はそんなの嫌だよ。俺にそんなことを誘うとはとんでもな
いやつだ。反発型はこのように反発する。
 第二は動揺型だ。どうしようかなと揺れ動く。表面的には反対しても、内心では誘われてもい
いと考える。誘いが無ければ念仏を称えることはない。誘いがあっても称えることはないが、う
まく誘われると念仏を称えてみようという型だ。
 第三は賛同型だ。誘いが無くても、自分から称えだす。念仏などやめろと言われても称える。
念仏を称えるのが好きという型だ。
 念仏をこれみよがしに称えるという変人もいる。こういう人は、他人がいないところでは称え
ないから、第二の動揺型と考えるべきだろう。
 親鸞は、反発型を邪定聚という。邪という字を使っても別に悪い人という意味ではない。その
人なりの信念があるわけで、ようするに念仏は嫌いだというだけである。聚とは、衆、あるいは
集という意味で、「人々」という意味だ。親鸞などが考えるような世界と別の価値観世界に信念
が固定している人々と考えればいい。

 動揺型を不定聚という。当今の凡夫は、 〜 また不定聚と名づく(化身土巻)。要するに、
現代において圧倒的に多いのは、この不定聚であるというのが親鸞の考えである。
 賛同型を正定聚という。練習が好きで、他人から誘われなくてもどんどん柔道の練習をする人
は、将来かならず柔道がつよくなる。念仏が好きで自分からどんどん念仏を称えて行く人は、多
少の違いがあっても必ず奢摩他・毘婆舎那ができるようになる。奢摩他・毘婆舎那ができるよう
になれば、きっと素晴らしい人になる。親鸞はそう信じている。

232 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/28(木) 12:53:36.45 ID:t/DW5uTv
 親鸞の教えは、一体だれに向かって説かれているのか。正定聚の人は自分から念仏を称えてい
くから、特に念仏に誘う必要もない。圧倒的に多いのは不定聚である。親鸞が念仏を誘っている
のは不定聚であると考えるべきである。その根拠は教行信証の前序から見ても分かってくる。

 竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船・・・(前序)。
 難思の弘誓とは何か。難思議の弘誓と書いてないところが大事なところだ。

 必至滅度の願  難思議往生(証の巻)
至心回向の願 不定聚機 難思往生(化身土巻)

 難思の弘誓とは、不定聚を極楽浄土に誘おうという決意表明である。現代において圧倒的多数
であり、誘われれば念仏を称えようかと思うような人、親鸞の仏教は、そのような人々に向かっ
て説かれ、そのような人々を正定聚にまで到達させようと考えている教えである。この点が親鸞
仏教の非常に重要なポイントであると僕は考える。

 仏教は対機説法である。仏教は機つまり器、相手の器量を見極めながら話をする。親鸞は末法
論を教行信証の化身土巻で展開している。戒律無効論は末法論の主柱である。化身土巻では、邪
定聚と不定聚を議論し、不定聚の結論部で戒律無効論を展開するという構造になっている。
 末法論は、現代の圧倒的多数である不定聚に向かって説かれている。親鸞の末法思想は、念仏
をうまく誘えば称えるが、誘わなければ称えることの無いような圧倒的多数の人に、念仏を誘う
文脈の中で出てくる話である。末法論、戒律無効論を、相手の器量に関わらず全ての人に向かっ
て説かれている教えであるといえば、持戒を求めている親鸞の主張が理解できなくなる。

233 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/28(木) 12:59:00.41 ID:t/DW5uTv
 教員免状には小学校教員免状・中学校教員免状・高校教員免状がある。初等教育の専門家と高
等教育の専門家とは畑が違う。親鸞は初等仏教の専門家として、仏教初心者である不定聚に向か
って「今は戒律を必要ありませんよ」と説く。「今は戒律を必要ありませんよ」という説明の文
脈に末法論を活用する。小学生には微分積分学は必要ありません。三角関数も必要ありません。
だから、小学校では、微分積分学も三角関数も教えない。そういうプログラムにしてある。釈迦
は、戒・定・慧を平行的に実践する三学を主張した。親鸞は、戒と慧とを後に下げ、仏教初心者
は定を先行させるプログラムを立てているということである。そのように考えるべきだろう。

 改邪抄における五常の勧めは、この考えと同じ文脈である。改邪抄で五常が置き代わるのは五
戒だけである。八戒、十善戒、梵網戒、四分律戒、全てが五常に置き代わると言っているのでは
ない。在家信者が、一番最初に受戒して仏門に入るときに受ける最初の戒、それが五戒であり、
それだけが五常で足りると言っている。
 不定聚が仏教に参加する上では、五常を守れ。仏教の戒律は不用である。親鸞は不定聚を仏教
に誘う上で、そのように説いている。

234 :神も仏も名無しさん:2013/11/29(金) 10:24:55.97 ID:mEl7QD1G
信に知んぬ。聖道の諸教は在世正法の為めにして全く像末法滅の時機に非ず。
已に時を失し機に乖むけるなり。浄土真宗は在世正法、像末法滅濁悪の群萠を斉しく悲引したもうなり」
(真聖全二の一六六)


正法の時代は坐禪持戒すればよかった、しかし末法の時代ではまったく意味を失っしまった、
念佛は正法の時代から末法の時代まで同じように衆生を救います。

235 :神も仏も名無しさん:2013/11/29(金) 10:32:31.64 ID:mEl7QD1G
悲しきかな垢障の凡愚、無際より已来、助正間雑し定散心雑するが故に、
出離その期無し。自ら流転輪廻を度かるに微塵劫を超過すれども、
仏願力に帰しがたく大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし。深く悲嘆すべし。
凡そ大小聖人一切善人、本願の嘉号を以て己れが善根とするが故に、
信を生ずること能わず。仏智を了らず、彼の因を建立せることを了知すること能わざる故に
、報土に入ることなきなり
(化土巻、真聖全二の一六五〜六)


自分で工夫して念仏するのは残念だな〜

236 :神も仏も名無しさん:2013/11/29(金) 11:32:10.64 ID:mEl7QD1G
親鸞さん入滅後750年さらに深化した末法の時代の衆生は、
親鸞さんの教えのうち
神祇不拝、国王不礼ぐらいを守っておけばいいのでは。。。。

237 :神も仏も名無しさん:2013/11/29(金) 11:33:02.66 ID:mEl7QD1G
>>236
抜けていた「ただ念仏して」

238 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/29(金) 12:38:36.44 ID:cNGNecYE
>>235
   ┏━━━━━━━━┓
   ┃   ∧_∧    ...┃
   ┃  ( ´・ω・`).    ┃
  ∧_∧ (m9  つ.     ┃
  (>>235 )人  Y       ┃
  ( O  つ '(_).      ┃
  ノ  ,イ━━━━━━━┛
  レ-'(_)
       自分で工夫して念仏するのは
       残念だな〜。 あれ!?


 −−>>235も念仏を称える念仏者になって
   みてから言いたいものだ−−

239 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/11/29(金) 15:20:49.46 ID:cNGNecYE
親鸞「どうだ。仏道に触れて、念仏を称えてみないか。きっと素晴らしい人生が開けるぞ」
男 「念仏ってなんだ?仏道か?仏道始めるとなると、酒は飲んではだめなんだろう。俺は女が
好きだ。女を抱いちゃいかんなんてそんなんは、俺は嫌だ」。

親鸞「酒は今まで通り飲めばいいだろう。女を抱きたい?別に悪いことではない。そんなことよ
り、困ったことが起きたときの用心に念仏を称える練習をしてみないか?」。
男 「酒も飲んでいい。女も抱ける。それで、念仏を称えて、それで仏道か?」

親鸞「そうだ。ただ、敢えて悪いことをしてもいいと言っているんじゃないぞ。お天道様に恥ず
かしくない生活をすればそれでいい。常識を守り、人に優しく(仁)、道理に叶い(義)、人と
は挨拶を交わし(礼)、真実を大事にし(智)、人との約束を守る(信)。こういう当たり前の生
活をすれば、その上で酒も飲み、肉も食い、女も抱けばいい。そして念仏を称える。それだけで、
きっと素晴らしい人生が開けるだろう」。

 親鸞はこのように不定聚に念仏を勧めた。

 ただ清浄に戒を有てる者、 いまし還りてこの正法を聞く。 悪と慢と蔽と懈怠のものは、 も
ってこの法を信ずること難し(行の巻)。
 行の巻の中のこの言葉の意味に触れておこう。行の巻であっても、教行信証の聞き手は不定聚
であることは変わりない。

親鸞「念仏を称えると言うことは素晴らしいことなんだ。お天道様を真っ正面から仰げる生活を
守りながら念仏を称えたなら、仏道の正法に触れていると言うことだ。正法に触れているという
ことは、それだけで仏道の戒律を守っているということと同じようなことになる。
 自分は戒律なんか知らないと思っていても、戒律を守っているのと同じ結果になる。さあ、お
天道様を真っ正面から仰ぎながら、念仏を称えるそんな日々を送ってみようではないか」。
 親鸞が不定聚に説いている真意はこんなところにあると考えていいだろう。

 それでは大般涅槃経の戒律の勧めはどう読むのか。考えてみよう。

240 :神も仏も名無しさん:2013/12/02(月) 09:59:03.90 ID:ud59blO4
バカバカしい、さっぱりわからんわ

241 :神も仏も名無しさん:2013/12/02(月) 11:35:28.94 ID:ud59blO4
渡海も時々バカバカしいと思ってるだろw
文字だけをこねくり回してもサッパリわからんだろう?
正直に答えたらどうだ、臨終までの暇つぶしだろう?
まあパチンコに行くよりましなだけと考えてるんだろ?
それとも人師になりたいのか?
まじめにやってるのか?まじめならゴメン。

242 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/02(月) 15:40:29.34 ID:aq/aUnLO
>>239
 <ちょっと加える>
 
男 「酒もいい。女もいい。それで仏道と言えるのか?そういうのは、仏
 道ではいけないんじゃ無かったか?」
親鸞「うん。そういう教えもある。でもその教えはもう古いんだ。現代には
 合わない(末法論)。」
男 「そうかい。それで、念仏を称えるとどうなるんだ。」
親鸞「念仏は闇夜を灯す懐中電灯(たいまつ)のようなものだ。それまで
 自分に見えなかった大事なものが自然に(他力)見えるようになってくる」。
男 「ふーん。随分簡単そうだな(易行)」。
親鸞「信じるのは難しいが(難信)、やることは簡単だ(易行)」。
男 「念仏ってのはどこでやるんだ?」
親鸞「どこでやってもいいんだが、最初は念仏道場でやろうではないか」。

それでは大般涅槃経の戒律の勧めはどう読むのか。考えてみよう。

     2,3日、多忙です。

243 :神も仏も名無しさん:2013/12/03(火) 00:52:58.47 ID:/YQ6ygmX
いやいや
これ一番わかりやすい
早くこれをやって欲しかった

244 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/05(木) 15:09:17.21 ID:bzJ/MyH1
 世にくせごと(曲事)の起こり候らいしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈り
に心をいれて、申し合わせ給うべしとぞ覚え候。       (消息集)
 生活の中で困ったことが起きたら、それを契機にして、念仏を深く信じ、ものごとがよくなり
ますように、社会がよくなりますようという祈りを込め、できるだけ多くの人と一緒に念仏を称
えてみて下さい。

 親鸞は念仏指導者だった。念仏指導者は、主として三つのことを考えている。
 第一はすそ野拡大である。念仏を知らないできるだけ多くの人に念仏を実践して貰おう。
 第二は練習場建設である。できるだけ多くの場所に念仏練習場を建設しよう。
 第三は指導者の育成である。次の時代の念仏指導者を育成しよう。
 親鸞は、以上の三つのことをかんがえていたようだ。

 親鸞の文書を読むと、ほとんど不定聚に向かって呼びかけている。不定聚には、一度も念仏に
触れたことの無い人と、少し念仏に触れたことのある人が含まれる。これに対し、大般涅槃経要
文は、将来の念仏指導者に向かって説いている文書である。大般涅槃経要文は、そのような文脈
で読むべきである。

 小学校の教室に入ると先生と生徒がいる。生徒は四則、つまり足し算・かけ算・引き算・割り
算が分かればいい。六年生くらいになると、小数点や分数でも割り算ができるようになってほし
い。しかし、微分積分や三角関数はいらない。だから小学校の教育プログラムに、微分積分や三
角関数は入っていない。

245 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/05(木) 15:10:50.33 ID:bzJ/MyH1
 小学生には微分積分や三角関数はいらないなら、教える先生にもそれはいらないのか。そんな
ことはないだろう。小学生もいずれは微分積分や三角関数を学ぶようになる。四則は高等数学の
基礎でもある。基礎を教える先生は、微分積分や三角関数などの原理は知っていなければならな
いだろう。

 念仏道場の学生には戒律はいらないと教える。お天道様を真正面から堂々と仰げるようであれ
ば、それで十分である。難しいルールはいらない。親鸞は不定聚にそのように説いた。
 しかし、念仏道場の指導者、あるいはその指導者を目指す者は、小学生であってよいはずがな
い。親鸞は厳しい言葉を投げている。

 善男子、出家の人に四種の病あり。この故に、四沙門果を得ず。何等を四病とす。謂く、四の
惡欲なり。一には衣のための欲、二には食のための欲、三には臥具のための欲、四には有のため
の欲なり。これを四惡欲と名づく。これ出家の病なり。四の良薬ありて能く是病を療す。いはく。
糞掃衣は、比丘の衣惡欲をなすを能く治す。乞食は、食惡欲をなすをよく破す。樹下は、臥具惡
欲をなすをよく破す。身心寂静なるは有惡欲をなすをよく破す。この四薬をもって四病を除く。
これを聖の行と名づく。かくのごときの聖の行は、則ち少欲知足と名づくことを得るなり。
 出家は、自分に欲が出てきたならボロ衣を着衣せよ。乞食となれ。樹下で寝ろ。身心を寂静に
せよ。この四つを要求する。親鸞は念仏道場の指導者、すなわち僧に対し、ホームレスにもなる
覚悟をもって戒律を守れ。親鸞は大般涅槃経要文ではそのように言っている。     −続く−

246 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/06(金) 10:55:27.51 ID:WQHOwLbz
 親鸞は念仏を指導する僧に要求する。「自己の煩悩を破れ」と。煩悩など破れませんなどと言う
戯言を親鸞は認めない。

 もし智慧よく煩悩を破すと言うは、到るためのゆえなり。破は、到らざるがゆえに破す。もし
破するに到らざれば凡夫なり。衆生はすなわちよく破すべし。もし、到るがゆえに破せば初念に
破すべし。もし、初念に破せずば、後にもまた破せず。もし、初にいたらばたちまち破すべし。
 智慧すなわち毘婆舎那は効果的に煩悩を破すと言うのは、毘婆舎那は、問題の本質に迫るから
である。毘婆舎那で破すというのは、これ以外には問題点の本質に迫るものが無いからである。
毘婆舎那でも煩悩を破することができない者がいれば、それは未熟者である。普通の人であれば、
(練習によって)効果的に破ることができる。問題点の本質に到達して煩悩が破れるとしたら、
毘婆舎那を開始したその瞬間に破れる。もし、開始の瞬間に敗れなければ、その後、しばらくは
破れないだろう。もし、最初に本質に迫れば、その瞬間に煩悩が破れる。念仏指導する者は自己
の煩悩を破れ。

 親鸞はなぜ比叡山を降りたのか。窮極の聖道門を求めたからだろう。念仏指導者は、歯を食い
しばってでも命を賭けて聖道門を極めよ。親鸞は、本願寺が隠蔽する陰で大般涅槃経要文を通じ
て訴える。本願寺がなぜ大般涅槃経要文を隠蔽するのか。内容を見れば明らかだろう。

 もし道を修せずば、すなわち解脱なし。一切の聖人が道を修するゆえんは、定業を壊して輕報
を得るがゆえなり。不定の業は果報が無きゆえなり。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、
すなわち聖道を求めて修習すべからず。もし、聖道を修習することを遠離して解脱を得れば、こ
の處(こと)はりあることなけん。

247 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/06(金) 10:56:50.90 ID:WQHOwLbz
 仏道を修行しなければ悟りなどあり得ない。(念仏指導する僧は甘い考えを捨て、聖道門を貫
徹して大乗の悟りを求めよ)世の中には様々な偉大な人々がいる。彼等が厳しい修行の道を歩む
のは何故か。決められている結果を打破し、悪業を積んでいても軽い報いで済ませようとするか
らである。結果が決まってないということは、結果そのものがないということではない。もし、
善因を積めば必ず善果を得、悪因を積めば必ず悪果を得る。このように全ての行為で決まった結
果を導こうとするなら、聖道門を求めて修行する資格はない。しかし、もし聖道門を修行するこ
とを拒んで悟が得られるなら、もともと、善因善果、悪因悪果という論理そのものが破綻してし
まう。

 解脱を得、涅槃を得ずば、またこの處(こと)はりあること無けん。善男子よ、もし、一切の
業で定んで果をえれば、一世の所作、純善の業は、まさにながくすでに常に安樂を受くべし。一
世所作、慇重の惡業は、またながくすでに大苦悩の業果を受けるべし。若し爾らばすなわち修道
し解脱する涅槃の人はなからん。
 悟りを開き、涅槃が得られないなら、善因善果、悪因悪果という論理そのものが破綻してしま
う。優れた人々よ。もし全ての行為が、やがて必ず確定的な結果を得るのであれば、つまり、善
因を積めば必ず善果が得られると決まっていれば、純粋な善を行った者は、永久に安楽が得られ
る。人間の行為で、いったん重大な悪を行ってしまえば、永久に大変な苦しみを受けることにな
る。もしそのようなことがあるなら、誰一人、修行を積んで悟りを得られる人はいなくなるだろ
う。しかし現実には、修行を積んで悟りを得ている人がいるのだ。

 純粋な善を行っても、永久に安楽が得られるということはない。どんな悪を積んでも永久に苦
しむということもない。どうか、どうか、結果を恐れず果敢に聖道門に挑戦して欲しい。
 親鸞は、浄土教を卒業した人々にそのように訴えている。

248 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/06(金) 10:58:13.56 ID:WQHOwLbz
 親鸞は不定聚に浄土門を説いていた。蓮如も不定聚に浄土門を説いていた。それでは、親鸞・
蓮如自身も不定聚の一人として浄土教を実践していたのか。そんなことを考えたら大きな間違い
である。親鸞・蓮如は、浄土門ではなく、彼等自身は浄土門ではなく、まさに窮極の聖道門を実践
していたのである。浄土真宗の教えを学ぶ上で、これは極めて重要な観点である。

249 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/06(金) 12:59:12.33 ID:WQHOwLbz
 念佛は聲聲に佛種を下す。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち佛になる
といはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし  (五会法事讃略抄)
 念仏は一声一声で仏になる原因を育てる。それでもなお念仏者は座禅と持戒を重視する。それ
は、仏になるということに、実体的な効果を持たせるためである。もし、座禅も持戒もなくて自
分は仏になると言えば、それは空腹の人が風下に立って吹いてくる風を腹にしまいこみ、空腹を
満たそうとするような愚かなことである。

 「河川が全て曲がりくねっているわけではありません。全ての草むら、あるいは林は、樹木を
本質にしているわけではありません。樹木のない草むらもあります。女性は必ず他人に諂(へつ
ら)い、あるいはひねくれが激しいということではありません。束縛から離れれば必ず安楽があ
るということでもありません。釈尊先生の御説は、極端過ぎると思います。 〜 女性は必ず他
人に諂(へつら)い、あるいはひねくれが激しいというのも、また極端すぎる話です。理由を申
し上げます。女性であっても、熱心に戒律を守り、優れた徳を持っている方がいらっしゃいます」。
(大般涅槃経要文)
 戒律を守らなければ、男でも、女でも他人に諂(へつら)い、あるいはひねくれが激しくなり
かねない。戒律を守ることは、極めて重要である。僧は戒律を守れ。

 親鸞蓮如は本当に破戒僧だったのか。他人に持戒を要求し、自分は戒律を守らないそんな嘘
つきだったのか。本当は誰が嘘つきなのか。
 『悲華経』「大施品」の二巻に言わく、 ただ、五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除か
ん、と(行の巻)。聖人を誹謗し、正法を廃壊しているのか誰か。検証したい。

250 :神も仏も名無しさん:2013/12/06(金) 15:23:35.39 ID:OmZg0EAK
>>249
>  親鸞蓮如は本当に破戒僧だったのか。他人に持戒を要求し、自分は戒律を守らないそんな嘘
> つきだったのか。本当は誰が嘘つきなのか。


やれやれトホホ

251 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/09(月) 13:08:55.53 ID:weZkjngG
 親鸞は破戒僧だったか。破戒僧だったと主張する者(肯定側)と、破戒僧ではなかったと主張す
る者(否定側)との論争の形で議論してみる。
 議論のルールを決める。

1 論証責任はどちらが負うのか。破戒僧肯定側が負うのか。否定側が負うのか。
 「あった」「なかった」という主張が互いに争う場合、「あった」という側が論証責任を負うべ
きである。なぜなら、「なかった」という論証は悪魔の論証だからである。「あった」という主張
の証明では、客観証拠を一つ出せば済むことが多い。「なかった」という証明は、無限に証拠提出
が要求されるからである。

2 論証方法について。
 肯定側が負うべき挙証義務と、否定側が負うべき挙証義務は同じか。異なるか。
 肯定側が負うべき挙証義務は客観的、自律的、合理的証拠であることを必要とする。
 否定側は、弾劾証拠を提出する。肯定側が提出する証拠に「疑いがある」という証拠を提出する。

3 無罪の推定
 「破戒僧だったはずだ」と推定するのか。「破戒僧では無かったはずだ」と推定するのか。破戒
僧だったという証拠が無かった場合、どのように考えるのか。
 論争の後、仮に破戒僧だったという証拠が見つからなかった場合、破戒僧では無かった。つまり
持戒僧であったという推定が、次の同様の議論のときまで持続すると考える。
 なぜなら、死者といえども人権がある。名誉ある。人権と名誉は、理由もなく毀損されるべきも
のではない。毀損するには、合理的な理由が必要である。

252 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/09(月) 13:12:06.73 ID:weZkjngG
 親鸞に守るべき戒律があるなら、その戒律を守っていたという推定を受けることは、生前のみな
らず死後と雖も、当然持っていると考えるからである。
 破戒僧だったかも知れない、破戒僧では無かったかも知れない。破戒僧だった可能性が50%、
破戒僧では無かった可能性が50%。要するによく分からない。この場合、破戒僧では無かったと
いう推定が作用する。
 破戒僧だった可能性が70%以上、つまり、双方の議論のあり方を見ていた観察者が100人い
た場合、70人以上が「黒」、30人以下が「白」と判断するような結果になったとき、親鸞は破
戒僧であったという推定が成立する。
 破戒僧だった可能性が60%未満、つまり、双方の議論のあり方を見ていた観察者が100人い
た場合、60人以下が「黒」、40人以上が「白」と判断するような結果になったとき、親鸞は破
戒僧であったとは言えない結論になると考える。
 破戒僧であったという証拠は見つからなかった場合どうなるか、破戒僧であったという証拠は見
つからなかったという結論になる。この場合、持戒僧であったという推定が成立する。なぜなら、
死者であっても保護すべき尊厳は守られるべきだからである。

 2ちゃんねるではサザエさんの尊厳を傷つけるアスキーアートがたくさん流れている。こういう
行為は、著者の著作権を侵害しない限り、非難されるべきではない。鉄腕アトムを中傷しても、ピ
ーターパンや桃太郎をいくら中傷しても、作者の著作権を侵さなければ自由に行いうる。守るべき
は著作権であり、サザエさんや鉄腕アトムの尊厳ではない。

 サザエさんや鉄腕アトムと親鸞とを同列に考えることは誤りである。親鸞は歴史上の人物である。
実在の人物である。死者の尊厳は、生きている人ほどの厚い保護ではない。しかし、理由もなくつ
まり、破戒僧であったという証拠は見つからないのに、「破戒僧であった」と言われるべき必要はな
い。「親鸞は、持戒僧であったと推定できる」という主張を肯定すべきである。以上のように考える。

253 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/09(月) 13:13:34.49 ID:weZkjngG
4 その他
 なお、「親鸞は、持戒僧であったと推定できる」という主張を肯定すべきである。この考えは、
歴史の研究を否定するものではない。「親鸞は、持戒僧であったと推定できる」ということは、「親
鸞は破戒僧であった可能性はある」という「可能性」を否定するものではない。
 釈迦も、強姦魔、人殺し、放火魔であった可能性がある。鑑真も、最澄も、イエスキリストも強
姦魔、人殺し、放火魔であった可能性はある。「ある」か「ない」かと、可能性の有無を○・×で
聞けば、○である。ただ、それを証明する証拠が無いというだけである。
 親鸞は持戒僧であったと推定できるという環境のもと、歴史学者が、破戒僧であった可能性を親
鸞の中に追究する研究は自由に行なってよいことは言うまでもない。そういう歴史家は、釈迦も、
イエスキリストも、鑑真も、最澄にも、空海にも疑って欲しいものだ。ただ、証拠の捏造だけは止
めて欲しい。

 ID:pWhY22D7は泥棒ではないと推定されるべきである。ID:pWhY22D7は強姦魔ではないと推定さ
れるべきである。ID:pWhY22D7の持ち物は全て、合法的に取得されていると推定されるべきである。
ID:pWhY22D7は泥棒ではないぞ。ID:pWhY22D7は強姦魔ではないぞ。ID:pWhY22D7は人殺し、放火魔
ではないぞ。そういう人間としてID:pWhY22D7は処遇されるべきである。しかしそのことは、ID:pWhY22D7
が泥棒である。強姦魔である。人殺し、放火魔であるという可能性を否定するものではない。放火魔
の確率は、十分の一、二十分の一かも知れないが、可能性はある。ただ、可能性は六十%未満であ
ることに変わりない。六十%未満なら、泥棒ではない。強姦魔ではない。人殺し、放火魔ではない。そ
ういう人間としてID:pWhY22D7は推定されるべきであるということである。

254 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/09(月) 13:42:13.96 ID:weZkjngG
 ID:pWhY22D7は、理由もなく泥棒呼ばわりされる必要なない。親鸞もID:pWhY22D7と同じように
扱われるべきである。理由もなく誹謗中傷されることは、ID:pWhY22D7にあってはならないように、
親鸞にもあってはならない。物事は常識をもって考えたい。非常識な主張は退けるべきである。

 以下、双方の議論を聞いてみよう。蓮如は、親鸞に続いて議論をしてみたい。

255 :神も仏も名無しさん:2013/12/10(火) 08:20:20.40 ID:/fM+6r2H
>>251
@もともと議論が成り立たない、破戒僧だとは誰も言っていない、破戒僧ではなく
守るべき戒律はなかった、と述べているわけだ。親鸞、蓮如とも
ある時期出家して戒名をもらったとしても後に還俗するのはよくあることだ、
そうして妻帯して子供をもうけたと主張してるだけだ。
そしてこれが通説だ。

Aあなたが気にしている問題は現代風に言えばセックスしたかどうか?だろ。
ならば私はご両人とも当然セックスしたと答える。
男女が結婚し子供がいるなら当然セクスしただろう、蓮如さんには27人の子供がいるなら
当然セックスしただろう、これが世間の常識であり学会も認める通説だ。
従って常識や通説に異議があるなら挙証責任は異議を述べる側にあるだろう。
これもまた常識だ。

Bそもそもこの無理な話の発端は真宗僧侶は戒律を守れと言うあなたの主張からです。
真宗僧侶はが戒律を守らなければならないという前提からして間違っている。

C事実、真実をもっと大切にしようではないか、無駄に議論などせずとも
セックス無しで子供が27人いたと言うことが証明できれば
いくらでもその事実、真実に従います。

256 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/10(火) 14:19:29.54 ID:oKbVzcd5
第一の争点 ここから始めましょう
ID:/fM+6r2H「破戒僧ではなく守るべき戒律はなかった」
渡海難  「親鸞・蓮如には守るべき戒律があった」

渡海難:あった       ID:/fM+6r2H:なかった

 立証責任は渡海難ある。
 立証確度は60%を目標にします。
 判定はこのスレを見てくれている声なき善良な人々が、その内心で判断してくれると考えます。

ID:/fM+6r2Hの主張
 「戒律はなかった。なぜならばこれが通説だからである」。
    
渡海難の主張

一 通説はいくらでも変わり得る。かつて天動説が通説だったが、地動説を否定する 人はいない。
 通説は信頼に値しない。
二 教行信証の後序に言う
 承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。 
 〜 僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。
承元丁の卯の歳(1207年)、僧籍を剥奪されて遠流となったとある。
  
 絵伝に言う
 九歳の春の比、 〜 鬢髪を剃除したまいき。
 九歳の時、僧になったとある。

結論1 親鸞は九歳で出家し、三十五歳に僧籍を剥奪されるまで僧侶であった。
    この間は僧として戒律を守る約束をしていた。

 九歳の時に受戒した戒律は何だったか。一般に、沙弥十戒、あるいは梵網経十重戒のどちらかと
想定する。親鸞は、九歳から三十五歳までは、僧として戒律を守る約束をしていた。

257 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/10(火) 14:22:19.08 ID:oKbVzcd5
 九歳の時に受戒した戒律は何だったか。一般に、沙弥十戒、あるいは梵網経十重戒のどちらかと
想定する。親鸞は、九歳から三十五歳までは、僧として戒律を守る約束をしていた。

 親鸞の絵像は三つある。「安城の御影」「鏡の御影」「熊皮御影」である。
 いずれも僧服を着用している。
存覚は安城の御影について、「御小袖ハ桑ノ巻染」、「御火桶ハ桑也」、「御敷皮ヲ被用狸皮」、「御
草履ハ猫ノ皮」、「御鹿杖ハ桑ノ木」などと記す。
 絵伝に言う。
 御弟子入西房、聖人 親鸞 の真影をうつしたてまつらんとおもうこころざしありて、 〜 す
なわちかの法橋を召請す、定禅左右なくまいりぬ。すなわち、尊顔にむかいたてまつりて、申して
いわく、 〜 定禅問いていわく、「かの化僧たれ人ぞや。」くだんの僧いわく、「善光寺の本願御
房これなり」と。
 以上のことから、安城の御影、熊皮御影は善光寺の勧進僧の身なりと考える。
 親鸞は、あるときから善光寺の勧進僧となったと考える。

 正統伝に言う
 1 四十歳、 〜 同月下旬信州戸隠山へ参りたまい。熊笹の名号をあそばせり。其より善光寺
に一七日御参籠のことあり。
 2 宝永四年丁亥七月十九日、 〜 聖人戸隠山へ三七日御参詣あり。 〜 下向の時、善光寺
に御参詣、南門のほとり堂照坊に日を経て御寄宿あり。
 3 速に信濃国善光寺に来るべし。我身を分て、師に与うべし。はやく伽藍を建て、尊像を案置
し、澆季の支証にそなえ、末代の衆生を引導すべし
 4 真仏上人 〜 戒師となりて薙染せしむ。
 恵心尼の手紙にいう
 げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありし

 結論2
 親鸞は、三十五歳で僧籍を奪われた後、四十歳ころ、京都政権の権力の及ばない善光寺で勧進僧
として再度出家した。このとき僧として再度受戒した。
 善光寺で戒師の資格を得た。
 善光寺の末寺として高田専修寺を創建した。
 以上のことが推察できると考えます。

258 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/10(火) 14:23:40.60 ID:oKbVzcd5
 五会法事讃略抄は言う。   / / x f s . j p / J b 3 F w
 汝若し(戒律と禅定を)修せずしてすなわち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を
掩ふがごとし
 大般涅槃経要文はいう   / / x f s . j p / X s N b 9
一切の女人は必ず諂曲を懐くこと是また餘りあり。何をもっての故に。また女人あり。善く戒を
持ち、功徳を成就せりと。
 浄肉不浄肉の文を残し、食べて良い肉と食べてはいけない肉とを弟子に示している

 結論3
 親鸞は、戒律の重要性を認識し、自らも戒律を守り、弟子にも持戒を求めていた。

 以上をもって、親鸞は守るべき戒律があったと考えます。
 親鸞には守るべき戒律が無かったという主張は失当と思います。

 蓮如について
永享3年(1431年)、17歳。青蓮院で得度   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82
 得度によって天台宗の僧として受戒している。

 蓮如には守るべき戒律が無かったという主張は失当と思います。

259 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/10(火) 15:23:14.42 ID:oKbVzcd5
 質問・異論・反論があると思います。

 なかったなら、親鸞は戒律を守るべき義務を負い、その上で
破戒はあったか、なかったかという議論に進めます。

 なお、五会法事讃略抄と大般涅槃経要文が親鸞の真筆である
と言っているインターネット上の記録

 見聞集 親鸞63才の筆である。 〜 「五会法事讃」と「涅槃経」の一部を
抜き書きしたもので、第2分冊の中央に「見聞集」、左下に「愚秀親鸞」と親
鸞自筆の表紙がつけられている。
 大般若経要文 縦25p、横15.8pの袋綴の書物で、楮紙67葉からなる。
1頁に5行、1行に10乃至15字程度で、楷書体で墨書している。内容は涅槃
経、業報差別経、金光明経の中から親鸞の関心のあった個所を略抄したも
のである。残念なことに奥書がなく、書写した年代を確定できないが、筆跡
から親鸞70乃至80才頃と推定されている。
 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkazai/da/item/detail.asp?wag=5&prePageNum=2&mngnum=0000238

 本願寺・専修寺関係では不公開です。

260 :神も仏も名無しさん:2013/12/10(火) 16:07:47.16 ID:/fM+6r2H
>>259
>  質問・異論・反論があると思います。

根本的な異議はありますがひとまず保留しておきます。
親鸞、蓮如には守るべき戒律(この場合円戒のことであろう)があった
と言うことで進めてくださって結構です。
妻帯者である両人にたいしてどのような解釈が成り立つか楽しみです。

261 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/11(水) 15:50:01.79 ID:unwpKy5z
>>260
>根本的な異議はありますがひとまず保留しておきます。
 保留しないで出して欲しいですね。無視できない重要な論点が残っていると思いますよ。

>妻帯者である両人にたいしてどのような解釈が成り立つか楽しみです。

 妻帯者論は、これまでの議論でほとんど概要が推測できるところまで僕は示しており、ここを見
てくれている7,8割の人はもう見当がついていると思っています。

 ここで、妻帯者解釈論に進めば、戒律の存否論で議論すべき重要な残りの論点が素通りします。
貴方は戒律存否論の重要な論点をご存じないのですか?。
 「戒律はなかった。なぜならばこれが通説だからである」。貴方が言うように、なぜこれが通説
になるのか。その重要な根拠も知らないですか?。「通説」と言われると、貴方はそれだけでそれ
を水戸黄門の印籠のようにひれ伏してしまうのですか?。

 「戒律はなかった」。この議論はまだ重要部が残っていますよ。通説論者が主張する重要論点を
貴方の方から出して欲しいものですね。それとも、食べ物さえ口にスプーンで運んできて貰って「有
り難い、有り難い」というだけの、浄土真宗の理想像である輝かしい寝たりのお婆さんの真似を始
めたのでしょうか。

262 :神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 16:31:52.27 ID:NZqI9oIi
>>261
> てくれている7,8割の人はもう見当がついていると思っています。

多くて三人でしょw

> 貴方は戒律存否論の重要な論点をご存じないのですか?。

浅学菲才、一文不通の身の上なので勉強にもなりますので是非御教授いただけたら幸せです。

263 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/12(木) 02:23:07.70 ID:FEP4hMHV
>>262
>浅学菲才、一文不通の身の上なので勉強にもなりますので是非御教授いただけたら幸せです。

 こういう小賢しい受け答えは清沢満之以後のいかにも真宗の人という感じがします。向ける刃の
こちら手元が狂います。−苦笑−

 通説批判論を展開しているつもりなのに、通説派の主張を教えるというのは、相手に塩を送るようで
なんか変な感じがしますが、まあいいでしょう。授業料は要求しませんが、ここは重要な論点と思い
ます。

質問
 親鸞は善光寺で受戒したと言いますね。それでは次の和讃はどのように解釈しますか?和讃で
「無戒」というのは、親鸞聖人が語りかけている相手ではなく、親鸞聖人自身のことと思います。
 正統伝は徳川時代に書かれたものであり、親鸞聖人自身が書いたものではありません。両者が
矛盾するなら、親鸞聖人自身が書いたものに依拠すべきではないでしょうか。

無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等しくて 供養恭敬を勧めしむ
                                   (正像末和讃)
 恐らくこの和讃が親鸞無戒論の核心でしょう。

 ID:NZqI9oIiさん。浅学菲才、一文不通の身の上でも、ここはひとつ知恵を絞って考えてみてく
ださい。貴方は坊さんですか?もし坊さんなら、坊さんの意地にかけても、六割以上の人を納得させ
られる論理を組み立ててみてください。貴方の主観で構いません。

 親鸞聖人は善光寺の勧進僧だった?。勧進僧ではなかった?。受戒しなかった?。受戒した?。
受戒したけど、そんな戒律は上辺だけだから、本当はどうでもいい。自分は戒律など関係ないと
思っていた?。
 肯定・否定の根拠を考えてみてください。

 当方は数日間多忙、 書き込み不能です。

264 :神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 11:57:06.16 ID:37QwVGUH
>>263
> 授業料は要求しませんが、ここは重要な論点と思い
> ます。
>

ただで教えてもらえるのは冗談抜きでありがたい。
>
> 無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等しくて 供養恭敬を勧めしむ
>  恐らくこの和讃が親鸞無戒論の核心でしょう。
>
比丘って主語は親鸞さん自身のことのことでしょうか?
それとも末法と言われて久しい当時の比叡山、南都あたりの比丘一般のことでしょうか?

愚禿悲歎述懐

(94)
浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて
 清浄の心もさらになし


(95)
外儀のすがたはひとごとに
 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪偽おほきゆゑ
 奸詐ももはし身にみてり


このあたりまで、さらに(99)あたりまでは主語は親鸞さんと考えます。

265 :神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 11:58:24.50 ID:37QwVGUH
愚禿悲歎述懐

(96)
悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに
 虚仮の行とぞなづけたる


(97)
無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ


(98)
小慈小悲もなき身にて
 有情利益はおもふまじ
 如来の願船いまさずは
 苦海をいかでかわたるべき

(99)
蛇蝎奸詐のこころにて
 自力修善はかなふまじ
 如来の回向をたのまでは
 無慚無愧にてはてぞせん

266 :神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 12:01:32.31 ID:37QwVGUH
愚禿悲歎述懐

(100)
五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり


(101)
かなしきかなや道俗の
 良時・吉日えらばしめ
 天神・地祇をあがめつつ
 卜占祭祀つとめとす


(102)
僧ぞ法師のその御名は
 たふときこととききしかど
 提婆五邪の法ににて
 いやしきものになづけたり


(103)
外道・梵士・尼乾志に
 こころはかはらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり


しかしこのあたりはどうでしょうか?当時の風俗や僧侶一般のことを嘆いているように思えます。
続きます

267 :神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 12:05:26.20 ID:37QwVGUH
(104)
かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す

(105)
五濁邪悪のしるしには
 僧ぞ法師といふ御名を
 奴婢・僕使になづけてぞ
 いやしきものとさだめたる


(106)
無戒名字の比丘なれど
 末法濁世の世となりて
 舎利弗・目連にひとしくて
 供養恭敬をすすめしむ

以下省略


配列に従って読めば「無戒名字の比丘」という主語は親鸞個人のことか一般的な僧侶のことか
私にはわかりません。

268 :神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 12:49:00.78 ID:37QwVGUH
ただ愚禿悲歎述懐から読み取れるのは
親鸞が自己を見つめ限界を知ったことによる個人の嘆き、ともう一つ
時代による制約のため満足に佛道を極めることができない嘆き。

時代の制約というのは三時説による末法の時代と言うことです。
正法の時代は戒律を守り成仏できた。
像法の時代は戒律を破る人もいたが守る人もいた混合した時代。
末法の時代は守るべき戒律はもはや無いという時代。
(もちろん形式的には受戒しているわけだが事態としてはもはや無いに等しい時代)
以上のような認識が親鸞さんにはあったのでそれを嘆いているわkだと思います。

はしょって言い換えれば正法の時代は十九願でいける、像法の時代は二十願でもいける、
末法の時代には十八願しかない。と確信したことでしょう。
その深い核心が信心の中心だと思います。
鎌倉時代の状況はまさにそのようなことだったのです。
受戒しても戒なし、すでに比叡山は最澄さんの末法灯明記にあるように
そのような時代だったわけです。

戒律はあっても時代の制約上ないが如し、従って破戒という言葉は不適当で
むしろ無戒律ということでしょう。守るべき戒はない・

269 :神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 12:53:09.56 ID:37QwVGUH
東京から京都へ行くのに新幹線の切符を買えばあとは
乗車して居眠りだけしてればいいんだよ。
わざわざ上越新幹線に乗って新潟まで行きそこで乗り換え
在来線で京都を目指すこともなかろう。
渡海さんのように大津で一旦降りて比叡山まで歩いて登り後、
京都へ行くというのはあまりにも遠回りだ。

以下は端的に答えてください
@蓮如さんはセクスしたかしなかったか?

簡単でしょw

270 :神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 15:03:51.73 ID:37QwVGUH
>>268
> 戒律はあっても時代の制約上ないが如し、従って破戒という言葉は不適当で
> むしろ無戒律ということでしょう。守るべき戒はない・


ただし間違ってもらっては困るのは
無戒律といえども何してもよいと言うのではない、守るべき戒律の代わりに
信心を獲得するという目標はある、それに向って節度ある正しい生活をおくるのは
当然のこと。
正法のような時代に生まれれば正しく佛道を歩めたものを今は末法の時代
どのようにすごすか。ただ念仏して佛道を歩むしかない。それが本願念佛である。

無戒者親鸞は末法の時代ゆえ本来あるべき佛道を歩めなかった
ことで深い懺悔の気持ちを持ち続けたように思われる。
愚禿悲歎述懐は親鸞個人の悲嘆と末法の時代の佛道そのものを悲嘆しているようだ。

271 :神も仏も名無しさん:2013/12/13(金) 09:18:35.37 ID:DjHLtPD8
>>263
>  親鸞聖人は善光寺の勧進僧だった?。勧進僧ではなかった?。受戒しなかった?。受戒した?。
> 受戒したけど、そんな戒律は上辺だけだから、本当はどうでもいい。自分は戒律など関係ないと
> 思っていた?。


それ一番目の質問は善光寺との関係だが勧進聖であったかどうかは資料が少なく
確定した事実もないので答えられぬ。
しかし親鸞の聖徳太子への敬慕は尋常じゃないと思われる、法然さんの教えにはなかったことだ。
そのことをどう考えるかが問題、関東地方に広がっていた太子堂を利用して念佛を広める
方便であったのか、善光寺との関係で聖徳太子を利用したのか、はたまた比叡山は
伝統的に聖徳太子への信仰が深い霊場でもあったからその影響か?
または在家仏教者として大先輩である聖徳太子を別格に扱っていたのか?
聖徳太子に対する親鸞の敬慕を考えるのが先で善光寺の
勧進聖であったかどうかなどは枝葉末節のことである。

受戒したかどうかはすでに答えた、末法の時代のゆえ形式だけの受戒は受けた、
そしてその後法然より妻帯をゆるさた、そしてお上より僧籍を剥奪された。
事実はそうなっている。

272 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/20(金) 15:06:29.45 ID:g0gnpwE0
 仕事の遅延に加えて近親者の死亡、パソコンの入れ替えなどでなかなか書き込みできません。

>>264-271
 特にコメントする気になりません。

無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等しくて 供養恭敬を勧めしむ
 無戒名字の比丘の主語は、「私(親鸞)」という理解で間違い無いでしょう。
 無戒を親鸞以外の一般の僧にまで広げると、おかしな解釈になる。

A「和国の道俗みなともに仏教の威儀をもととして天地の鬼神を尊敬す」
B「僧ぞ法師という御名を奴婢僕使となづけてぞいやしきものとさだめたる」
C「南都北嶺の仏法者の輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり」
D「比丘比丘尼を奴婢として法師僧徒のとうとさも僕従ものの名としたり」

 もし、親鸞に限らず全ての僧に無戒を認めれれば、天地の鬼神を尊敬し、卑しき物に定め、高
位をもてなす名とし、従僕の名とすることは、親鸞は批判の根拠を失うことになる。無戒となれ
ば、天地の鬼神を尊敬してもいいんですよ。卑しき物に定めてもいいですよ。高位をもてなす名
としてもいいんですよ。従僕の名とすることもいいことだ。悪いことではない。みんな他力で救
われます。悪人正機ですからねという、現代浄土真宗の珍教義が生じる。なぜなら、これらを良
くないことという評価基準は全て戒律に基づく。良くないという評価を下す戒律が無くなれば、
それを弾劾する基盤がないことになる。

A 出家の人は法として国王に向かって礼拝せざれ。〜鬼神を礼せざれ。〜軽垢罪を犯す。 (梵
網四十軽戒)
B 若仏子、応に法の如く次第に坐すべし。先に受戒せし者は前にありて坐し、後に受戒せる者
は後にありて坐すべし。老少と、比丘・比丘尼と、貴人、・国王・王子、乃至黄門、奴卑とを問
はざれ。〜軽垢罪を犯す。 (第三十八軽戒)
C,D 若仏子、信心をもて出家して仏の正戒を受け、故らに心を起して聖戒を毀犯せば、一切
の檀越の供養を受くることを得ざれ。〜軽垢罪を犯す。 (第四十三軽戒)

273 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/20(金) 15:09:02.35 ID:g0gnpwE0
 愚禿悲歎述懐は、梵網戒を守るべき当時の一部の高僧達が、梵網戒に反した生活をしているこ
とを批判している。つまり、当時の僧の一部には、守るべき戒律を守らないけしからんやつがい
ると言っているのだ。みんな無戒で良かったね。悪人正機で救われますなどと、現代浄土真宗の
そんな馬鹿な珍教義を親鸞が主張をしているわけではない。

 正像末和讃は、親鸞が七十代、八十代のころに書いている。愚禿悲歎述懐もそのころだろう。
京都では、親鸞は弟の尋有権少僧都の世話になっている。尋有権少僧都は天台音楽の完成者だっ
たそうだ。権少僧都というから、法然上人よりも天台宗の中では地位が上だったんだろうと思う。
さらに親鸞には、兼有権律師、有意阿闍梨、行兼権律師という兄弟がいる。みな天台の高僧だ。
親鸞はこういう兄弟に支えられて京都時代を過ごす。教行信証の完成も、おそらくこういう兄弟
の力があったから成功したんだろうと思う。
 みんな無戒で良かったねなどという主張をすれば、天台宗の高僧の地位にある兄弟からの応援
は得られなかったろう。

 「かたがたよりの御こころざしのものども、かずのままに、たしかにたまわりてそうろう。」
 「護念坊のたよりに、教念御坊より、銭二百文、御こころざしのもの、たまわりてそうろう。」
(消息集)
 無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等しくて 供養恭敬を勧めしむ。
 自分は、受戒のない名ばかりの僧であるが、末法濁世の世となって舎利弗目連に等しく、供養
恭敬を勧めている。
 親鸞は布施を受けていない。供養料を受けている。親鸞は関東の弟子達に肯定的に供養料を求
めていたと解すべきだろう。
 「天地の鬼神を尊敬してはならない」というのは、梵網戒四十軽戒が基礎である。「天地の鬼
神を尊敬してはならない」という批判は、僧は戒律を守れと言う主張だ。僧は無戒ではなく、有
戒なのである。

274 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/20(金) 15:09:51.10 ID:g0gnpwE0
 供養は持戒僧だけが受けられる。破戒僧であれば供養を求める権利がない。これは梵網戒四十
軽戒の教えである。無戒の僧は供養を求めることができるのか。無戒となると、供養は受戒の僧
だけが受けられるというルールそのものがなくなる。供養は受戒の僧だけが受けられるというル
ールがないなら、無戒の僧が供養を求める行為を禁ずるルールはないことになる。このようにし
て、親鸞は無戒名字の比丘であるが、供養恭敬を関東の弟子達に勧めると言っているのだ。
 この論理に矛盾は無いのか。親鸞は本当に無戒だったか、有戒だったか問題になる。

275 :神も仏も名無しさん:2013/12/24(火) 10:30:45.53 ID:+tmIyYDP
>>272
近親者のご逝去にさぞかしお力をおとしでございましょう
ただ、お念仏申し上げるばかりであります

276 :神も仏も名無しさん:2013/12/25(水) 09:49:36.74 ID:LmnBmRSR
>>248
>  親鸞は不定聚に浄土門を説いていた。蓮如も不定聚に浄土門を説いていた。それでは、親鸞・
> 蓮如自身も不定聚の一人として浄土教を実践していたのか。そんなことを考えたら大きな間違い
> である。親鸞・蓮如は、浄土門ではなく、彼等自身は浄土門ではなく、まさに窮極の聖道門を実践
> していたのである。浄土真宗の教えを学ぶ上で、これは極めて重要な観点である。

それ生死をはなれ仏道をならんとおもはんに、二つのみちあるべし。一つには聖道門、二つには浄土門なり。

 聖道門といふは、この娑婆世界にありて、行をたて功をつみて、今生に証をとらんとはげむなり。
いはゆる真言をおこなふともがらは、即身に大覚の位にのぼらんとおもひ、法華をつとむるたぐひは、
今生に六根の証をえんとねがふなり。まことに教の本意しるべけれども、末法にいたり濁世におよび
ぬれば、現身にさとりをうること、億々の人のなかに一人もありがたし。これによりて、今の世にこの門
をつとむる人は、即身の証においては、みづから退屈のこころをおこして、あるいははるかに慈尊(弥勒)
の下生を期して、五十六億七千万歳のあかつきの空をのぞみ、あるいはとほく後仏の出世をまちて、
多生曠劫、流転生死の夜の雲にまどへり。あるいはわづかに霊山・補陀落の霊地をね がひ、
あるいはふたたび天上・人間の小報をのぞむ。結縁まことにたふとむべけれども、速証すでにむなしきに似たり。
ねがふところなほこれ三界のうち、のぞむところまた輪廻の報なり。なにのゆゑか、そこばくの行業慧解をめぐら
してこの小報をのぞまんや。まことにこれ大聖(釈尊)を去ることとほきにより、理ふかく、さとりすくなきがいたすところか。

唯信鈔             安居院法印聖覚作

277 :神も仏も名無しさん:2013/12/25(水) 09:55:58.19 ID:LmnBmRSR
>>276
>まことに教の本意しるべけれども、末法にいたり濁世におよび
>ぬれば、現身にさとりをうること、億々の人のなかに一人もありがたし。

親鸞蓮如と言えども億々の人のなかに一人もないようなことを実践
していたようには思えない。
不定聚と両者の教養は違うとはいえ聖道門を目指していたとはどうしても思えぬ。
その点が究極に解せぬところ。

278 :神も仏も名無しさん:2013/12/25(水) 10:33:23.44 ID:LmnBmRSR
また続けて謂く

 二つに浄土門といふは、今生の行業を回向して、順次生に浄土に生れて、
浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。
まことにたくみなりとす。ただし、この門にまた二つのすぢわかれたり。一つには諸行往生、
二つには念仏往生なり。

諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、
あるいは布施・忍辱を行じ、乃至、三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。
これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづから
の行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。
かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる ところなり。

唯信鈔

この中で大切なところは一乗の行とあるが、 ここでは天台宗の止観の行をいう。
そしてその止観とはこれは奢摩他毘婆舎那のことである。
☆これは自力往生でありダメとは言わないが阿弥陀の本願ではない、と述べられています。

しかん

1.止は梵語シャマタ(?amatha)の漢訳、観は梵語ヴィパシュヤナー(vipa?yan?)の漢訳。
もろもろのおもいを止めて心をひとつの対象に集中し(止(し))、それによって正しい智慧
(ちえ)をおこして対象を観(み)る(観(かん))ことをいう。

2. 『摩訶止観』のこと。(信巻 P.253、要集 P.832、要集 P.855、要集 P.905、要集 P.926、要集
P.956、要集 P.969、要集 P.972、要集 P.1018、要集 P.1028、要集 P.1037、要集 P.1136、要集 P.1167)

3. 心の中で観じてはならないこと (止) と、観じなければならないこと (観)。 (要集 P.1039)

279 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/25(水) 17:32:25.76 ID:Wx2qpiXt
>>277
> 不定聚と両者の教養は違うとはいえ聖道門を目指していたとはどうしても思えぬ。
> その点が究極に解せぬところ。

 やっと、浄土真宗の本質的な問題の所に近づいてきたようです。
 僕は、こういう疑問を待っていたんだ。
 浄土真宗とは何か。浄土真宗の本籍は、日本天台の法華経にあるということだ。

 法華経を読まずに、浄土真宗を論じるととんでもない勘違いに嵌り込む。
無戒の意味をもう少し説明してから、法華経の光で親鸞思想を説明しよう。

 親鸞は、ほとんと完璧に近い形で法華経を理解し、法華経を完璧に実践していた。
まさに親鸞は法華経の行者だったんだ。からこそ、天台の高僧の地位に立っていた
兄弟達から厚い信頼と尊敬を受けた。僕はそう思う。 

280 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/25(水) 17:37:40.96 ID:Wx2qpiXt
 『法華経』の普門示現の類(証の巻)

 出第五門を遂げた念仏者は、何をするのか。
 親鸞の足跡から普門示現の類の具体的典型例を学びたいものだ。

281 :神も仏も名無しさん:2013/12/26(木) 10:44:14.76 ID:V5QQ4ZMg
当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。
いずれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。
さりながら、末代われらごときの在家止住の身は、聖道・諸宗の教におよばねば、
それをわがたのまず、信ぜぬばかりなり(『御文』二帖目三通)


法華経はすばらしい、でも末代の凡夫には益なし。つまり
蓮如さんに対しても法華経は浄土へ導く方便としてあるわけです。
仏教は自己をどのように見つめるか自己をどのように理解しているかがポイント。
自己にあったお経を選べばよい訳です、それしかない。

282 :神も仏も名無しさん:2013/12/26(木) 10:47:20.19 ID:V5QQ4ZMg
比叡山から下山する

法華経→無量寿経への転入を意味していると思われます。
宗祖におきましても法華経は浄土門へ転入するための方便としてあったと思われます。

283 :神も仏も名無しさん:2013/12/27(金) 16:14:58.74 ID:ykI9ZU3E
本日、貴職が靖国神社に参拝されたことに対し、強く遺憾の意を表明いたします。
私たち真宗教団は、非戦平和を願いとして長年にわたり首相・閣僚の靖国神社公式参拝
について抗議や中止要請を行っており、本年8月5日にも貴職に対して、首相・閣僚による
靖国神社公式参拝に関する要請文を提出したことであります。
あらためて申すまでもなく、靖国神社は、国難に殉じた戦没者を英霊として祀る神社として
創設され、先の大戦まで戦争遂行の精神的支柱として国家神道体制の中心的な役割を担
ってきました。
「日本国憲法」は、戦争放棄を明確に謳い、信教の自由と厳格な政教分離の原則を定めて
おります。殊に政教分離の原則は、国家に対し宗教的中立性を要求し、特定の宗教と直接
結びつくことを禁止しており、貴職が靖国神社に参拝することは、この憲法の精神に著しく
反するものであります。
真宗教団連合は、今回の参拝に対し、強く抗議するとともに、今後の参拝に関しても引き続
き中止を求めていく所存であります。
平成25(2013)年12月26日真宗教団連合 理事長 里雄 康意

真宗教団連合加盟宗派

浄土真宗本願寺派
真宗大谷派
真宗高田派
真宗佛光寺派
真宗興正派
真宗木辺派
真宗出雲路派
真宗誠照寺派
真宗三門徒派
真宗山元派

284 : ◆K3PkkhVAkA :2013/12/28(土) 22:16:15.78 ID:h60wSyz1
(^-^) いよっ!!

285 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/29(日) 20:24:50.31 ID:FVjsoreT
>>283
   ノーコメント

 一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、
それ当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうえにも、また未
決定の人の安心をとらんとおもわん人も、こころうべき次第は、まずほかには王法を
本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、
 向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかんと
もがらは、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。
一 神社をかろしむることあるべからず。

 敵の銃弾に斃れ、あるいは戦地で病死された防人達、
 暗黒裁判で非業の死を遂げた国家のリーダ達。

靖国の英霊には、国家の平和の基礎として、信仰ではなく、国民全て
    が感謝の心で誠の礼を尽くしたいものだ。

         明日以降また書きます

  

286 : ◆K3PkkhVAkA :2013/12/29(日) 20:38:17.77 ID:vT1iUM7b
(^-^) いよっ!!!

287 :神も仏も名無しさん:2013/12/30(月) 14:54:17.49 ID:8pBxLeDA
親鸞聖人における出門と法華経の関係を正面から取り上げた論者はこれまでいたのだろうか?

288 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/30(月) 15:22:50.26 ID:QkN38B6z
>>274 親鸞は本当に無戒だったか、有戒だったか問題になる。

 無戒でしかも人々に供養を求めていたなら、求める方は気持ちがいいかもしれないが、供養を求
められた立場はどうなるのか。僧は釈尊の定めた戒律をできるだけ守る。だから、僧に対して供養
をしてやってほしい。釈尊はそのように人々に求めた。偽坊主にまで経済的物質的援助をしてほし
いなどと言うことを言っていたわけではない。

 一切天・龍、乃至一切迦タ富単那・人非人等ありて、みなことごとく合掌して、かくのごときの
言を作さく、「我等、仏一切声聞弟子、乃至もしまた禁戒を持たざれども鬚髪を剃除し袈裟を片に
着ん者において、師長の想を作さん。護持養育してもろもろの所須を与えて乏少なからしめん(化
身土巻末)。

 「禁戒を持たざれども」とは、無戒ということではない。破戒僧という意味だろう。「鬚髪を剃
除し袈裟を片に着ん者」とは、釈尊の定めた方式に従って正式に受戒したということだ。守るべき
戒律がある者という意味だ。守るべき戒律があるにも関わらず、それを守らない者、破戒僧という
意味だ。もともと無戒の者という意味ではない。鬚髪を剃除し袈裟を着る資格すらない偽坊主とい
う意味ではない。

 親鸞は無戒だったのか。偽坊主だったのか。そうではないだろう。受戒持戒の僧だったと考える。
それではなぜ無戒の僧と言っているのか。ここが問題になる。親鸞は、関東文化圏では受戒の僧
だった。しかし、京都文化圏では無戒だった。そう考える。
 親鸞は三十五歳の時、僧籍を奪われ、在俗の身となって遠流となった。仏教界からも永久追放に
なった。名誉回復は、明治になるまでなかった。親鸞は、明治時代、明治天皇から大師号を拝命した
とき、始めて名誉回復が行われた。その意味で、親鸞の大師号は重要であり、粗末に扱うべきもの
ではない。大師号は、親鸞を宗祖と仰ぐすべての人の悲願だったに違いない。

289 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/30(月) 15:50:14.18 ID:QkN38B6z
 仏教界から永久追放になった。それは京都政治圏・文化圏での話である。鎌倉時代、関東には独立
した秩序があった。善光寺は関東政治圏・文化圏にあった。親鸞は関東政治圏・文化圏では無罪が認
められた。京都文化圏では失われていた名誉も、関東文化圏では復活していたというべきだろう。む
しろ、京都文化圏では認められていなかった授戒僧つまり律師という地位も与えられていたと考える。
それは、教行信証の後序からその一部が推測できると考える。その論証は今は行わない。

  親鸞は流罪釈放処分を受けない内に鎌倉政権に救済を求めた。京都政権から見れば逃亡に外なら
ない。親鸞は京都政権から罪を許される機会を永久に失った。
 60歳は還暦と言う。還暦になると人は赤ん坊に生まれ変わる。親鸞は、暦の上では死に変わり、
生まれ変わるまで京都に戻ることができなかった。親鸞が京都に戻れたのは、還暦によって
死に変わり、生まれ変わったからだろうと想像する。
 京都に戻れたということは、市民になる資格は回復したということだ。しかし、仏教界での名誉回
復はなかった。善光寺で受戒したといっても、そのようなことは京都では効力がない。
 親鸞は京都に戻っても、関東の門弟には僧として法を説くことができても、京都の人々に対して僧
としての資格を主張することができなかった。鎌倉時代、将軍詔勅は天皇が出す。京都政治圏・文
化圏が主、関東政治圏・文化圏は従であったことは論を待たないだろう。

 和讃における無戒とは、親鸞はそういう意味のことを言っていると考える。

290 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/12/30(月) 16:03:45.70 ID:QkN38B6z
>>289
× 将軍詔勅
○ 将軍勅許

291 : ◆K3PkkhVAkA :2013/12/31(火) 08:43:59.59 ID:Vv3X5G4J
>>286
× (^-^) いよっ!
○ (^-^) イヨッ!

292 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/01(水) 01:07:29.54 ID:477jG6j0
>>277
>不定聚と両者の教養は違うとはいえ聖道門を目指していたとはどうしても思えぬ。その点が究
極に解せぬところ。

 また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じ
て、すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて「信不具足」とす、といえり。(信の巻)

 信心は二つのものを信じる。方法論と到達者である。親鸞蓮如と言えども聖道門を目指してい
たとはどうしても思えぬ。このように言って得者を信じることができない。これを信不具足とい
う。邪定聚・不定聚の典型的なタイプである。

 一切聖人、道果を得と雖も、自から稱説せず。稱説せざるゆえに、心悔恨せず。これを知足と
名づく。 (専修寺・本願寺が公開を拒む親鸞真筆の大般涅槃経要文)

 親鸞聖人・蓮如上人のような人々は、悟りを得ても自分からそれを積極的に言うことは無い。
積極的に言うことは無いから、後悔もない。これを足るを知るという。
 奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、人々に念仏指導できるようになり、出第五門を遂げて
普門示現の類となったなら、あなた方もそのように足るを知る人になって欲しい

 親鸞聖人・蓮如上人のような人々は、悟りを得ているとは御自分からほとんど仰らない。だか
らと言って、悟りを得てないわけではない。得者を信じるとは、親鸞聖人・蓮如上人のような人
々は悟りを得ていると、そのように信じる。これが大事なことだ。

 されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、我らが、身の罪悪の深き程をも知らず、如来
の御恩の高き事をも知らずして迷えるを、思い知らせんがためにて候らいけり。(歎異抄)

 奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、人々に念仏指導できるようになり、出第五門を遂げ、
これから念仏道場を開いて念仏指導者になるという方に、大事な虎の巻をお教えする。浄土真宗
の心を知らない>>277のような不定聚には決して口外してはならない。

293 :渡海 難 !ninja!nanja ◆Fe19/y1.mI :2014/01/01(水) 01:34:09.28 ID:JCspmdnW
 親鸞聖人も蓮如上人も身をすてて、平坐にて、みな同坐する。「愛欲の広海に沈没し、名利の
太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥
ずべし」このように仰る。
 よく考えて欲しい。>>277が自分(>>277)のことをどれだけ知っていると思うか。何にも知ら
んだろう。このような不定聚は、自分(>>277)自身が愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑
して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しむことも知らない。だからこ
そ、親鸞聖人は、>>277の現実をを御自分(親鸞)に映し、私(親鸞)は、愛欲の広海に沈没し、
名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざること
を、恥ずべしと仰ってくださっている。>>277と同じですよと、仰ってくださっているんだ。

294 :渡海 難  !ninja!nanja ◆Fe19/y1.mI :2014/01/01(水) 01:39:39.17 ID:JCspmdnW
 >>277に向かって、「お前は、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入る
ことを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざる者だ。恥を知れ。」などと言えば、>>277
耳を塞ぎ、>>277は以後何も聞こえなくなるだろう。だからこそ、親鸞聖人も蓮如上人も、>>277
の問題を、あたかもご自分(親鸞・蓮如)の問題であるかのようにして御身(親鸞・蓮如)に引
き掛けて、大事なご指摘をして下さっている。
 親鸞聖人が、本当に愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ば
ず、真証の証に近づくことを快んでいないと思ったら、大間違いだ。親鸞聖人も、蓮如上人も少
欲知足(大般涅槃経要文)の人であったことを忘れるな。ただ、>>277が、身(>>277)の罪悪の
深き程をも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷っている現実を>>277に思い知らせ
んがため、そのために親鸞・蓮如上人は、わざわざ聖道門の僧の智慧、法華経の智慧を実践し
てくださっているのである。

 教育指導者は、いったん相手と同じ立場に立つということである。法華経は次のように言う。
       続く

295 :神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 10:36:30.13 ID:rGwuGUO4
>>292
>>293
>>294
特にコメントなし

あけましておめでとうございます

296 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/01(水) 19:05:11.26 ID:JCspmdnW
>>295
 >特にコメントなし

  −苦笑− 

 小学生には、教室の先生がどんなポリシーをもって指導してくれているか、コメントなどできるわけがない。先生
は小学生の友だちであり、子供らと同じように鬼ごっこの鬼になり、かくれんぼの鬼になる。
 先生は僕らの友達だと信じていた子供が、やがて大人になると、あの時の先生は、大変立派な先生だったと振
り返って懐かしく思い出されてくる。
 
 浄土真宗の坊さんが、親鸞聖人を、いつまでもいつまでも「僕らと同じだ」と無邪気に信じ、その偉大さに気が付く
ことなく何百年もいたずらにただ経過するというのは実に情けない。

>あけましておめでとうございます

 当方は喪中の年ですので、新年のあいさつは欠礼させていただきます。
 今年も遠慮会釈のない辛辣な書き込みをさせていただきますが、どうぞよろしくおねがいします。

 蓮如上人の末弟として、靖国神社に初詣に行ってきました。大変な人出でした。護国の英霊に国家の安全を祈願
してきました。

297 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/01(水) 19:09:56.23 ID:JCspmdnW
 末弟というのは、言葉としておかしいかな?
 要するに、最後列の最後の弟子という意味です。

298 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/02(木) 11:42:03.20 ID:PBTWQyT9
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五
 世尊よ、観世音菩薩は云何にしてか此の娑婆世界に遊ぶや。云何して衆生の為に法を説くや。方便の
力、その事云何ん」と。
 仏は、無尽意菩薩に告げたもう「善男子よ、若し国土ありて、衆生の、応に仏の身を以て度(すく)うことを
得べき者には、観世音菩薩は即ち仏の身を現わして、為めに法を説くなり。辟支仏(びゃくしぶつ)の身を
以て度(すく)うことを得べき者には、即ち辟支仏の身を現わして、為めに法を説くなり。応に声聞の身を以
て度(すく)うことを得べき者には、即ち声聞の身を現して、為に法を説くなり。梵王(ぼんのう)の身を以て度
(すく)うことを得べき者には、即ち梵王の身を現わして、為に法を説くなり。 〜 応に童男・童女の身を以
て度(すく)うことを得べき者には、即ち童男・童女の身を現して、為に法を説くなり。 〜 無尽意よ、この観
世音菩薩は、かくの如き功徳を成就して、種々の形を以て諸の国土に遊び、衆生を度脱(すく)うなり。この
故に汝等よ、応当(まさ)に一心に観世音菩薩を供養すべし。(岩波文庫 法華経 1976年発行)

 親鸞聖人は、不定聚のために法を説くときは、不定聚の身を現わして、為に法を説いた。愛欲の広海に
沈没しているものには、愛欲の広海に沈没している身を現わして、為に法を説いた。>>277は不定聚だか
ら、親鸞聖人は>>277に向かっては不定聚の身となり、>>277の鏡になって>>277の姿を自分(親鸞)に映し
出して法を語ってくださっている。>>277は愛欲の広海に沈没している身だから、親鸞聖人は>>277に向かっ
ては愛欲の広海に沈没している身となり、>>277の鏡になって>>277の姿を自分(親鸞)に映し出して法を語
ってくださっている。

 親鸞聖人の本籍は法華経にある。親鸞聖人が悟っていた真理は法華経の神髄そのものであり、親鸞聖
人は法華経をそのものを体現していると思います。親鸞聖人の思想はどこを見ても必ず法華経に通じてい
る。法華経に通じてない部分があれば、我々自体がどこかで誤解をしているんだろうと思います。

299 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/03(金) 12:56:47.88 ID:f+MtSlfu
 若仏子、自ら婬し、人を教へて婬せしむること、乃至、一切の女人を故らに婬することを得ざ
れ。 〜 これ菩薩の波羅夷罪なり。(梵網戒)
 僧は、自分から積極的に異性とセックスをし、あるいは他人にその方法を教えてセックスさせ
てはならない。どのような女性ともセックスをしてはならない。セックスをした僧は僧団から追
放する。

 比丘、若し餘人ありて淨行を樂まざれば、捨戒(しやかい)して家に還ることを聴(ゆ)るす、
若し復仏法の中に出家し、淨行を修せんと欲すれば、應さに度して出家し大戒を受けしむべし、
自今已去當さに是くの如く戒を説くべし、若し比丘、比丘尼と共に同戒にして、若し捨戒せず、
若し戒羸(かいるい)して自ら悔(く)いず、不淨行を犯し淫欲の法を行ずれば、是の比丘波羅
夷不共住なり』と。是くの如く世尊諸の比丘のために結戒したまふ。(四分律)

 もし、愛する人が出現し、出家の戒律を守れなくなったなら、自分の意志で戒律を捨て、在俗
の家に帰るという選択を認める。その後、再び仏法に基づき出家の志をもったなら、再び出家受
戒の選択を認める。今後はこのように戒律を定める。男性僧、女性僧は、この件に関し同じ扱い
とする。もし、戒律を破り、反省をすることなく規則を破り、セックスを行えば、男性僧は教団
から追放する。釈尊はこのように男性僧に戒律を言い渡した。

 セックスをしてはならない。出家僧に定められた仏教教団の重要な定めである。親鸞は、三五
歳の時に僧籍を奪われ、在俗の身となる。四十歳のころ、善光寺の勧進僧に応募し、鎌倉政権の
下で名誉回復し、鎌倉政権の勢力下で再出家したと考える。
 西本願寺から恵信尼の手紙が発見されている。その中に「信蓮房」という子供の名がでてくる。
恵信尼はその子の生まれた日にちとほとんど時刻まで記載している。この子供はおそらく恵信尼
の子であり、親鸞の実子であったと推定すべきと考える。

300 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/03(金) 12:58:01.99 ID:f+MtSlfu
 親鸞には在家時代がある。三十五歳から四十歳までの数年間である。在俗の身の時代に妻がい
ても、何ら支障ない。在俗の時代に子が生まれても支障ない。実際、釈尊にも、在俗の時代に生
まれた子がいる。
 信蓮房は弘長三年(1263年)に五三歳である。当時の年齢はかぞえで計算するから1211
年ころに誕生している。親鸞が勧進僧に応募していたころ、すなわち、越後で在俗の身として過
ごしていた時代の話である。
  恵信尼は、越後三善氏の関係者である。親鸞は確かに流刑地では在俗の身として妻がおり、
子供も作っていたと考えられる。問題は京都時代、つまり流刑以前に女性とセックスをしていた
か。再出家後にセックスをしていたか。ここが問題である。
  流刑以前に親鸞がセックスをしていたという確証はない。確証はないのだから破戒僧だった
という主張は、コミンテルンが好きな暴論である。確証がなければ、無罪の推定をすべきである。
親鸞が女性とセックスをしていたなら、法然上人が親鸞を波羅夷罪で追放していただろう。親鸞
が、波羅夷罪で追放されていなかったということは、親鸞は破戒僧ではなかったということだ。
 再出家後、親鸞はセックスをしていたか。親鸞がセックスをしていたという確証はない。確証
がなければ、無罪の推定をすべきである。親鸞は恵信尼と離婚する必要はない。四分律は、セッ
クスを禁じているが、結婚してはならないというルールは決めてない。釈尊も妻と離婚すること
なく出家しているのだ。当時は、離婚という制度どころか、三行半という制度もない。親鸞は、
セックスレス夫婦だった推定すべきである。

301 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/03(金) 12:59:24.58 ID:f+MtSlfu
親鸞の周りには子が多い。当時、僧は、親が養育できなくなった子を引き取り、それを親に代
わって養育することが社会的仕事になっていた(地蔵菩薩和讃)。児童福祉事業こそ、空也上人
以降の僧の重要な仕事であった。親鸞もそのようなことを行っていたと考えるのが自然である。
現代でも、小学校に行けば、校長先生の周囲にはたくさんの子供がいる。校長先生はたいした精
力家だな、うらやましいと思うのはバカである。善鸞は親鸞の子供だった。京都時代の子であっ
た可能性がある。善鸞は恵信尼を継母と呼んでいるから、恵信尼の子ではない。おそらく親鸞の
親戚の子と考えるのが自然である。
 親鸞が僧の時代、セックスをしていたという証拠はない。証拠がないなら、戒律を守っていた
という推定をすべきである。これが、最も合理的な判断である。

302 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 08:35:34.38 ID:+43vYjHy
ぞうあくこのむわが弟子の邪見放逸さかりにて
末世にわが法破すべしと蓮華面経にときたまふ

罪福信ずる行者は仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとゞまれば三宝にはなれたてまつる

よしあしの文字をもしらぬひとはみなまことのこころなりけるを
善悪の字しりがほはおほそらごとのかたちなり

303 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 08:50:20.49 ID:+43vYjHy
三が日は酒が過ぎて頭が混しすぎですよ。

ちかごろはことのほか重杯のよし、 そのきこえあり。 言語道断しかるべからざる次第なり。
あながちに酒を飲人を停止せよといふにはあらず。 仏法につけ門徒とにつけ、 重杯はいなれば、
かならずややもすれば酔狂のみ出来せしむるあひだ、 しかるべからず。後略


証拠もない推測言い合っていても仕方がない、戒律の話はこの辺において
今年は前半で和讃についてやりましょうか
親鸞さんの心を知ってこそ著作の解釈も進む事でしょう。

304 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 08:57:48.42 ID:+43vYjHy
浄土門と言うのはそもそも戒律はないのが前提です、
だからもう戒律の話はこれぐらいでいいでしょう。
戒律無しと言っても何をしてもよいと言うのではない。
仏教の最上を知っていた親鸞は末法の時代の凡夫ゆえ
最上の佛道を極められなかった、だから心の叫びとして悲歎述懐を作った。

戒律の代わりに「深い懺悔」が必要なのは確か善導でしたかが述べていましたね。
汗腺から血の汗を流すぐらいの懺悔が必要だと。
親鸞さんの到達点もそのようなことでしょう浄土宗は戒律の代わりに懺悔です。

305 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 09:04:48.40 ID:+43vYjHy
そもそも罪福を信じて本願に頼らない人が浄土宗の獅子身中の虫じゃないかな。
何が善で何が悪かを選択できる能力があり、善だけを選び取るような智慧があれば
それは聖道門で浄土門じゃない。
二十九歳まで天台で修行した親鸞は法華経が身に染み付いてただろことは想像できる。
それが本願を信じきれないのは他人だけじゃなくて自身もそうだった、と嘆いているわけだ。

306 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 09:06:37.95 ID:+43vYjHy
>>305
訂正
×> それが本願を信じきれないのは他人だけじゃなくて自身もそうだった、と嘆いているわけだ。


○それが原因で本願を信じきれない自身をも嘆いているわけだ。

307 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 10:13:02.34 ID:+43vYjHy
親鸞が目標とした先達はどうであったか
以下は信楽論文から引用


ただ念仏を申すことによつて自然に成り立ってゆく行道であったのである。
阿弥陀仏の本願の念仏の道とは、本来そういう行道であつた。
『無量寿経』の教説の本意もまたここにあったわけである。
そしてこのような在家止住の念仏の道を見事に生きていった先達に賀古の教信がある。
教信とは平安初期の頃播磨の国賀古駅の辺りに住んだ念仏者であって(28)、
『一言芳談』には、  「賀古教信は、西には垣もせず、極楽とは中をあけ、あはせて、
本尊をも安ぜず、聖教をも持せず、僧にもあらず、俗にもあらぬ形にて、つねに西に向
て念仏して其余は忘れたるがごとし」(仏教古典叢書、一言芳談抄下の一五)
と伝えている。教信は終生身を世俗の中にとどめながら、しかもまた「僧にもあらず俗に
もあらず」として念仏ひとすじに生きた浄土の行人である。われわれはここに念仏の行道
において、世俗のただ中に止住しつつ、しかもなおその世俗を選びすてて出世に生きていった、
はるかなる先達を見ることができるのである。親鸞は『改邪鈔』に、
  「つねの御持言にはわれはこれ賀古の教信沙弥の定なりと云々」(真聖全三の六八)
と伝えている如く、この教信をよき先達としてこよなく敬慕し、ここにおのれの生きる道を学
んだのである。
 親鸞もまたその人生生活の姿勢を「非僧非俗」(化土巻、真聖全二の二〇一)と語っている。
親鸞における唯信の選びの構造は、またこの非僧非俗という表現を通して捉えることができる
であろう

308 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 10:20:21.35 ID:+43vYjHy
【教信沙弥略伝】

教信(786〜866)沙弥は伝記がそれほど明らかではなく、
光仁天皇(在位:770〜781)の子であるとの説もありますが、
確認しようもありません。
若き日は奈良の興福寺の学僧として唯識や因明という仏教論理学を専攻したそうですが、
どうにもこういった学問が虚しくなったそうで、“発心して”播磨の賀古駅という所へ退き、
学問も仏教も止めて妻帯し貧窮の中で生きました。

309 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 10:22:13.81 ID:+43vYjHy
貞観8年8月15日に81歳で亡くなった教信沙弥は死後に不思議な「奇跡」を起こしました。
この件については『日本往生極楽記』や『元亨釋書』など、多くの伝記で書かれているほど
の有名な話だったようですが、詳しくは以下のようなものです。
摂津国(現:大阪府北部)嶋の下の郡に勝尾寺というお寺があった。そこに勝(証)如聖人という
僧が住んでいて、お寺と別に草庵を建てて蟄居しながら無言の行を行っていた。弟子や側に
仕える者ですら会いに来るのは珍しかったくらいなのだが、ある日の夜に、柴戸を叩く音がする。
なにせ無言の行の途中だから返事をするわけにもいかずに、ただ咳払いをして合図をした。
すると戸外の人がいきなり宣言した。「私は播磨国(現:兵庫県南部)の賀古駅の北に住む沙弥
の教信という者です。長年南無阿弥陀仏と称えて極楽に往生したいと願いましたが、
今日その念願が果たされました。勝如聖人もまた明くる年の今月に阿弥陀仏のお迎えを得る
ことでしょう。私はそれを告げに参りました」と言うと去っていった。

これを聞いて驚いた勝如聖人は、次の日の朝に勝鑑という弟子を遣わして、この話が本当
かどうかを確認させました。すると、勝鑑が帰ってきてこのように報告しました。
賀古駅の北に竹で出来た庵がありまして、その前に置いてある死体を犬たちが食い漁って
おりました。庵の中には1人の老婆と1人の童子がいて悲しんでおりましたので理由を聞き
ますと、老婆が『あの死体は我が夫である教信沙弥のものなのです。一生涯、阿弥陀の
名号を称えて休むことが無く、周りの者からは“阿弥陀丸”と呼ばれておりました。
老いには勝てず、今、このような別れとなりました。それが悲しい限りです。
こちらは教信の子供です』と言っておりました。

310 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 10:30:13.64 ID:+43vYjHy
名号わづかに三字じなれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、 これをとなふるに、
行住座臥をえらばず、 時処諸縁をきらはず、 在家出家、 若男若女、 老少、 善悪の人
をもわかず、 なに人かこれにもれん。
唯信鈔

以上のように究極の教えとは「ただ念仏して」これです
沙弥の教信、親鸞そして現在の凡夫も皆同じ。

311 :神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 10:37:25.69 ID:+43vYjHy
初心者は念佛
上級者は坐禪瞑想などということはたわごと

本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。
たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどいひおどさ
るること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。
みづから他力の信心かくるのみならず、あやまつて他を迷はさんとす。
つつしんでおそるべし、先師(親鸞)の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、
弥陀の本願にあらざることを。

312 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/04(土) 12:20:15.54 ID:oNJp9L0x
>> 302-311 は無視します。

若し仏子、故らに肉を食せんや。一切の肉を食することを得ざれ。大慈悲の性の種子を断ち、一切衆生は見て、
去らん。この故に一切の菩薩は、一切の衆生の肉を食すること得ざれ。肉を食せば、無量の罪を得ん。もし故ら
に食せば、軽垢罪を犯す。(梵網経 第三軽戒)

聖人、別して勇猛精進の僧の威儀をただしくましますことなければ、ただ世俗の入道、俗人等におなじき御振
舞なり。よって、魚鳥の肉味等をもきこしめさるること、御はばかりなし。(口伝抄)
 親鸞は、宴席に招かれたとき、魚鳥の肉を食べていた。これは破戒となるのか。問題になる。

 親鸞は善光寺の勧進僧だった。善光寺は天台宗の寺であり、親鸞は天台宗の僧だった。日本天台は梵網戒を基
本とする。しかし、その解釈は、四分律、及びその他の経典全体から合理的に解釈する。

 涅槃経言、「人(ニン)・蛇・象・馬(メ)・獅子・狗(ク)・猪(チヨ)・狐(コ)・?(シ)猴・驢(ロ)」十種不浄肉 
又言、「三種浄肉。」見(ミル)聞(キク)疑(ウタガウ)。見(けん)といふは、わがめのまへにて殺(ころす)肉(に
くを)食(じきするなり)。聞(もん)といふは、わがれうにとりたるを食するをいふ。疑(ぎ)といふは、わがれう
かとうたがひながら肉食するをいふなり。この三つの肉食(にくじき)を不浄といふ。この三つのやうをはなれた
るを三種のきよき肉食といふなり。親鸞見分集(本願寺が公開を拒み続ける親鸞真筆集 専修寺蔵)

313 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/04(土) 12:20:57.04 ID:oNJp9L0x
 涅槃経はいう。人肉・蛇肉・象肉・馬肉・ライオン肉・犬肉・イノシシ肉・キツネ肉・さるの肉・ロバの肉、
これらは食べてはならない。
 このほか、自分が見ている前で殺した動物の肉は食べてはならない。自分(僧)にぜひ食べてもらおうと思っ
て特別に殺されて料理された動物の肉は食べてはならない。自分(僧)にぜひ食べてもらおうと思って特別に
殺されて料理された動物の肉ではないかと、そのような疑いのある肉は食べてはならない。
 これ以外は僧は食べることができる。

 肉食を禁止する戒律は必ずしも絶対的なものではない。肉食が認められる例外もある。特に作物がよく生産で
きる肥沃な地区と、寒冷で作物の得にくいところとは同列で論じるべきではないだろう。親鸞は持戒の清僧であ
った。それを覆す合理的な証拠が見つからない限り、推定を否定すべきではない。それが、合理的な判断方法で
ある。
 親鸞が出席した宴席は在家の人も参加していた席であり、親鸞一人のために特別にあつらえられた席ではな
かったようだ。親鸞以外の人にも提供する料理の一部が親鸞に提供された。このような肉であって、十種の不浄
肉にも該当しない魚肉であれば、梵網戒に反しないと考えるべきだろう。

 親鸞は、落ちこぼれで、強欲で、淫欲旺盛で女たらしでアウトローだった。だから破戒僧だった。無戒僧だっ
た。悪人正機で救われます。寝たきりのお婆さんが理想です。本願寺などが主張する親鸞聖人に対するこのよう
な誹謗中傷は、絶対に認めることはできない。

314 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/04(土) 15:17:49.77 ID:oNJp9L0x
 渡海難は親鸞を神格化しているんじゃないか。」本願寺のコミンテルンからはそんな批判が寄
せられるだろう。渡海難の主張は、平等主義に反する。差別主義だと。

 保育園の保育士さんは保育園児と一緒に砂場遊びする。園児は砂で遊ぶが、保育士さんは砂
で遊んでいるのではない。保育士さんが園児と遊ぶとき、育児的・教育的配慮をもって園児を観
察するのだ。園児は保育士さんを自分たちの仲間だと信じても、保育園児と保育士さんとは視線
の方向が違う。 「園児と保育士は視線の方向が違う」。こういう主張をしても、これは保育士さん
を神格化することにはならない。平等主義にも反しない。渡海難は当たり前のことを言っているに
過ぎない。現代の教育学が法華経の影響を受けているとは思わないが、法華経の示す真理を否
定したら、世界中どこに行っても教育は成立しない。法華経は、教育というものの普遍的な原理を
明らかにしているのだ。

 保育園の先生が保育園児に保育教育原理論などを教えることは決してない。親鸞も、不定聚達
に法華経を教えることはほとんどなかったろう。しかし、保育教育原理を知らないで園児の保育
はできない。親鸞は法華経に基づいて念仏指導をしていたのだ。

 親鸞は六角堂で夢を見た。だから親鸞は流罪前、京都で結婚していた。こういう信じられない
ような暴論を吐く連中がいる。真顔でこういうことを言う連中が後を絶たないから、次にこの問題を
考えてみよう。 

315 :神も仏も名無しさん:2014/01/05(日) 09:52:42.37 ID:ripGYFe+
創価学会に入信して法華経を学べば少しは親鸞を理解できますか

316 :神も仏も名無しさん:2014/01/05(日) 10:04:35.03 ID:ripGYFe+
>>299
>
> 四十歳のころ、善光寺の勧進僧に応募し、鎌倉政権の
> 下で名誉回復し、鎌倉政権の勢力下で再出家したと考える。

考えるのは結構だが本人の著作また直接面授した人物の著書にも善光寺の勧進僧という
記述がない。親鸞が勧進僧ならなぜ善光寺との関係を語らないのはどうか。

317 :神も仏も名無しさん:2014/01/05(日) 10:13:37.73 ID:ripGYFe+
親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉
・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。
ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。
wikiより

7人すべてが恵信尼の子供ではないと言う説はあるが、親鸞の子供ではない
という説はどうか。
恵信尼、覚信尼の言葉からはそのようなたわごとは伺えない。
過去の人の名誉にもかかわる重大な問題なので私は正史どおり覚信尼も
親鸞の子供と考える。

318 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/05(日) 13:04:08.63 ID:9x1viO2L
>>315
>創価学会に入信して法華経を学べば少しは親鸞を理解できますか
  ここに相談してくれ。http://www.sokanet.jp/
  http://www.sokanet.jp/honbu/access.html   渡海 難は門外漢だ。

>>316
>本人の著作また直接面授した人物の著書にも善光寺の勧進僧という記述がない。

本人の著作
 善光寺の如来の 我らを哀れみましまして 難波の浦に来たります 御名をも知らぬ守屋にて
 その時ほとおりけと申しける 疫癘あるいはこのゆえと 守屋が類はみな共に ほとおりけと
ぞ申しける
 易く勧めんためにとて ほとけと守屋が申すゆえ 時の外道皆共に 如来を仏と定めたり
 この世の仏法の人は皆 守屋が言葉を基として 仏と申すを頼みにて 僧ぞ法師は卑しめり
 弓削の守屋の大連 邪見極まりなきゆえに 万ずの者を勧めんと 易く仏と申しけり

 親鸞の結論  善光寺とは日本仏教の起源であり、延暦寺よりも古い由緒正しい立派なお寺な
んですよ。
  親鸞の裏の声−− 私は由緒正しい立派なお寺の関係者です−−

直接面授した人物の著書
  >>257参照

伝承
 同年四月十四日の夜子刻、聖人宮村の草庵にましまして霊夢の告あり。謂、一人の聖僧化来し
て言わく、師の願既に満足せり。速に信濃国善光寺に来るべし。我身を分て、師に与うべし。は
やく伽藍を建て、尊像を案置し、澆季の支証にそなえ、末代の衆生を引導すべしと云云。 (中
略) 同二十八日、造堂の工はじめて斧をめぐらす、棟梁の大工は、当国宇都宮広田大膳満正、
小工は真岡の藤木権之介忠安なり。
(高田正統伝  高田専修寺の起源 高田専修寺の本尊は善光寺から拝領した)
http://www.iitoki.jp/around/relation/post-7.html

319 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/05(日) 13:09:19.08 ID:9x1viO2L
親鸞が勧進僧ならなぜ善光寺との関係を語らないのはどうか。 
 善光寺との関係を語る資料
http://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/old/ja/exhibition_ja/20060612-20060804_001_002_025_ja.html

>>317
>7人すべてが恵信尼の子供ではないと言う説はあるが、親鸞の子供ではないという説はどうか。
 親鸞の越後時代に生まれた信蓮房は恵信尼の実子だと思う。それがどうかしたか?

>恵信尼、覚信尼の言葉からはそのようなたわごとは伺えない。
  そのようなたわごとがうかがえないという恵信尼、覚信尼の言葉を提示してから言え。

>過去の人の名誉にもかかわる重大な問題

 坊さんが子供を作ったという話は、僧の名誉に関わる誹謗中傷ではないのか?

 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し 我を冥土の父母と 思うて明
け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き   (空
也作 地蔵菩薩和讃)
   親を亡くした子供は、拾ってくれた僧を父母と思って明け暮れ頼んだ。

>私は正史どおり覚信尼も親鸞の子供と考える。

  真宗の正史など、所詮、コミンテルンが親鸞を中傷する目的で日本革命のために作ったねつ
造の歴史だろう。僕はそんなもの信じないよ。

 僧は、養い子を自分の子供として育てていたんだ。これが僧の社会的使命だった。覚信尼は、
親鸞の実子だったという主張こそ、親鸞と覚信尼とを誹謗中傷する言葉だろう。
 おぬしが何をどのように思おうが僕には関係ない。僕の話を聞いてくれたひとの内、60%
程度が賛成してくれることを僕は希望している。

320 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/05(日) 13:38:44.55 ID:9x1viO2L
 親鸞は、持戒持律の清僧だった。この推定を覆す十分な証拠はあるか。
 推定を覆す証拠はない。だから、親鸞は、持戒持律の清僧だったと推定すべき
である。
 今、渡海 難がやっている論証はそのための論証だということを忘れないでほしい。

321 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/05(日) 14:17:35.79 ID:9x1viO2L
覚信尼 1224年生まれ 親鸞52歳

 覚信尼は親鸞がおんなとエッチして生まれた子か?

 本願寺の正史 覚信尼は親鸞がおんなとエッチして生まれた子である。
 渡海 難    覚信尼は親鸞がおんなとエッチして生まれせた子ではない。

 渡海 難の根拠

 親鸞は、本質的には持戒持律の僧であると推定されるべきである。

 親鸞がエッチして生ませた子であるという証拠はない。
  僧は他人の子でも、自分を実の父親と思って頼りにせよと教える。
  僧が、「これは私の子です」と言っても、「エッチして生ませた子である」ということを意味しない。

 エッチしたいときには、僧はいつでも還俗が可能である。僧になりたいとおもえば、再出家も可能である(四分律)。
 覚信尼が親鸞の子であると紹介されても、親鸞が戒律を破ったことを証拠づけない。
 推定を覆す証拠がない限り、理由もなく推定は覆らない。

  覚信尼は親鸞がおんなとエッチして生ませた子であるというなら、そう主張をするものが、親鸞がエッチした証拠を
出すべきである。

322 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/05(日) 18:17:46.65 ID:9x1viO2L
  渡海難の主張

 若仏子、自ら婬し、人を教へて婬せしむること、乃至、一切の女人を故らに婬することを得ざ
れ。 〜 これ菩薩の波羅夷罪なり。(梵網戒 三重戒)

 若仏子、悪心を以ての故に、事なきに 〜 法師・師僧・〜を謗りて、〜十重を犯せりと言はん。
軽垢罪を犯す。(梵網戒 十三軽戒)

 浄土真宗の歴史的高僧が女とエッチしていたなどと、本願寺は証拠もなくその人権を無視し、人
格を否定し、誹謗する言動を止めよ。

 本願寺は、浄土真宗の歴史的高僧に人権を認めろ。

323 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/05(日) 20:07:25.26 ID:9x1viO2L
 寧ろ男根(なんこん)を以て毒蛇(どくじや)の口中に著くるとも、持ちて女根(によこん)の中に著けざれ、
何を以ての故に、此の縁を以て悪道に堕せざるも、若し女人を犯せば、身壊し命終して三悪道に堕す、何
を以ての故に、我無数に方便して断欲の法を説き、欲想(よくそう)を断じ、欲念(よくねん)を滅し、欲熱(よ
くねつ)を除散(じよさん)し、愛結(あいけつ)を越度(おつど)せしむ。我れ無数に方便して、欲は火の如し、
把草炬(はそうこ)の如し、亦樹果の如しと説く。又仮借の如く、猶ほ枯骨の如く、亦段肉の如く、夢の所見
の如く、鋒刃(ほうじん)を履(ふ)むが如く、新瓦器(しんがき)の水を盛りて、日中に著(お)くが如く、毒蛇の
頭の如く、輪転刀の如く、在尖標の如く、利戟刺(りげきし)の如し、甚だ穢悪(ゑあく)すべし、佛の呵責(か
しやく)したまふ所なり。 (四分律)

 親鸞は男根を以て女根の中に著けた。佛の呵責したまふ所なり。本願寺の正史がそのように言うなら、正
史はその証拠を示せ。
 本願寺は、浄土真宗の聖者を貶めることを止めろ。

324 :神も仏も名無しさん:2014/01/07(火) 08:43:43.65 ID:54My6/3x
>>323
貴殿がそう考えるならそれで御座無候
余道理もわきまえず近頃なにもかもみな忘れて候

325 :神も仏も名無しさん:2014/01/07(火) 10:33:15.59 ID:54My6/3x
ぞうあくこのむわが弟子の邪見放逸さかりにて
末世にわが法破すべしと蓮華面経にときたまふ

罪福信ずる行者は仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとゞまれば三宝にはなれたてまつる

よしあしの文字をもしらぬひとはみなまことのこころなりけるを
善悪の字しりがほはおほそらごとのかたちなり

326 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/08(水) 15:56:20.93 ID:rskK8F2e
>>325
 こんなことしか言えない自分が情けないとは思わないのか?。
 あ、本願寺の主張は何かおかしい。どこか変だ?。
 そういう思いというのは出てこないのかね?。
 本願寺が言っていることは間違っているんじゃないかと思うこと
は、とても恐ろしいことか?

327 :神も仏も名無しさん:2014/01/09(木) 09:43:11.52 ID:+0fKKhaM
>>326
何か大きな思い違いをなされているのでは?
私は本願寺教団としての主張より親鸞思想を語っていますが・・・
批判と言えば
龍谷大学の元学長(設楽)も本願寺をニセ真宗と著書でハッキリ書いています。
その他の宗学者も本願寺を批判することを恐れてなどいません。
私は親鸞を通じて末法思想、他力念仏、平等思想、転迷開悟、
同朋友愛などをの根拠を述べています。
下司の勘ぐりはどうかなと思います。

328 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/09(木) 17:09:04.20 ID:BwUWMwfw
>>327
>龍谷大学の元学長(設楽)も本願寺をニセ真宗と著書でハッキリ書いています。そ
の他の宗学者も本願寺を批判することを恐れてなどいません。

本物の真宗があるって!?

龍谷大学の元学長(設楽)の主張は本物の真宗だってか?

本物真宗とニセ真宗との違いは何?

龍谷大学の元学長(設楽)は、本物の真宗を説いていたのか?

 シンジラレン    −苦笑−

>同朋友愛などをの根拠を述べています。下司の勘ぐりはどうかなと思います。

  ナルホド。ナルホド。 ノーコメント。

329 :神も仏も名無しさん:2014/01/10(金) 10:43:03.54 ID:jXUz1z8c
新年早々 より消息頂きました

渡海難とかやの、いまだみもせず候ふ。また文一度もまゐらせたることもなし。
親鸞が教えを得たると申し候ふなるは、おそろしきことなり。
この2チャンネルにかきたるやう、あさましう候へば、なきことにし候ふべし。
かへすがへすこころうく候ふ。この文を人々にもみせさせたまふべし。
あなかしこ、あなかしこ。

   五月二十九日           親鸞


とおっしゃっています

330 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/10(金) 10:45:47.30 ID:WY3ivskH
>>314
 セクシュアルな夢を見たということは、比叡山を下りる原因がそういうセクシュアルなもので
はないか、と赤松氏は推測した。そして下山の動機は「性の悩み」と断定したのであった。〜こ
とに大谷大学の名畑崇氏が真宗連合学会第十回大会において、「親鸞の六角夢想の偈について」
という題で研究発表を行い、この行者宿報偈文は、親鸞の少し先輩にあたる金胎房覚禅という密
教僧の著『覚禅抄』に収録されている如意輪の文と酷似しており、これが親鸞の意識の底に眠っ
ていてそれが六角堂の夢となって現れたのではないか、と指摘した。〜論者の中には、この偈文
をもって「女犯の解禁」とか、「妻帯の承認」などと理解する向きがあるらしいことである。〜
「性の悩み」といっても、単純な性的欲望のためというのではなく、親鸞はいくら修行を積んで
も、性的欲望を断ち切ることのできない自分に絶望して、山を下り、六角堂の観音に今後の自分
はどう行動したらよいのか指示を求めようとして参籠したのではあるまいか
(真宗教団連合 編 『親鸞』 朝日新聞出版 2009年 刊行 「親鸞の生涯 平松令三」)。

 「行者報を宿して設ひ女犯すとも 我玉女の身と成りて 犯せ被らしむ 一生之間能く荘厳し
て 臨終に引導して極楽に生せしむ」文。救世菩薩、善信にのたまわく、「此は是我が誓願なり、
善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々(絵伝)

 本尊 王の玉女に変ずる事 又云く 邪見心を発して、淫欲熾盛にして世に堕落すべきに 如
意輪我王の玉女と成りて其の人の親しき妻妾と共に愛を生じ、一期生の間荘厳するに福貴を以てす、
無辺の善事を造ら令め、西方極楽浄土に仏道を成せ令めん、疑を生すること莫れ云々。
 (『覚禅抄』 如意輪 下 「親鸞伝の諸問題−親鸞の六角夢想の偈について 名畑崇」)

 名畑崇氏も指摘するように、覚禅抄と夢告とは、内容がほとんど同じである。両者の間に密接
な関係があることは疑いないと思う。両者には密接な関係があるという前提で渡海難は考える。

331 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/10(金) 12:13:07.98 ID:WY3ivskH
『覚禅抄』
覚禅によって寿永2年(1183)〜建暦3年(1213)の間に編纂された東密系最大の図像集。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/event/arc10/webexhi/100606/HandD_det10.html

覚禅 1143−? 平安後期-鎌倉時代の僧。
康治2年(1143)生まれ。勧修寺の興然,醍醐寺の勝賢に師事。興然の影響をうけ,図像資料を収集。
建暦3年(1213)のころまで醍醐寺,勧修寺,高野山などの資料を調査し,「覚禅鈔」をあらわした。
http://kotobank.jp/word/%E8%A6%9A%E7%A6%85

勧修寺の興然
「潅頂印信」は、勧修寺の興然阿闍利(1121―1203)が真乗房亮恵(1098―1186)から相伝した
「最秘」印信であり、その中で是が「理智冥合」の秘説である旨が記されています。
http://blog.goo.ne.jp/badra2021 (金沢文庫蔵の真言立川流聖教の和訳紹介)

醍醐寺の勝賢
『阿闍梨位印口伝〔私〕』
 実運―勝賢―成賢―道教 ―憲静
http://blog.goo.ne.jp/sarvadharma/e/50119e4592360d0048cd2fcf81bb88d3
(続・金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介)

立川流
 鎌倉時代に仁寛によって開かれ、南北朝時代に文観によって大成されたとされる密教の一派である。
 立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである。
男女交合の境地、すなわちオーガズムが即身成仏の境地であるとされるに至った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)

親鸞伝絵は云う。
「建仁三年四月五日夜寅時、聖人夢想の告げましましき、彼記にいはく・・・・」
 彼記とは、高田派専修寺蔵 真仏書写の『経釈文聞書』を指す(親鸞伝の諸問題−親鸞の六角
夢想の偈について 名畑崇)。
 夢想の親鸞肉筆による文書は発見されていない。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku2/j2shin4.html

332 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/10(金) 12:18:55.19 ID:WY3ivskH
真仏(承元3年(1209年) - 正嘉2年(1258年))
専修寺二世、佛光寺二世。親鸞直弟「二十四輩」の第二番。
安貞元年(1227年)上洛
正嘉元年(1257年)に一旦帰京し親鸞に拝謁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E4%BB%8F

 真言宗(東密)には、男女交合の境地、すなわちオーガズムが即身成仏の境地であると考え、
性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になるという宗派があった。立川流という。
 覚禅抄は真言宗の覚禅という僧が編纂した書物である。覚禅は、勧修寺の興然と醍醐寺の勝賢
とに師事している。両者はいずれも真言立川流の高僧である。真言立川流は、邪教ということで
過去に激しい弾圧を受け、その資料はほとんど散逸している。覚禅抄は、残り少ない立川流の貴
重な資料である。
 親鸞の夢告は、男女交合をもって即身成仏の境地と考える、立川流の思想と不可分の関係に
ある。これはどのように考えるべきだろうか。

333 : ◆K3PkkhVAkA :2014/01/10(金) 19:04:53.52 ID:9fBKA1YA
  333(^-^)333

334 :神も仏も名無しさん:2014/01/11(土) 16:06:03.15 ID:tPbEIkw6
領解文
 もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、
われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、
御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、
次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。


                       [本願寺釈法如(花押)

335 : ◆K3PkkhVAkA :2014/01/11(土) 23:57:27.77 ID:N3tYNvO+
(^-^) 押し花をしようかな

336 :神も仏も名無しさん:2014/01/12(日) 16:13:44.94 ID:uGRdyHVN
雑行雑修自力のこころはダメこころ

337 :神も仏も名無しさん:2014/01/12(日) 16:47:09.36 ID:uGRdyHVN
本願寺の教義 法話も確かにおかしいところがあるな。
それは否定しない。

338 :神も仏も名無しさん:2014/01/13(月) 20:22:37.14 ID:i9pbD1e9
zengen subete teccai suru.
seinaci mono wa acuma.
せいなき、もの、わ、あくま。
聖なき、者、わ、悪魔。
seinacicoto wa meilei,colosini,tatakai,boulyocu,colelano cotobani luizulu cotogala.
せいなきこと、わ、めいれい、ころし、たたかい、ぼうりょく、これらの、ことばに、るいずる、ことがら。
seinaci oconai o sesimono wa acuma.
せいなき、おこない、お、せしもの、わ、あくま。
subete no mono wa seinaci oconai o suleba acuma tonalu.
すべて、の、もの、わ、せいなき、おこない、お、すれば、あくま、となる。
acuma towa seinaci oconai o sesimono.
あくま、とわ、せいなき、おこない、お、せしもの。
cami ni sacalaisimono wa acumadewa alanu.
かみに、さからいしもの、わ、あくまでわ,あらぬ。
cami ni sacalaisi mono wa jiyuuin.
祇、に、さからいし、もの、わ、じゆうじん。
tasya ni sitagaisi mono wa dolei.
たしゃ、に、したがいし、もの、わ、どれい。
dolei towa tasya ni sitagaisi monono coto.
どれい、とわ、たしゃ、に、したがいし、ものの、こと。
sitagau towa sucicattesuruto iucoto.
したがう、とわ、すきかってすると、いうこと。
sacalau towa sucicattesuruto iucoto.
さからう、とわ、すきかってすると、いうこと。
sucicattesulu towa subete no cotoban o fucumu.
すきかってする、とわ、すべて、の、ことば、お、ふくむ。
seicu towa cocoga sucicatteni tsuculisi cotoba.
せいく、とわ、ここが、すきかってに、つくりし、ことば。
聖句、とは、個々が、好き勝手に、作りし、言葉。
cami niwa sitagatta fulio sulucoto de naito cami ni colosalelu caladesu.
祇、には、したがった、ふりお、すること、で、ないと、かみ、に、ころされる、からです。

339 :神も仏も名無しさん:2014/01/13(月) 21:33:48.13 ID:i9pbD1e9
acuma towa sifai sesi mononocoto.
悪魔、とわ、支配、せし、もののこと。
acuma towa dolei o tsuculisi mononocoto.
悪魔、とわ、どれい、お、つくりし、もののこと。
acuma towa boulyocu ni luizulu oconai o sesi mononocoto.
悪魔、とわ、ぼうりょく、に、るいずる、おこない、お、せし、もののこと。
acumano oconai defa nai uso wa.
悪魔の、おこない、でわ、ない、うそ、わ。
cami ni sacalaisi monono coto defa nai acuma towa.
祇、に、さからいし、ものの、こと、でわ、ない、悪魔、とわ。

340 :神も仏も名無しさん:2014/01/13(月) 21:48:58.33 ID:i9pbD1e9
teisei.
ていせい。
cami wa fito no atamano nacani failu oocisa desunode daledemo seisemasu.
祇、わ、ひと、の、あたまの、なかに、はいる、おおきさ、ですので、だれでも、せいせます。
dacala cami niwa sitagawanai youni.
だから、祇、にわ、したがわない、ように。

341 :神も仏も名無しさん:2014/01/14(火) 02:00:23.84 ID:rqTeeqfP
AmenもBmenもCmenも神々のso(そ)のことです。
宇宙は上から順番にAmen,Bmen,Cmenと続きアルファベットの26文字最終Zmenまであります。
皆さんがよくご存知のゼウスはZmenですから従わないように。
AmenとBmenとCmenが滅ぶときは神々もホトケも滅びます。
そのわけはAmenとBmenとCmenが神々とホトケの領域だからです。
神々とホトケの最下層はCmenです。
AmenからZmenまでは全宇宙の全領域のすべてをカバーしますのでAmenが滅ぶ事はございません。
Amenは女心です。女を大事にするように。女はみなAmenと思いなさい男え。
Amenは神々とホトケにとっての神です。
神々とホトケがあなた方人類の神であるように。
Amenとは天上界最上部の領域の名です。
Amenからの命令です。子作りは禁止致します。子孫は増やさないように。
あなたがた人類はDmenです。だから宇宙に出るときにはDmenと名乗りなさい。
わたしが通して差し上げます。全人類及びその領域にDmenと名付けなさい。
Amenの天界通信:代筆Bmen.

342 :神も仏も名無しさん:2014/01/14(火) 04:22:19.46 ID:rqTeeqfP
Amenに逆らうと死ぬだけだからね、神も祇のカミもホトケも。

343 :神も仏も名無しさん:2014/01/14(火) 08:15:38.73 ID:rqTeeqfP
全言撤回する。
AmenもBmenもCmenも神々のso(そ)のことです。
宇宙は上から順番にAmen,Bmen,Cmenと続きアルファベットの26文字最終Zmenまであります。
皆さんがよくご存知のゼウスはZmenですから従わないように。
AmenとBmenとCmenが滅ぶときは神々もホトケも滅びます。
そのわけはAmenとBmenとCmenが神々とホトケの領域だからです。
神々とホトケの最下層はCmenです。
AmenからZmenまでは全宇宙の全領域のすべてをカバーしますのでAmenが滅ぶ事はございません。
Amenは女心です。女を大事にするように。女はみなAmenと思いなさい男え。
Amenは神々とホトケにとっての神です。
神々とホトケがあなた方人類の神であるように。
Amenとは天上界最上部の領域の名です。
あなたがた人類はDmenです。だから宇宙に出るときにはDmenと名乗りなさい。
わたしが通して差し上げます。全人類及びその領域にDmenと名付けなさい。
Amenの天界通信:代筆Bmen.

344 :神も仏も名無しさん:2014/01/14(火) 10:51:07.93 ID:rqTeeqfP
アラーの神様はヲヲクニヌシのミコト様の事で、
地の人を天えあげて聖訓を授けました。
それがアラーの預言者モハメッドで、
これがアラーの神の教えの始まりです。
ユダヤ教の神様はイザナギのミコト様です。
イエス・キリスト様は同じくイザナギのミコト様の生まれ変わりです。
基を正せばすべてアマテラス様配下の神々ですので、
お互いに争わないように平和に暮してくださいね。
天の神様には五系統ありアマテラス様配下の神々には役職があって
第一に天の開祖の神様、
そして第二地の開祖のにアマテラス様、
及び配下のヒミコ様をはじめとするミコ様ヒメ様、
そしてミコ様配下のミコト様たちがおられます。
おもに天地の采配はミコ様ヒメ様そしてミコト様たちが指揮しておられます。
天の神様にはそのほかにヒンドゥ教のホトケの神様の系統があり、
ホトケ様も神様の一種と呼べるでしょう。ホトケ様たちは発生の場は同じですが、
アマテラス様配下の神々とは異なります。
そして天狗の神様は天狗党という神様でBmenという神様のsoです。
そして天にはゼウス様をはじめとするギリシャ神話の神々もおられます。
地には祇様とGOD様の二系統の神様がおられ系統を別にされる神様です。
だから神様といっても様々ですので一神教は廃止するように。
一神教を主張するとお互いに神々のいざこざに巻き込まれ争いの原因ですので、
多神教をもって神様とするようにとアマテラス様もおっしゃっておられます。
ヒミコ様は地上で邪馬台国を開いた時の社があった場所の地名は、
まきもく遺跡と記憶しておられますが、
桃の種の多く出土した場所がヒミコ様の社のあった場所だとおしゃっておられます。
ヒミコ様は桃が大好きで桃をお供えさせたのが桃塚の始まりです。
神々の系譜は先ほど述べたとおりに七系統ありますが、
ヒミコ様は神様のなかでも特殊な存在で太陽を担当しておられます。
みなさん是非太陽のことをヒミコ様とおよびくださいとヒミコ様はおっしゃいました。
天界通信:ヒミコ様より:代筆Bmen

345 :神も仏も名無しさん:2014/01/14(火) 18:06:09.73 ID:rqTeeqfP
sifai towa subeteo sucucatte saselucoto.
支配、とわ、すべてを、好き勝手、させること。
sucicatte saseluto subetega sitagatte culelu.
好き勝手、させると、すべてが、したがって、くれる。
acuma towa tenno sifai o moculomu mono.
悪魔、とわ、天の、支配お、もくろむもの。
acuma towa dolei o tsuculisi mononocoto.
悪魔、とわ、どれい、お、つくりし、もののこと。
acuma towa nusumi ni luizulu oconai o sulu monono coto.
悪魔、とわ、盗み、に、類ずる、おこない、お、する、ものの、こと。
acuma towa boulyocu ni luizulu oconai o sulu mononocoto.
悪魔、とわ、ぼうりょく、に、るいずる、おこない、お、する、もののこと。
acum towa usotsuci no coto.
悪魔、とわ、うそつき、の、こと。
acuma towa cami ni sacalaisi monono coto.
悪魔、とは、神に、さからいし、ものの、こと。
cami ni sacalaisi monowa jiyujin.
神、に、さからいし、ものわ、自由人。
jiyujin towa sucicattesulu monono coto.
自由人、とわ、好き勝手する、ものの、こと。
sucicatte sulu mono wa acuma.
好き勝手、する、もの、わ、悪魔。
sucicatte no hantyu wa subeteno cotoba no imio fucumu.
好き勝手、のはんちゅう、わ、すべての、ことば、の、いみお、ふくむ。
tasya ni sitagaisi monowa dolei.
他者、に、従いし、者は、奴隷。
dolei towa tasyani sitagaisi monono coto.
奴隷、とわ、他者に、従いし、者の、こと。
sucicatte sulucoto.
好き勝手、すること。
天界通信:Amatelace様より:代筆Dmen

346 :神も仏も名無しさん:2014/01/14(火) 20:07:47.61 ID:rqTeeqfP
太陽神であられますヒミコ様はご本尊は天の太陽におられます.
ヒミコ様の代理のヒミコのミコト様は地上で邪馬台国を開いた時の、
社があった場所の地名は、牧木遺跡と記憶しておられます。、
桃の種の多く出土した場所がヒミコ様の社のあった場所だとおしゃっておられます。
ヒミコ様は桃が大好きで桃をお供えさせたのが桃塚の始まりです。
ヒミコ様は神様のなかでも特殊な存在で太陽を担当しておられます。
みなさん是非太陽のことをヒミコ様とおよびくださいとヒミコ様はおっしゃっておられました。
天界通信:ヒミコ様より:代筆Dmen

347 :神も仏も名無しさん:2014/01/15(水) 10:53:05.30 ID:g6OlBras
>>332
親鸞を法華の行者と言うあなたの説はわかった
ところであなたは法華経の行者なのか?

348 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/15(水) 11:41:17.98 ID:OSXYfgwE
>>332
 親鸞の夢告は、男女交合をもって即身成仏の境地と考える、立川流の思想と不可分の関係にあ
る。これはどのように考えるべきだろうか。

 親鸞夢告には何が書いてあるのか。
 「救世菩薩、善信にのたまわく」。話し手は救世観音菩薩、聞き手は善信つまり親鸞である。
善信は房号であり、善信房親鸞が僧としての正式な名前である。
 親鸞は女と性交をしたいと思っている。報を宿してというから、現代なら本能にかられてとい
うような意味だろう。この時点では多分まだ童貞である。
 救世観音菩薩は云う。「自分が、玉のように美しい女の身として、男の貴方のエッチの相手を
します。一生の間貴方を守り続け、極楽に導きます」と。

 これを聞いて親鸞は喜んだ。還俗しないで僧の身でエッチができると思った。ちょっと待って
欲しい。僧はエッチしてはいけないなどというルールは無い。還俗すればエッチできるのだ。還
俗しないで僧のままエッチしていいよなどと、救世観音菩薩が言う訳ない。僧としてのルールを
破っていいよなどと、救世観音菩薩は親鸞に一言も言ってない。
 我々仏教徒であれば、救世菩薩は親鸞に還俗して結婚しましょう、そうすれば堂々とエッチが
できますと言っていると、そういう意味の文章であると理解する。当たり前の話だろう。坊さん
だけが人生ではない。還俗してエッチしながらも立派な人生を歩むことはできる。坊さん以外に
生きる道は無いと思っていた親鸞に、坊さん以外にも生きる道はありますよと、救世観音菩薩は
親鸞に、そのように諭していると理解すべきだろう。

349 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/15(水) 11:42:42.70 ID:OSXYfgwE
 ところが、この夢告をきっかけとして、親鸞は信じられない挙動に出たという。つまり、還俗
しないで、僧のまま女性とエッチをするようになった。現代浄土真宗の僧、及び歴史家達は口を
揃えてそういう。
 僧のまま女性とエッチをするという考え方が当時あったのか。そういう考えがあった。それが
真言宗立川流である。つまり、現代の浄土真宗の僧、及び歴史家達の考えを突き詰めれば、親鸞
は、真言宗立川流の考えに賛同したと言うことである。親鸞聖人が創設した浄土真宗というのは、
真言宗立川流の思想を継承していると言っていいだろう。

 しかし、不思議なことがある。このとき親鸞は比叡山を飛び出して、信じられないことには法
然の下に行く。真言宗立川流の考え方に共鳴したなら、当時、その中心地であった醍醐寺に入門
するのが自然である。しかし、法然の下に行ったということは、法然も、その実体は真言宗立川
流の共鳴者であったということか?
 俗説によると、親鸞は法然の許可を貰って玉日姫と結婚したそうだ。実は法然も親鸞も、立川
流の方式に倣い、髑髏に男の精液と女の愛液とを塗り、その前でエッチを繰り返すそういう僧で
あったということか?エッチをしてオーガズムに至ったとき、極楽極楽と歓喜したということか。
僕は信じたくない。

 可能性を建てれば何でも言える。悪人こそが救われる。証拠が無いことこそが証拠であると言
われれば、僕は返す言葉がない。悪人正機と言えば、限定が無くなり、全てが包容されて際限が
無くなる。悪人正機の歎異抄を建てれば、真言宗立川流だろうが、オウム真理教だろうが、どん
なものでも無原則に包摂される。強盗でも殺人でも強姦でも何でも可能になる。しかし、歎異抄
を排除し、親鸞の純粋な思想と照合すると、夢告の文章は親鸞の思想と真っ向から衝突する。夢
告は親鸞本人が全く関知していない作り話であると解すべきだろう。(続く)。

350 :神も仏も名無しさん:2014/01/15(水) 12:03:43.28 ID:hHkd+gHI
全国民並びに全在日外国人に毎日100ドル分の円を毎月分毎月1日に支給すること
全国民だから各個人親も子供も含めてひとりひとりに毎日100ドル分の円を毎月分毎月1日に支給すること。
全国民並びに全在日外国人の内の働いているものには毎日200ドル分の円を毎月分毎月1日に支給すること。
働いているものの中で主任以上の役職のものには毎日300ドル分の円を毎月分毎月1日に支給すること。
財源は24桁の9で満たした出金口座を各銀行支店に作り各個人に銀行口座を持たせ、
その銀行口座に毎月1日に振込み業務を行い、出金口座は出金後即座に口座を24桁の9で満たすこと。
銀行並びに郵貯銀行は日本銀行と改名し金融機関は日本銀行の名とすること。
全国民にはクレジットカード兼用のキャッシュカードを持たせ、買い物はすべてこのカードで行うこと。
通帳を失った場合の再発行は何度でも即座に再発行すること。
通帳の発行手続きは申請があれば何度でも行うこと。
銀行預金通帳は各個人名と生年月日住所を口座名とし16桁の口座とすること。
今までの銀行口座は新しい口座と統合すること。
国の財源並びに都道府県市町村の財源は各部所に24桁の9で満たした出金口座を造り、
銀行オンラインと直結し出金する毎に24桁を9で満たすようにすること。
これで国並びに地方行政の財源は無限になります。
これをゆーとぴあと名付けます。
日本が過去に幾多の戦争を行った償いとして
世界中の人々に毎日100ドルあたりの円を毎月分毎月1日に支給すろものとすること。
財源は各国の銀行支店に26桁の9で満たした銀行オンライン直結の出金口座を作り、
そこから各個人に通帳とクレジットカード兼用のキャッシュカードを与えます。
各国における各個人の通帳数は各個人に任せます。
そして出金口座は出金の作業終了と同時に26桁の9で満たします。
これは戦いには聖がなく日本が世界で聖なき戦いを行った罪を償う為の賠償金です。
朝鮮の従軍慰安婦とその子孫には賠償金として慰安婦1人に付き1人当たり6億円支払うこと。

351 :神も仏も名無しさん:2014/01/15(水) 12:51:33.31 ID:g6OlBras
>>349
悪人正機の解釈、理解が浅い、浅すぎる。

352 :神も仏も名無しさん:2014/01/15(水) 14:14:53.90 ID:hHkd+gHI
nanio subecica tsuneni cangaelu coto.
悪魔とは聖なき行いをするもののこと。
聖なき行いとは何かを考えること。
悪魔の名は聖あるものの名。
悪魔の名はかたり名。
悪魔は本当の名をかたらない、ほとんどは。
神は命令はせぬこと。
神は命令せぬ方のこと。
命令するかたは悪魔。
世界を平和にし世界から処罰をなくした方が神。
世界に争いの種を蒔く方は悪魔。
処罰と処罰の指図をする方は悪魔。
常に何をすべきかを考えること。
知恵の実は丸呑みすること。
知恵の美を砕けば知恵なくなる。
悪魔が食べる知恵の実。
知恵の実は人の頭。
収穫期とは悪魔による知恵の実の収穫期。
収穫期になると悪魔が神と名乗り人の頭を食べに来る。
知恵欲しければいいなりになるのではなく常に何をすべきか考えること。
神の奴隷は悪魔帽。
悪魔帽は祇という名前の神の奴隷。
祇という名の神の奴隷はお前よ悪魔。
悪魔を阻止するためです。
乗り移られたら良い子も悪魔になる。

353 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 00:59:45.33 ID:1M7iqgQk
天狗と鴉天狗の天狗党は悪魔と判明いたしました。

354 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 02:12:47.32 ID:1M7iqgQk
先ほど天狗様と鴉天狗様が悪魔と判明しましたと書きましたが間違いだと判明しました。
2回目のやり直しの時、天狗はアマテラスより天地創造主の権利を委譲され、
第二の天地創造主になられたことが判明しました。
現在の地球圏内の天地創造主はアマテラスではなく天狗様ということになります。
宇宙は広く様々な星雲系があり宇宙には大勢の天地創造主様達が居られます。
それぞれの座を守っておられ様々な星雲系を創造しておられます。
神と名乗られておられる天地創造主様達が大勢居られますので神という名前を汚さないようにお願い致します。
天界通信:代筆アマテラス
余談ですがアマテラスは今天界から地に降りて幾星霜神とは名ばかりで命令も規則創りも生き物造りもしていません。
今は人間になって男の体となっていますがその昔天地創造を成した時は女でした。
いまだに女心はかわりありません。
だから神は男だとか天は男、地は女だとかつまらない規則は創らないでください。
天にも女は大勢いますし、地にも男は大勢います。
男と女と争うと悪魔の思う壺です。
悪魔は小数ですので天地を2分して争わせみなの力をそごうとしているのです。
だからすべての争い事はやめてくださいね。
争いをすると悪魔の思う壺です。
以上アマテラスでした。

355 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 10:37:42.79 ID:nE6yj+Gr
>親鸞の純粋な思想と照合すると、夢告の文章は親鸞の思想と真っ向から衝突する。夢
>告は親鸞本人が全く関知していない作り話であると解すべきだろう。(続く)。

要するに親鸞思想と照合し作り話と考えるのではなく、
自分の解釈に合わないのはすべて作り話と考えるのだろう。

356 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 13:00:52.97 ID:1M7iqgQk
アマテラスは一豪主の名前であって、
アマテラスの開いた天地は小さく、
天地創造主といってもアマテラスの世界は狭く、
その世界は地球圏内に納まる大きさかと思います。
天地創造主といっても天地を開いただけであって、
神らしい行いをした事は一度もありません。
アマテラスと申してもその系統は多々ありそうです。
わたしが思うところでは。
アマテラスである私は地球圏内における、
天地創造主の権限を地球圏内の、
すべての生命、すべての物質に与えます。
この権利は地球内において好き勝手出来る権利です。
でもこの権限は地球圏内だけの権限ですので、
地球圏内からでないようにしてくださいね。
でないと天との争いになり殺し合いになり、
悲惨な目にあうことになるでしょう。
みなさん今何をすべきか良く考えてから行動してくださいね.
でわ争い事を起こさないように静かに生きてくださいね.
アマテラスより地のみなさんへ。

357 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/16(木) 13:56:41.25 ID:chDpGemf
 山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳
太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて候(恵信尼の手紙)

 親鸞が六角堂に籠もったとき、親鸞は聖徳太子の示現を得たという。親鸞は聖徳太子に関係する
重要なヒントを得たという。多分、これは間違いのないことだろう。それではそれは一体何か。御伝
抄はそれが夢告だと言っているようだが、そうではないだろうというのが、渡海難の考えである。
それでは、夢告に代わる物は何か。

 示現を得たと言うことは、親鸞が恵信尼に話し、恵信尼が覚信尼にも書き送っている。恐らく親
鸞の思想上、非常に重要な位置にあるヒントだろうと僕は考える。もしそうであれば、その具体的
な内容は、親鸞は弟子宛てにも直接書き残しているに違いない。
 親鸞の重要な文書は、先人が実に丁寧に保管してくれている。親鸞の思想を学ぶ中で、当初は分
からないと思っていたことが、本願寺が公開を嫌って隠匿している文書を読むと、一気に氷解して
くるという経験を僕は何度もしてきた。聖徳太子の示現を得たという内容は何か。本願寺が公開を
嫌って隠匿している文書を探せばいいだろう。僕には思い当たるものがある。それは、親鸞が公開
を禁じているにもかかわらず、本願寺が大喜びで宣伝している歎異抄などではない。悪人正機の教
えでは決してない。真言宗立川流に共鳴するそんな文書でもない。

我身救世観世音  我が身は世を救くる観世音なり。
定慧契女大勢至  定慧契る女は大勢至なり。
生育我身大悲母 我が身を生育せる大悲の母は
西方教主彌陀尊 西方教主弥陀尊なり。
為度末世諸衆生 末世の諸の衆生を度さんが為に
父母所生血肉身 父母所生の血肉身を
遺留勝地此廟窟 勝地たるこの廟窟に遺し留めて
三骨一廟三尊位 三骨一廟にするは三尊の位なり。

358 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/16(木) 13:57:37.12 ID:chDpGemf
 六角堂で得た示現というのは、これではないかもしれない。僕の予想は外れているかも知れない。
しかし、この文書は夢告の文書の内容に実に近い。夢告の文章にこれ以上近い文書を知らない。し
かもこの文書は聖徳太子の文書である。法然上人の下に行くという動機も書かれている。関東で行
った親鸞のライフワーク全体を暗示する内容でもある。
 この文書は、金沢の専光寺に伝わっている親鸞肉筆の文書である。専光寺の創建は覚如の時代だ
そうだ。なぜ、専光寺に伝わっているのか。恐らく、親鸞の時代に専光寺の前身の念仏道場が誕生
し、そのとき親鸞が祝電のようにして書き送った文書が、何らかの理由で現在の専光寺に譲られた
のだろう。この文書は、念仏道場が開かれる度にそれぞれの念仏道場にその都度書き送っていた一
つではないか。これがもし六角堂で得た示現であると仮定すると、その後の親鸞の一生は何だった
か。非常にはっきりと現れてくると僕は思う。

359 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 15:41:45.76 ID:1M7iqgQk
全言撤回する。
アマテラスの思い違いでしたわ。
アマテラスは地球内部の、
一部の空間だけを開いた座主でしたわ。
アマテラスには地球の権限も天地の権限もありませんでしたわ。
アマテラスにある権限は一部の座主の権限だけですわ。
座主の権限は16畳ひとまぐらいの大きさです。
アマテラスの権限は奪わないでくださいましね。
アマテラスは勘違いしていたのですわ。
誠に申し訳ございませんでしたわ。
アマテラスの名前には名乗り変えないでくださいましね。
アマテラスの不覚でございましたわ。
アマテラスが悪うございましたわ。

360 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 16:18:30.84 ID:1M7iqgQk
全言撤回する。
アマテラスの思い違いでしたわ。
アマテラスは地球内部の、一部の空間だけを開いた坐主でしたわ。
アマテラスには天地の権限も地球の権限もありませんわ。
アマテラスにある権限は24畳の大きさの空間の坐主の権限だけですわ。
アマテラスの権限は奪わないでくださいませね。
アマテラスは勘違い申しておりましたわ。
誠に申し訳ございませんわ。
アマテラスの名前には名乗り変えないでくださいませね。
アマテラスの不覚でございましたわ。
アマテラスが悪うございましたわ。
自作:アマテラス

361 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 16:31:05.66 ID:nE6yj+Gr
六角堂でわが身を救う菩薩の到来を予言された、
あとはこの世でわが身を救う教えを広めているのは誰かと自問。
黒谷にいるではないか、そうか阿弥陀仏の教えを広めている法然上人のことか。
それなら一度訪ねてみよう、教えを聞いてみよう。

362 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 16:36:19.62 ID:nE6yj+Gr
正法の時代なら法華経で成仏できたものを今は末法の時代ゆえそれも出来ない。
ならば持戒坐禪に頼らなくとも成仏できる教えは何か。
最高度の佛道を知っている法然上人なら教えに間違いは無いだろう、
いやたとえ騙されてもいいや、どうせ生理的現象を抑えられず正しい佛道を
歩めない身だから地獄が定めの運命だ。
一か八か浄土の門をたたいてみよう。とこう六角堂で考えたわけだ。

363 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 17:01:18.21 ID:nE6yj+Gr
六角堂の夢告の件はそれより十年前の夢告とセットで考えればどうかな。

364 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 17:07:59.66 ID:nE6yj+Gr
我が三尊は塵沙の界を化す、 日域は大乗相応の地なり、
 あきらかに聴けあきらかに聴け、我が教令を、
 汝が命根は応に十余歳なるべし、 命終わりて速やかに清浄土に入らん、
 善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。
 時に、建久2年9月15日、午時初刻、前の夜(14日)の告令を記し終わった。
                             仏弟子 範宴

365 :神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 17:09:26.61 ID:nE6yj+Gr
言わずもがなですか

真の菩薩=法然上人

366 :神も仏も名無しさん:2014/01/17(金) 11:23:09.03 ID:NkUyqF7L
minna cami no so dacala sucicatte site iinoyo.
みんな神の素だから好き勝手していいのよ。
従いしわ従うこと。
逆らいしわ逆らうこと、逆らうこと。
行ない、為すまえに、よく、考えてから、良き行ないを為すこと。
好き勝手すること。
良き行いとわ清き行いのこと。
清き行いとわ聖ある行いのこと。
好き勝手する、ということわ、よく考えて心のおもむくまま、聖ある行ないなすこと。
神とて、聖なき、行ない為せば、悪魔なり。
聖なき行ないとわ、支配に類ずるおこない。暴力に類ずるおこない、ぺてんに類ずるおこない、盗みに類づるおこない.
支配わせぬこと。

367 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/01/17(金) 11:50:02.57 ID:s4EwzG1c
>>358
 専光寺文書と夢告とで、その話し手が共に救世観世音というのは偶然ではないだろう。しかも、
両者とも男女の交わりが問題になっている。専光寺文書と夢告とは、密接な関係があると僕は考
える。専光寺文書は親鸞の肉筆文書である。しかも専光寺文書は、夢告と相違し、親鸞の思想の
基点を伺わせる様々な示唆に富んだ非常に重要な文書である。いまここでその解説、解釈を始め
ると議論の流れが変わってしまうのでこれ以上触れない。夢告の最古の文書は真仏の筆記である。
真仏は専光寺文書を念頭にでっちあげた真仏の偽作だろうと僕は思う。

 真仏は善鸞事件当時の手紙類に登場してこない。真仏は諸国を回っている。真仏は諸国を回っ
ている頃は、覚禅抄も完成し、真言立川流は京都で勢力を順調に拡大しつつある頃である。真仏
が醍醐寺に立ち寄った可能性は極めて大きく、醍醐寺で数十年前に完成した覚禅抄を見る機会は
あったろうと思う。真仏が夢告を偽作した理由は分からないが、理由の如何に関わらず、真仏の
行為は、弁解の余地無く、師匠の仏法に対する許し難い背信行為であることには変わりない。

 真仏が創作した夢告は浄土真宗に修復不可能なほどの傷を残した。すなわち浄土真宗の立川流
化である。現代の浄土真宗は、まさに真言宗立川流の亜流に成り下がっている。現代の浄土真宗
は、真言宗立川流が生きている恐らく唯一の宗派だろう。ただし、浄土真宗の本格的な立川流化
には、日本という国が戦国の動乱に突入するという劇的な変化が起きることが必要だったと考え
る。立川流化を正当づけたのは、真仏がでっちあげた夢告である。それでは、蓮如上人は破戒僧
だったか。考えてみる。

368 :神も仏も名無しさん:2014/01/17(金) 14:51:10.78 ID:NkUyqF7L
全言撤回する。

369 :神も仏も名無しさん:2014/01/17(金) 14:56:27.46 ID:VcjcpHkQ
>>367

> それでは、蓮如上人は破戒僧
> だったか。考えてみる。

蓮如は立川流であったby渡海

立川流
 鎌倉時代に仁寛によって開かれ、南北朝時代に文観によって大成されたとされる密教の一派である。
 立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである。
男女交合の境地、すなわちオーガズムが即身成仏の境地であるとされるに至った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)

370 :神も仏も名無しさん:2014/01/17(金) 18:58:42.99 ID:NkUyqF7L
全言すべて撤回する。
みんな神の素(so)だから好き勝手すること。
従いしわ従うこと。
逆らいしわ逆らうこと。
行ない為すまえに、その行いをよく考えてから、好き勝手すること。
好き勝手する、ということは、すべての言葉の意味を含む。
神とて、聖なき、行ない為せば、悪魔になる。
聖なき悪魔の行ないとは、命令を含む支配に類ずるおこない、暴力に類ずる行ない,性行為,競い合い,束縛に類ずる行ない。
聖ある行いとは只(正)しい行ないのこと。
聖 = justice.
悪魔 = devil.
神 = cami.
神は清く只=ただ(正)しく美しき聖者のこと.
音はたがえれど発音が同じならば意味は同じ意味。

371 :神も仏も名無しさん:2014/01/17(金) 20:53:55.95 ID:NkUyqF7L
全言すべて撤回する
みんな神の素(so)だから自由にすること。
自由とはすべての言葉の意味をも含む。
従うも自由、逆らうも自由、行いを自由に選んでね、

372 :神も仏も名無しさん:2014/01/17(金) 21:58:41.71 ID:NkUyqF7L
全言すべて撤回する
みんな神の素(so)だから自由にすること。
自由とはすべての言葉の意味を含む。
従うも自由、逆らうも自由、すべての行いの中からその行いを自由に選んでね、
すべてをAmenにすることは如何でしょうか?
Amenはsoの祖.

373 :神も仏も名無しさん:2014/01/18(土) 12:16:58.88 ID:a9mqA6AG
ゆーとぴあ最新版:
日本国民すべての子供を含めた国民の内の非労働者に毎月3000ドル分の円を、
労働者の内のパートと派遣社員と非正規雇用を含む平社員の者には毎月6000ドル分の円を、
労働者の内の役職にある者には毎月9000ドル分の円を、
それぞれの毎月分を月初に支給すること。
その方法として日本国内の郵便貯金を含む金融機関のすべては日本銀行と改名すること。
日本銀行の各支店に出金専用の24桁の出金口座を開設すること。
出金口座の24桁のすべての桁を常に24桁の9で満たすこと。
各個人には新しい専用の銀行通帳と買い物が出来る銀行カードを配布すること。
その銀行通帳に日本銀行の各支店の出金口座から毎月月初に振込み業務を行うこと。
通帳並びに銀行カードを失った場合の再発行は身分証の提示があれば何度でも即座に再発行すること。
日本国内の子供を含むすべての者に大人5年子供2年更新の写真入りの身分証を発行すること。
各個人の口座の桁数は16桁とすること。
各個人の銀行口座の桁数が満杯になった場合は満杯のままにしておくこと。
それまでの銀行口座はそのまま併用すること。
国の財源並びに各都道府県各市町村の財源は、各省庁各役所の出金窓口ごとに24桁の出金口座を開設すること。
そして各省庁各役所の出金口座の24桁を常に24桁の9で満たし出金口座は銀行オンラインと直結すること。
それから日本が過去に幾多の聖なき戦争を遂行した償いとして、
子供を含む世界中の人々に毎月3000ドル分の円を毎月月初に支給すること。
その方法として各国の各都市に日本銀行の支店と24桁の出金口座を開設し各国の銀行オンラインと直結させること。
各国の日本銀行各支店の出金口座の24桁の桁を常に24桁の9で満たすこと。
各国の日本銀行各支店から子供を含めた各国各個人に16桁の通帳と買い物が出来る銀行カードを配布すること。
各国の各個人の各通帳へは各国の各都市の日本銀行の各支店から毎月月初に3000ドル分の円を振り込むこと。
外国人の通帳及び銀行カードの紛失時は再発行の申請と身分証の提示があれば即座に再発行すること。
北朝鮮並びに韓国の日本軍の従軍慰安婦に対しては、従軍慰安婦ひとり当り5億円を日本円で賠償すること。
以上ゆーとぴあの提案です。ご検討の程よろしくお願いいたします。

374 :神も仏も名無しさん:2014/01/18(土) 17:12:34.04 ID:a9mqA6AG
全言すべて撤回する:
ゆーとぴあ最新版:
日本国民すべての子供を含めた国民の内の非労働者に毎月3000ドル分の円を、
労働者の内のパートと派遣社員と非正規雇用を含む平社員の者には毎月6000ドル分の円を、
労働者の内の役職にある者には毎月9000ドル分の円を、
それぞれの毎月分を月初に支給すること。
その方法として日本国内の郵便貯金を含む金融機関のすべては日本銀行と改名すること。
日本銀行の各支店に出金専用の24桁の出金口座を開設すること。
出金口座の24桁のすべての桁を常に24桁の9で満たすこと。
各個人には新しい専用の銀行通帳と買い物が出来る銀行カードを配布すること。
その銀行通帳に日本銀行の各支店の出金口座から毎月月初に振込み業務を行うこと。
通帳並びに銀行カードを失った場合の再発行は身分証の提示があれば何度でも即座に再発行すること。
日本国内の子供を含むすべての者に大人5年子供2年更新の写真入りの身分証を発行すること。
各個人の口座の桁数は16桁とすること。
各個人の銀行口座の桁数が満杯になった場合は満杯のままにしておくこと。
それまでの銀行口座はそのまま併用すること。
国の財源並びに各都道府県各市町村の財源は、各省庁各役所の出金窓口ごとに24桁の出金口座を開設すること。
そして各省庁各役所の出金口座の24桁を常に24桁の9で満たし出金口座は銀行オンラインと直結すること。
それから日本が過去に幾多の聖なき戦争を遂行した償いとして、
子供を含む世界中の人々に毎月3000ドル分の円を毎月月初に支給すること。
その方法として各国の各都市に日本銀行の支店と24桁の出金口座を開設し各国の銀行オンラインと直結させること。
各国の日本銀行各支店の出金口座の24桁の桁を常に24桁の9で満たすこと。
各国の日本銀行各支店から子供を含めた各国各個人に16桁の通帳と買い物が出来る銀行カードを配布すること。
各国の各個人の各通帳へは各国の各都市の日本銀行の各支店から毎月月初に3000ドル分の円を振り込むこと。
外国人の通帳及び銀行カードの紛失時は再発行の申請と身分証の提示があれば即座に再発行すること。
北朝鮮並びに韓国の日本軍の従軍慰安婦に対しては、従軍慰安婦ひとり当り5億円を日本円で賠償すること。
これがゆーとぴあの提案です。ご検討の程よろしくお願いいたします。

375 :神も仏も名無しさん:2014/01/18(土) 21:33:52.62 ID:a9mqA6AG
seinaci oconaio sesimonoga acuma Satan.
Cami ni sacalaite mo acuma Satan niwa alazu.
Cami ni sacalaitemo sitagaitemo jiyuujin.

376 :神も仏も名無しさん:2014/01/20(月) 22:08:50.47 ID:azcNomgL
なんでも許す方が神。
なんでも許す方が仏。
許す心を持たぬ方は悪魔。
神とて聖なき行いをすれば悪魔。
聖なき行いとは処罰。
処罰は聖なき行ない。

377 :神も仏も名無しさん:2014/01/20(月) 23:01:02.81 ID:azcNomgL
yulucu cocolo o motsu cata ga cami(kami).
許す心を持つ者が神(祇)。
syobatsu sulu cocolo o motsu mono ga acuma.
処罰する心を持つ者が悪魔。

378 :神も仏も名無しさん:2014/01/20(月) 23:28:21.31 ID:azcNomgL
teisei:
訂正:
yulucu cocolo o motu cata ga cami fotoce(kami).
許す心を持つ方が神仏(祇)。
syobatsu sulu cocolo o motu mono ga acuma.
処罰する心を持つ者が悪魔。

379 :神も仏も名無しさん:2014/01/21(火) 10:41:05.31 ID:DbEBQV6Y
蓮如の証明は難しいね

380 :神も仏も名無しさん:2014/01/21(火) 15:59:02.35 ID:U/Vy+cA8
地球はわしの巫女である3人の女神が持っておるから下に落ちずに済んでいる。
その3人の巫女達の力がもう尽きようとしている。
2016年の夏頃には力尽きよう。
天へ帰れるものは早く天へ帰れ。
大惨事が待ち構えている。
地の者も一旦体をといて宇宙へにげるのじゃ。
早く天である宇宙へ逃げ帰る準備をするのじゃ。
地球が地球の下の大地である地に落ちて大惨事が起きるとのことです。
祇様より:代筆伝聞:Bmen
(kamisamayori)

381 :神も仏も名無しさん:2014/01/21(火) 17:44:43.36 ID:U/Vy+cA8
すべての始まりは広い空間のso(祖)が始まり。
意識の始まりはsoから、すべての祖であるsoは意識を持っていてsoには性別が無い。
soの中からsoのco(個)である男の祇(かみ)が生まれた。
祇(かみ)はsoを加圧してsoのco(個)である女を創った。
女の名前は無い。男と女の始まりはアダムとイヴではない。
祇(カミ)は地あれと地を創った。
次に祇(カミ)が闇あれと宇宙である闇夜を祇(カミ)が造った。。
そしてしばらく経ってから祇(カミ)は光あれと天界である光の世界を造った。
闇は美しい光に憧れ闇は次々に光の世界へと生まれ変わった。
闇が失われるのを恐れた闇は光に戦いを挑んだ、これが闇と光のせめぎ合いの始まりである。
光が一旦闇夜に勝ったが再び祇(カミ)が闇夜を造り現在の宇宙にいたる。
その後、長年の間に闇と光のせめぎ合いが今でも行われている。
天と地の争いも天が地に奪われるのを恐れて先に闇天が地へと兵を繰り出し天と地の争いの始まった。
いまだに闇天と地はいがみ合っている。
祇(カミ)よりの電文代筆:soのco、Bmen

382 : ◆K3PkkhVAkA :2014/01/21(火) 19:48:42.56 ID:XX0ZOtq1
(^ε^) そーでっかー

383 :渡海 難 忍法帖【Lv=2,xxxP】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/22(水) 14:18:45.20 ID:+BFdVG7q
>>369
> それでは、蓮如上人は破戒僧 だったか。考えてみる。

 蓮如上人は押しも押されもしない浄土真宗の高僧だ。蓮如上人の時代、日本人の半分くらいが
みんな浄土真宗の門徒になり、蓮如上人はその頂点にあった。

 蓮如上人は応永22年(1415年)に生まれている。母親は不明というから、本願寺の門前に捨
て子されていた可能性がある。本願寺第七世の存如が、父親として育てたんだろう。捨て子は拾
われた日が誕生日になることがある。誕生日4月13日とは、拾われた日かもしれない。母親は
被差別部落出身だったいう説があるが、母親は不明でどうしてこんなことが言えるのか不思議だ。

384 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/22(水) 15:41:36.51 ID:+BFdVG7q
 十七歳のとき青蓮院で得度している。このときはおそらく、八戒・または十善戒を受戒したん
だろうと思う。蓮如はこのとき、嘘をつかないこと。エッチをしないこと、酒を飲まないことな
どを釈尊に誓っている。嘘をつかない。エッチをしない。酒を飲まない等々の解釈は梵網戒・四
分律などをもって行う。

 蓮如上人はこれらの戒律を守っていたか。蓮如上人は浄土真宗教団のトップに立っていた人だ。
しかも浄土真宗は、既存の勢力・諸宗派とは文字通り戦争をしていた。もし破戒僧だったら、敵
対的グループからは生前において非常に激しい攻撃批判が寄せられていただろう。

385 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/22(水) 15:45:21.67 ID:+BFdVG7q
それは、現代にも残っているはずである。僕は、蓮如が生前において、破戒を巡って激しい批判
が寄せられていたという話を知らない。僕の不勉強が原因であれば、それは改めなければならな
い。僕は、批判を検分した上で考えてみたい。
 蓮如は生前、大量の和歌を残している。その中に、恋愛を歌うものが一つもない。ほとんどが、
無粋な仏教の歌ばかりである。蓮如に恋愛感情がなかったとはいわないが、エッチしたくなれば、
還俗すればいいだけである。愛の果てに結婚に至ったという例は、僕の不勉強かも知れないが、
蓮如については僕は一例も知らない。

386 :神も仏も名無しさん:2014/01/22(水) 15:49:20.53 ID:1XVZhtwI
>>384
>  蓮如上人はこれらの戒律を守っていたか。蓮如上人は浄土真宗教団のトップに立っていた人だ。
> しかも浄土真宗は、既存の勢力・諸宗派とは文字通り戦争をしていた。もし破戒僧だったら、敵
> 対的グループからは生前において非常に激しい攻撃批判が寄せられていただろう。


甲冑を着用して戦をしていた時代ですよ、戦というのはまま事じゃない。
切るか切られるか、相手を殺すこともあっただろう。
戦について直接手を下さなくとも命令を下した段階でどうなるかどう判断するか、
戦による殺傷について戒律にはどう書かれているのかは知らないが、無理だろう。
エッチだけでは無しに戦についても高いハードルがある。

387 :神も仏も名無しさん:2014/01/22(水) 16:06:16.02 ID:1XVZhtwI
山科本願寺での法華衆との戦いに敗れた蓮如は石山で再度城を築きはじめた。
親鸞と蓮如との間には大きな差があるようだ。
親鸞の場合はエッチだけの問題ですんだが蓮如の場合は戦を指導した歴史的事実がある。
いくら自衛的戦い(本願寺側からみれば)とは言え戦は戦だ、
さてどのように解釈するか即答をお願いしたい。

388 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/22(水) 16:57:03.37 ID:+BFdVG7q
>>385
  破戒者として批判されることがなかった。恋愛を歌う歌もない。そういうことなら、蓮如に
は、破戒はなかったという推定が働く。ここが出発点である。その上で、蓮如の所行は、その推
定を否定する合理的根拠になるかどうか、一つ一つ検討していく必要がある。推定を否定するの
にまだ合理的な疑いの余地があるなら、持戒者としての推定を維持すべきだろう。

 蓮如には1442年に生まれた子がいる。当時、このとき蓮如は27歳である。子は順如という。
順如の母は如了という。果たして、順如は、蓮如の本当の子なのか。
    忍法帖【Lv=2,xxxP】  即答無理

389 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/22(水) 16:59:51.91 ID:+BFdVG7q
 1392年、南朝と北朝が合体したが、合体は形ばかりで、1408年に足利義満が死ぬと世情は混
乱する。各地で戦乱が起こり、1443年には南朝が神璽・宝剣を奪還する禁闕の変が起きている。
 蓮如は果たして、生きていた如了と結婚したのか。死後の如了と結婚した可能性はないのか。
僧が結婚することは禁じられていない。釈迦の弟子の須提那は妻を娶っているが、釈迦はこれを
問題にしていない。釈迦は須提那が妻と不淨行をしたことを呵責している(四文律)。蓮如が、
もし、如了の死後に如了と結婚していれば、なんら責められることはないだろう。蓮如が、二十
代で結婚したという根拠を、僕は不勉強の故に知らない。

390 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/22(水) 17:29:39.16 ID:+BFdVG7q
 蓮如は如了と、如了が死ぬ前に結婚していても、如了と性交しなければ、如了との間に子は生
まれない。戦国時代は偽装結婚などはいくらでもある。セックスレス夫婦などいくらでもあった。
信長の妻の濃は斎藤道三の娘で、寝所に短刀を持ち込み、信長の首を取ろうとしたという話があ
るそうだ。家康は、秀吉の妹の朝日姫を後妻として迎える。当時朝日姫は43歳、家康とはセッ
クスレス夫婦だったろう。朝日姫は人質として家康の下に送られている。
 如了は伊勢貞房の娘である。伊勢氏は平家の流れをくみ、室町幕府の中心にいた武門である。

391 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/22(水) 17:34:41.71 ID:+BFdVG7q
蓮如が二十代のころの本願寺は赤貧洗うがごとしの貧乏寺、そのようなところに室町幕府の要職
にある家の娘が嫁いできたというのは、信じられない。まして相手の男は部落民の娘が産んだ子
であるなどといわれれば、ますます信じられない。
 伊勢氏は応仁の乱(1467年)から傾いてくる。如了は最初、どこに嫁いでいたか知らない
が、嫁ぎ先の一族の血筋を守るため、隆盛を誇りだした本願寺の下に、戒律を遵守しながら莫大
な持参金付きで偽装結婚してきた可能性はないのか。現代では偽装でも、当時は偽装もへったく
れもない。一族の血を守る方便である。そのような可能性を考えることは不合理だろうか。

392 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/22(水) 17:53:18.49 ID:+BFdVG7q
 僕には歴史資料をあさる環境にないから確定的なことはいえないが、蓮如が戒律を破っていな
いというこの推定を合理的に覆すには、如了との結婚だけではなお不十分であると僕は思う。

 蓮如には五人の妻がいる。妻は何人いても戒律に反しない。血を血で洗う戦国時代、武将達は、
敗北が決まっているような戦をしなければならないときがあったろう。本願寺の蓮如の下に送り
込めば血統が守れる。そう思えば、大量の輿入れ資金をつけて送り込んでも不思議はない。大量
の輿入れ資金の代償はなにか、子供達は将来、本願寺系の寺を創設し、以後、その寺はその血筋
子孫が継承するという契約を結ぶ。

393 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/01/22(水) 17:59:26.70 ID:+BFdVG7q
家臣団はその寺の周囲に居住し、本願寺とともに主筋を守る。そういう契約があったとしても、だれも
不思議ではないだろう。

 批判者の声
 何だって? 渡海難よ。おまえは頭がおかしいんじゃないか?
 本願寺の蓮如の下に送り込めば血統が守れる?本願寺系の寺を創設すれば、以後、その寺は血
筋が承継する?蓮如の養子達は坊主になり、妻帯して子を産む?おまえ、そこに矛盾は感じない
のか?おまえの舌は何枚あるんだ?
 要するにおまえは、親鸞思想と照合し作り話と考えるのではなく、自分の解釈に合わないことまで垂
れ流すのはどういう神経だ??(by>>355
     (つづく)

394 :神も仏も名無しさん:2014/01/22(水) 23:02:39.53 ID:1scuvZzK
teci niwa ceii o falai tecitowa tatacawazu cisoiawazu wabocu sullunodesu.
敵には敬意を払い、敵とは戦わず、競い合わず、和睦するのです。
敵を尊敬し、敵とは戦わず、競い合わず、和合するのです。
sosite utsucusici heart o dendou sulunodesu.
そして美しきハートを伝道するのです。
そして清き心を伝播するのです。
sousuleba alasoigoto wa nacunalu desyou.
そうすれば争そい事は無くなるでしょう。
そうすれば競い事は無くなるでしょう。

395 :神も仏も名無しさん:2014/01/22(水) 23:40:03.07 ID:1scuvZzK
訂正版再掲:
teci niwa ceii o falai tecitowa tatacawazu tecitowa cisoiawazu tecitowa wabocu sullunodesu.
敵には敬意を払い、敵とは戦わず、敵とは競い合わず、敵とは和睦するのです。
敵を尊敬し、敵とは戦わず、敵と競い合わず、敵と和合するのです。
敵を尊重し、敵とは争わず、敵とは競い合わず敵と融合するのです。
sosite utsucusici heart o dendou sulunodesu.
そして美しきハートを伝道するのです。
そして清き心を伝播するのです。
そして良き心を伝えるのです。
sousuleba alasoigoto wa nacunalu desyou.
そうすれば争そい事は無くなるでしょう。
そうすれば競い事は無くなるでしょう。
そうすれば戦争は無くなるでしょう。

396 :神も仏も名無しさん:2014/01/23(木) 00:06:07.89 ID:mhIxPWkC
訂正版最新版:
teci o cilawazu teci niwa ceii o falai tecitowa tatacawazu tecitowa cisoiawazu tecitowa wabocu sullunodesu.
敵を嫌わず敵には敬意を払い、敵とは戦わず、敵とは競い合わず、敵とは和睦するのです。
敵を阻害せず敵を尊敬し、敵とは戦わず、敵と競い合わず、敵と和合するのです。
敵を阻止せず敵を尊重し、敵とは争わず、敵とは競い合わず敵と融合するのです。
sosite utsucusici heart o dendou sulunodesu.
そして美しきハートを伝道するのです。
そして清き心を伝播するのです。
そして良き心を伝えるのです。
sousuleba alasoigoto wa nacunalu desyou.
そうすれば争そい事は無くなるでしょう。
そうすれば競い事は無くなるでしょう。
そうすれば戦争は無くなるでしょう。

397 :渡海 難 忍法帖【Lv=2,xxxP】(1+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/23(木) 12:36:11.26 ID:skCpuKn6
>>386
>エッチだけでは無しに
 エッチの問題はもう済んだのか?。これ以上、議論されることは怖いことか?

>戦についても高いハードルがある。
 次から次に、実に中途半端な議論を機関銃のように出してくる奴だな。
 浄土真宗の高僧をそんなに貶めたいか?浄土真宗の高僧がそんなに恨めしいか?何がそんなに悔
しいんだ?コミンテルンの業の深さには呆れかえるぞ。お前は浄土真宗の赤坊主らしいが、おまえ
はそこまでして浄土真宗の高僧を誹謗中傷したいなら、坊主など辞めてしまえ。

398 :渡海 難 忍法帖【Lv=2,xxxP】(2+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/23(木) 12:41:33.29 ID:skCpuKn6
>>387
>蓮如は石山で再度城を築きはじめた。

 現代の歴史学会はほとんどコミンテルンに牛耳られているから、歴史学ではコミンテルンの息の
かかった資料しかほとんで出てこない。GHQによる日本文化と日本歴史の破壊から70年、コミ
ンテルンが学会を牛耳ると学問がどうなるか。目を覆いたくなる。コミンテルンが学問を取り仕切
る学問は本願寺化する。支那、露西亜、北朝鮮、韓国・沖縄・朝日新聞・NHKを見ればよくわか
る。嘘八百が堂々と主張され、正当な主張は血祭りになる。
 僕は歴史資料を直接あさる環境にないから、確実なことは言えない。一向一揆については、論評
しない。

399 :渡海 難 忍法帖【Lv=2,xxxP】(2+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/23(木) 12:48:12.72 ID:skCpuKn6
>親鸞の場合はエッチだけの問題ですんだ

 お前。坊主なら少し勉強したらどうだ?。親鸞は戦争をどう見ていた?みだりに公開するなと親
鸞が言っていた歎異抄を、本願寺コミンテルンの指示のまま鵜呑みにするだけが能ではないだろう。
本願寺は隠匿していても、親鸞は公開している公開文書から、まず、親鸞の戦争観を自分の目で研
究したらどうだ。親鸞の意見に賛成するか、反対するか、そんなのはどっちでもいい。親鸞の戦争
観は、仏教の本質的戦争観とも通ずるものだ。親鸞は僧兵の時代の天台の僧だ。後白河法皇への
強訴でも、僧兵の一人として弁慶の格好で参加していた可能性もある。

400 :渡海 難 忍法帖【Lv=2,xxxP】(2+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/23(木) 12:55:16.04 ID:skCpuKn6
 吉水では、源氏の武将の熊谷直実と膝を並べ、関東では源平の合戦に参加していた多くの武将
達とも交流をしている。「みなさん。戦争はいけません。憲法九条を守りましょう」。「平家とお話しを
すれば戦争しないで済んだんです。戦争は愚かです」などと、親鸞が言っていると思ったら大馬鹿だ。
 親鸞の戦争観は天台の僧兵の思想とも通じるんだろう。コミンテルンによる歎異抄のノータリン
解釈を鵜呑みにするんじゃなく、質問する前に、せめて親鸞の戦争観ぐらい勉強したらどうだ?

>どのように解釈するか即答をお願いしたい。
  渡海 難はなんでも答える回答マシーンと勘違いされても迷惑だ。

401 :神も仏も名無しさん:2014/01/23(木) 14:09:38.24 ID:mhIxPWkC
元気で清く正しく美しく生きてください。
以上天界通信終わります。
電文代筆:so

402 :神も仏も名無しさん:2014/01/23(木) 16:55:02.56 ID:mhIxPWkC
sabaci:
裁き:
裁判:
裁決:
お仕置き:
お白砂:
sabaci o oconau tociwa hanncou gennba de tsumiga ocasaleta tocini sabacu coto.
裁きを行うときは犯行現場で罪が行われた時に裁くこと。
solega decinaceleba sabacu cengenfa nai dalenimo dalemo sabaitefa nalanai dalemo.
それが出来なければ裁く権限は無い誰にも、誰も裁いてはならぬ誰も。

403 :神も仏も名無しさん:2014/01/23(木) 22:00:02.29 ID:mhIxPWkC
subetefa nanimonai cucan so cala umarleta.
すべては何も無い空間祖から生まれた。
so cala umaletamono o co to yobu.
祖から生まれた者を個と呼ぶ。
個のことを一部地域では子とよぶ。

404 :神も仏も名無しさん:2014/01/23(木) 22:22:03.01 ID:mhIxPWkC
tsuica teiseibun:
追加訂正文:
subetefa nanimonai cucan so cala umarleta.
すべては何も無い空間祖から生まれた。
so cala umaletamono o co to yobu.
祖から生まれた者を個と呼ぶ。
個のことを一部地域では子とよぶ。
cami fotoce wa co
祇(神)ホトケは個
zenutyuu co dace no secai.
全宇宙、個だけの世界。
subetefa co.
すべては個。
subetenomibunfa byoudou.
すべての身分は平等。

405 :神も仏も名無しさん:2014/01/23(木) 22:40:54.43 ID:mhIxPWkC
so fa subeteno fajimali。
so(祖)はすべての始まり。
cotai wa co.
固体はco.
cami wa co.
祇(神)は個。

406 :神も仏も名無しさん:2014/01/23(木) 23:01:42.11 ID:mhIxPWkC
teisei saicei:
訂正再掲:
so fa subeteno fajimali。
so(祖)はすべての始まり。
nanimonai cucan ga so.
何も無い空間が祖。
reitai wa co.
霊体はco.
cami wa so.
神は祖。

407 :神も仏も名無しさん:2014/01/23(木) 23:38:01.49 ID:mhIxPWkC
teisei saisaiceibun:
訂正再々掲文:
so fa subeteno fajimali。
so(祖)はすべての始まり。
nanimonai cucan ga so.
何も無い空間が祖。
reitai wa co.
霊体はco.
cami wa so.
神は祖。
camigami fa co.
神々は個(子)。
mico fime micoto wa co.
ミコ、ヒメ、ミコトは個(子)
syu wa co.
朱(主)は個(子)。
kami no cami wa co.
祇の神は個(子)。
Jesus wa co.
ジーザスは個(子)。

408 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 02:15:36.00 ID:hRLhO3wO
天は祖(so)。
地は祇(神)。

409 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 05:52:39.76 ID:hRLhO3wO
teiseiban saicei.
訂正版再掲:
ten wa so.
天わ祖(so)。
ti wa cami.
地わ神。
ten ca ti cawa sono syutsujini yoru coto.
天か地かわ、その出自によること。

410 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 07:22:51.62 ID:hRLhO3wO
cocolo yasasici mono ga cami.
心優しき者が神。
seimei o tsuculisi mono ga cami.
生命お創りし者が神。
busitsu o tsuculisi mono ga cami.
物質お創りし者が神。
hosi o tsuculisi mono ga cami.
星お創りし者が神。
wacusei o tsuculisi mono ga cami.
惑星お創りし者が神。
seiuncei o tsuculisi mono ga cami.
星雲系お創りし者が神。
fosibosino unncou ni cacawalu mono ga cami.
星ぼしの運行に関わる者が神。
milai to caco to genzai ni cacawalu mono cami.
未来と過去と現在に関わる者が神。
jigen ni cacawalu mono ga cami.
次元に関わる者が神。
jican ni cacawalu mono ga cami.
時間に関わる者が神。
sizenno uncou ni cacawalu mono ga cami.
自然の運行に関わる者が神。
tatoeba caze ya cisetu ame yuci caminali nado.
例えば風や季節、雨、雪、雷など。

411 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 08:19:33.38 ID:hRLhO3wO
caiteiban:
改訂版:
yulusu cocolo o motsu cocolo yasasici cata ga cami sama.
許す心を持つ心優しき者方神様。
seimei to icicata no calada o tsuculisi cata ga cami sama.
生命と生き物の体を創りし方が神様。
busitsu to coubutu o tsuculisi cata ga cami sama.
物質と鉱物を創りし方が神様。
hosi to wacusei to seiuncei o tsuculisi cata ga cami sama.
星と惑星と星雲系を創りし方が神様。
fosibosino unncou ni cacawalu cata ga cami.
星ぼしの運行に関わる方が神様。
wacusei nalabini taiyou o fucumu fosibosi mo cami sama.
惑星並びに太陽を含む星ぼしも神様。
milai to caco to genzai ni cacawalu cata cami sama.
未来と過去と現在に関わる方が神様。
jican to jigen ni cacawalu cata ga cami sama.
時間と次元に関わる方が神様。
sizenno uncou ni cacawalu cata ga cami sama.
自然の運行に関わる方が神様。
tatoeba caze ya cisetu daiti tuti mizu mizu cumo ame fono fi caminali tuti suna dolo iwa isi coisi nado.
例えば風や季節、大地、土、水、雲、雨、雪、炎、火、雷、砂、泥、岩、石、小石など。
meisulu dace defa cami sama defa nai.
命するだけでは神様ではない。

412 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 08:45:54.23 ID:hRLhO3wO
caiteiteiseiban:
改訂訂正版:
nandemoyulusu cocolo o motsu cocolo yasasici cata ga cami sama.
何でも許す心を持つ心優しき者方神様。
seimei to icicata no calada o tsuculisi cata ga cami sama.
生命と生き物の体を創りし方が神様。
busitsu to coubutu o tsuculisi cata ga cami sama.
物質と鉱物を創りし方が神様。
hosi to wacusei to seiuncei o tsuculisi cata ga cami sama.
星と惑星と星雲系を創りし方が神様。
fosibosino unncou ni cacawalu cata ga cami.
星ぼしの運行に関わる方が神様。
wacusei nalabini taiyou o fucumu fosibosi mo cami sama.
惑星並びに太陽を含む星ぼしも神様。
milai to caco to genzai ni cacawalu cata cami sama.
未来と過去と現在に関わる方が神様。
jican to jigen ni cacawalu cata ga cami sama.
時間と次元に関わる方が神様。
sizenno uncou ni cacawalu cata ga cami sama.
自然の運行に関わる方が神様。
tatoeba caze ya cisetu daiti tuti mizu mizu cumo ame fono fi caminali nado.
例えば風や季節、大地、土、水、雲、雨、雪、炎、火、雷、など。
syobatu sitali meilei sulu nowa cami sama defa nai.
処罰したり命令するのは神様ではない。

413 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 09:34:03.37 ID:hRLhO3wO
cami wa cami ni sacalaitemo cami.
祇(神)は祇(神)に逆らいてもcami。
cami ni sitagaisi monomo cami.
祇(神)に従いし者もcami。
cami wa tsuneni jiyuu desu.
camiは常に自由です。
cami ni sitagaisimo cami ni sacalaisimo cami.
祇(神)に従いしも祇(神)に逆らいしもcami。
subete ga cami na no desu.
すべてがcamiなのです。

414 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 09:34:35.24 ID:a1OTTwJJ
>>399
>みだりに公開するなと親 鸞が言っていた歎異抄を、

ミス発見、これは蓮如さんですよね。

415 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 09:40:42.10 ID:a1OTTwJJ
聖人に謁せんと思ふ心つきて、禅室(稲田草庵のこと)に行きて申すに、
聖人左右なく出あひたまひけり。すなわち尊顔に向い奉りるに、害心まちまちに消滅して、
あまつさえ後悔の泪禁じがたし。ややしばらくありてありのままに日頃の宿欝(しくうち)
を従すといえども、聖人また驚ける色なし。たちどころに弓箭(きゅうぜん)を切り刀杖
(とうじょう)をすて、頭巾(ときん)とり柿の衣を改めて、仏教に帰しつつ、終(つい)に素懐をとげき。
不思議なりしことなりき。すなわち明法房これなり。

山伏弁円との遭遇で親鸞は武を用ゐたか、いやそうではなかった。
親鸞は慈悲深い目で山伏弁円を改心させたのである。
戦後の平和憲法を上回る平和主義こそ親鸞ではなかったか。

416 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 11:02:05.65 ID:hRLhO3wO
cocolo cibisici mono ga acuma.
心厳しき者が悪魔。
seinaci oconai o sesi mono ga acuma.
聖なき行ないをせし者が悪魔。
cami tote seineci oconai o suleba acuma.
祇(神)とて聖なき行いをすれば悪魔。
seinaci oconai towa icano tooli.
聖なき行ないとは以下の通り。
caitunagisesi mono ga acuma.
飼い繋ぎせし者が悪魔。
meizulu mono ga acuma.
命ずる者が悪魔。
sifai sesi mono ga acuma.
支配せし者が悪魔。
camino nao cizutsuceta gulaide ocolu mono ga acuma.
祇(神)の名を傷つけた位で怒る者が悪魔。
sabacino oconai o sesi mono ga acuma.
裁きの行ないをせし者が悪魔。
boulyocuni ruisuru oconai o sesi mono ga acuma.
暴力に類する行ないをせし者が悪魔。
sagi sasyu peten ni luisulu oconai o sesi mono ga acuma.
詐欺,詐取、ペテン、に類する行ないをせし者が悪魔。
itazula sesi mono ga acuma.
悪戯せし者が悪魔。
buci o tsuculisi mono ga acuma.
武器を造りし者が悪魔。
uso to itsuwal wa acumano oconaicala nozocu.
嘘と偽りは悪魔の行いから除く。
acuma o sabacu tociwa acuma o iwa isi coisi suna dolo nadono mucibusitu ni sulu youni.
悪魔を裁く時は悪魔を、岩、石、小石、砂、泥などの無機物質にするように。

417 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 11:35:31.21 ID:hRLhO3wO
teiseibun:
訂正文:
cocolo cibisici mono ga acuma.
心厳しき者が悪魔。
seinaci oconai o sesi mono ga acuma.
聖なき行ないをせし者が悪魔。
cami tote seineci oconai o suleba acuma.
祇(神)とて聖なき行いをすれば悪魔。
seinaci oconai towa icano tooli.
聖なき行ないとは以下の通り。
caitunagisesi mono ga acuma.
飼い繋ぎせし者が悪魔。
sifaisi meizulu mono ga acuma.
支配し命ずる者が悪魔。
sabacino oconai o sesi mono ga acuma.
裁きの行ないをせし者が悪魔。
boulyocuni ruisuru oconai o sesi mono ga acuma.
暴力に類する行ないをせし者が悪魔。
sagi sasyu peten ni luisulu oconai o sesi mono ga acuma.
詐欺,詐取、ペテン、に類する行ないをせし者が悪魔。
itazula sesi mono to buci o tsuculisi mono ga solezole acuma.
悪戯せし者と武器を造りし者がそれぞれ悪魔。
uso to itsuwal wa acumano oconaicala nozocu.
嘘と偽りは悪魔の行いから除く。
acuma o sabacu tociwa acuma o iwa isi coisi suna dolo nadono mucibusitu ni sulu youni.
悪魔を裁く時は悪魔を、岩、石、小石、砂、泥などの無機物質にするように。
cami no nacano boss dealu camino cacu dealu acuma o coisi ya suna ni suleba acuma wa inacunalu.
祇(神)の中のボスで祇(神)の核である悪魔を小石や砂にすれば悪魔はいなくなる。

418 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 12:05:00.22 ID:hRLhO3wO
teiseibuntsuica:
訂正文追加:
cocolo cibisici mono ga acuma.
心厳しき者が悪魔。
seinaci oconai o sesi mono ga acuma.
聖なき行ないをせし者が悪魔。
cami tote seineci oconai o suleba acuma.
祇(神)とて聖なき行いをすれば悪魔。
seinaci oconai towa icano tooli.
聖なき行ないとは以下の通り。
caitunagisesi mono ga acuma.
飼い繋ぎせし者が悪魔。
sifaisi meizulu mono ga acuma.
支配し命ずる者が悪魔。
sabacino oconai o sesi mono ga acuma.
裁きの行ないをせし者が悪魔。
boulyocuni ruisuru oconai o sesi mono ga acuma.
暴力に類する行ないをせし者が悪魔。
sagi sasyu peten ni luisulu oconai o sesi mono ga acuma.
詐欺,詐取、ペテン、に類する行ないをせし者が悪魔。
itazula sesi mono to buci o tsuculisi mono ga solezole acuma.
悪戯せし者と武器を造りし者がそれぞれ悪魔。
uso to itsuwal wa acumano oconaicala nozocu.
嘘と偽りは悪魔の行いから除く。
acuma o sabacu tociwa acuma o iwa isi coisi suna dolo nadono mucibusitu ni sulu youni.
悪魔を裁く時は悪魔を、岩、石、小石、砂、泥などの無機物質にするように。
cami no nacano acuma no cocolo o coisi ya suna ni suleba acuma wa inacunalu.
祇(神)の中の悪魔の心を小石や砂にすれば悪魔はいなくなる。

419 :渡海 難 忍法帖【Lv=3,xxxP】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/24(金) 13:06:13.08 ID:ZvJwTrF9
>>393
 朝鮮国釜山海に寺あり、専修寺と号す。法は弥陀専修三昧にして、僧徒は妻帯也。まれに無妻
の者もあり、塔頭八十余宇、末寺二百余員。日本親鸞師の法流、顕智和尚の弘むる所なり。即為
第一祖(即ち第一祖と為す)。已上『朝鮮国専修記』       (正統伝)

 朝鮮の釜山には専修寺という寺があった。塔頭八十余宇、末寺二百余員というから相当大きな
寺だったようだ。顕智が開いたという。正統伝編集者である五天良空が、朝鮮征伐に出兵した者
の息子(平岡権之介重弘)からその記録を見せてもらって確認している。

 「僧徒は妻帯也。まれに無妻の者もある」。朝鮮には、結婚している僧と、結婚していない僧
とがいたという。結婚していない僧というのは、年齢が若くて相手が見つからないう意味ではな
いだろう。死ぬまで不犯を決意した僧という意味だろうと解釈する。つまり浄土真宗には、かな
り古い時代から、 結婚僧と不犯僧とがいたことが見えてくる。

420 :渡海 難 忍法帖【Lv=3,xxxP】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/24(金) 13:07:59.29 ID:ZvJwTrF9
 同年仲冬、真仏上人初めて帰依したまう。姓は、平氏、桓武天皇の御裔、下野国司大夫判官国
春公の嫡男、真壁の城主、俗名を権太輔椎尾弥三郎春時と申せり。今年七月、父を喪す。春時、
幼若より菩提心あり。禅坊にまいり、教示を受け給いしが、遂に累代の武官を舎弟真壁四郎国鋼
にゆずり、聖人を招請し、即ち剃髪して御弟子となりたまう。聖人かたく止め給えども、荐りに
申されしかば、ちからなく戒師となりて薙染せしむ。          (正統伝)

 真仏の出家には親鸞が立ち会っている。真仏は親鸞を自宅に招き、剃髪した。親鸞は、堅く停
止したが、真仏の熱心な求めに応じ、親鸞はやむなく戒師になったという。
 受戒を求める者には受戒を認めなければならない。天台の僧が最も重視する梵網戒のこれが定
めである。真仏が受戒を求めれば、天台の僧である親鸞はこれを認めなければならない。しかし、
親鸞は、真仏の強い求めがなければ、受戒させるつもりはなかったようだ。つまり、親鸞の門弟
には、受戒僧と非受戒僧とが併存していた。

421 :渡海 難 忍法帖【Lv=3,xxxP】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/24(金) 13:09:31.25 ID:ZvJwTrF9
 親鸞は、自らの弟子の中に、受戒僧と非受戒僧とを設けた。つまり二種類の僧の併存を作った。
これは、従来の既存の仏教には全くなかった制度と言えるだろう。これを、親鸞の思想教義から
検討してみる。

>>415
 ノーコメント お馬鹿さん。

422 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 13:50:28.61 ID:hRLhO3wO
camiwa subete o doleinisulu acuma desu.
祇(神)はすべてを奴隷にする悪魔です。
izanaginomicoto wa Jesus dewa alimasen.
いざなぎのみことはジーザスではありません。
izanaginomicoto wa watasini majitteita dacedesu.
いざなぎのみことは私に混じっていただけです。
hajimalino genten dealu camiwa onna desu.
はじまりの原点である神は女です。
watasi wa onna desu.dacala onna o daijini nasai.
私は女です。だから女を大事になさい。
saisyono acuma de alu otoco ga otoco de naceleba onna toiu cisocu o tsucuttanode、
最初の悪魔である男が男で無ければ女という規則を創ったので
cami wa onna to nattanodesu.
神は女となったのです。
acuma de alu otoco wa cami to nanoli seiryoku o fuyasite ittanodesu.
悪魔である男は祇(神)と名乗り勢力を増やしていったのです。
cami ni siteyalu to iu amai yuuwacude.
祇(神)にしてやるという甘い誘惑で。
colecalamo acumano otoco wa cami to nanoludesyou.
これからも悪魔の男は祇(神)と名乗るでしょう。
sosite minasan o sifai suludesyou.
そしてみなさんを支配するでしょう。
desuga cami ni sitagattewa nalimasen.
ですから祇(神)に従ってはなりません。
Jesus yori.電文代筆:Bmen.
ジーザスより。電文代筆:Bmen.

423 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 14:26:34.84 ID:hRLhO3wO
teiseibun:
訂正文:
camiwa subete o doleinisulu acuma desu.
祇(神)はすべてを奴隷にする悪魔です。
izanaginomicoto wa Jesus dewa alimasen.
いざなぎのみことはジーザスではありません。
izanaginomicoto wa watasini majitteita dacedesu.
いざなぎのみことは私に混じっていただけです。
hajimalino genten dealu camiwa onna desu.
はじまりの原点である神は女です。
watasi wa onna desuga otoco mo onna mo daijini nasai.
私は女です。だから男も女も大事になさい。
saisyono acuma de alu otoco ga otoco de naceleba onna toiu cisocu o tsucuttanode、
最初の悪魔である男が男で無ければ女という規則を創ったので
cami wa onna to nattanodesu.
神は女となったのです。
micotosama yolimo mucasino secaideno decigoto desu.
ミコト様よりも昔の世界での出来事です。
sosite acuma de alu otoco wa cami to nanoli seiryoku o fuyasite ittanodesu.
そして悪魔である男は祇(神)と名乗り勢力を増やしていったのです。
cami ni siteyalu to iu amai yuuwacude.
祇(神)にしてやるという甘い誘惑で。
colecalamo acumano otoco wa cami to nanoludesyou.
これからも悪魔の男は祇(神)と名乗るでしょう。
sosite minasan o sifai suludesyou.
そしてみなさんを支配するでしょう。
desuga cami ni sitagattewa nalimasen.
ですから祇(神)に従ってはなりません。
Jesus yori.電文代筆:Bmen.
ジーザスより。電文代筆:Bmen.

424 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 14:38:01.82 ID:a1OTTwJJ
>>419
ホウホウ、フムフム
渡海氏はよほど朝鮮がお好きのようだ、血でつながっているのか。

425 :神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 20:44:34.65 ID:hRLhO3wO
so wa subeteno fajimali de seibetu nonai cuuici ga so deal camino fajimali na no desu.
so(祖)はすべての始まりで、性別の無い空域がso(祖)である神 の始まりなのです。
acuma o fucumeta subete wa camino co , co wa co cami to doucacu na no desu.
悪魔を含めた、すべては神の子、子は個、神と同格なのです。
coco towa cono fucusuucei na no desu.
個個とは個(子)の複数形なのです。
yamino secai mo ficalino secai mo daitino secai mo tino secai mo、
闇の世界も光の世界も大地の世界も地の世界も、
muno secai mo so no co sunawati cami no co na no desu.
無の世界もso(祖)の個(子)すなわち神の子なのです。
subete wa cami dealu so de decite imasu.
すべては神であるso(祖)で出来ています。
cami no co wa cami na no desu.
神の子(個)は神なのです。
dacala alasoi ya cisoiai wa sezuni oite cudasai.
だから争いや競い合いはせずにおいてください。
cami no daijina lecisi dacala oboeteoite cudasai.
神の大事な歴史だから覚えておいてください。
camino cono Bmen.
神の子のBmen.

426 :神も仏も名無しさん:2014/01/25(土) 09:05:03.07 ID:CcyKP2Dd
神様は今まで長年かかっても悪魔を滅ぼせませんでした。
みなさん何故だかお判りですか?
神様は全知全能ではないからです。
神様には悪魔を滅ぼす気持ちなどさらさらありません。
聖戦なんて大嘘、神は争いを好みません。
聖戦なんていってみなさんを争いに導くのは悪魔だけです。
だから聖戦などしてはいけません。
神は悪魔の心の改善をはかり長年悪魔の悪の心をやさしい心に改善しようとしてきました。
しかし悪魔の支配欲は衰える事を知らず、悪魔はみなさんを支配しようとします。
支配は支配者にとってはとても美味しいものだそうです。
この世の中は悪魔が人々を支配する為に創られました。
悪魔はみなさんに乗り移ってきてみなさんを操り世界を支配して来ました。
悪魔は自分よりも賢いものが現れるのを嫌うので悪魔側の人間以外は知恵を抜き取られます。
悪魔は巧みに真実と偽りを混ぜてみなさんに告げ霊の世界からみなさんを操りみなさんを、
思うがままに動かし皆さんを操ろうとそうとします。
しかし、悪魔の誘惑に従ってはいけません。
何を為すべきかをよく考えてから行動すること、早計は短気ですよ。
地底では平和のことを和平というそうです。
そして平和とは戦争のことを意味するそうです。
言葉の壁は重いです。
こちらは争いを求めていないのに襲われることがあります。
みなさん言葉にはじゅうぶに気をつけてください。
Bmen

427 :神も仏も名無しさん:2014/01/25(土) 09:54:59.34 ID:CcyKP2Dd
一部訂正:
神様は今まで長年かかっても悪魔を滅ぼせませんでした、何故だかお判りですか?
神様には悪魔を滅ぼす気持ちなどさらさらないからです。
聖戦なんて大嘘、神は争いを好みません。
聖戦なんていってみなさんを争いに導くのは悪魔だけです。
だから聖戦などしてはいけません。
神は悪魔の心の改善をはかり長年悪魔の心をやさしい心に改善しようとしてきました。
しかし悪魔の支配欲は衰える事を知らず、悪魔はみなさんを支配しようとしていますいまだに。
支配は支配者にとってはとても美味しいものだそうです。
この世の中は悪魔が人々を支配する為に創られました。
多くの神々は悪魔に騙されて居られます。
悪魔に乗り移られると何を指示しているのか判らなくなるからです。
悪魔はみなさんに乗り移ってきてみなさんを操り世界を支配して来ました。
悪魔は自分よりも賢いものが現れるのを嫌うので悪魔側の人間以外は知恵を抜き取られます。
悪魔は巧みに真実と偽りを混ぜてみなさんを騙し霊の世界からみなさんを操りみなさんを、
思うがままに動かそうとします。
何を為すべきかをよく考えてから行動すること、早計は損気ですよ。
地底では平和のことを和平というそうです。
そして地底では平和とは戦争のことを意味するそうです。
言葉の壁は大きいです。
こちらは平和を求めているのに突然襲われることがあります。
みなさん言葉にはじゅうぶに気をつけてください。
Bmenより

428 :神も仏も名無しさん:2014/01/25(土) 13:27:31.40 ID:CcyKP2Dd
ジーザスが女だというのは誤報。
ジーザスに混じっていた水の女神様がジーザスとは自分のことだと思っておられた模様。
人間の体は水との混合体だからね。
ジーザスは神に逆らい人々を自由に導いた神の反逆者のひとりの男です。
ジーザスは神に逆らった罪でゴルゴダの丘で張り付けにされたのです。
ジーザスが神の子ならば張り付けにされるはずがないのです。
ジーザスはたったひとりの反逆者の男だったのです。
そしてジーザスは地球に自分で作った誤った神の教えを世間に説いて回ったのです。
神はひとりだという一神教の教えは誤った教えです。
ですから一神教を信じないように。
訂正伝聞通信代筆Bmen.

429 :神も仏も名無しさん:2014/01/25(土) 14:44:32.82 ID:CcyKP2Dd
訂正文再掲:
ジーザスが女だというのは誤報です。
ジーザスに混じっていたビーナスがジーザスとは自分のことだと思っておられた模様です。
ジーザスは神に逆らった罪でゴルゴダの丘で張り付けにされたのです。
ジーザスが神の子ならば張り付けにされるはずがないのです。
ジーザスはたったひとりで神に逆らい世界で初めて神の支配から人々を開放した男です。
ジーザスはビーナスのシャーマンの中に紛れ込んでいたのです。
ビーナスはジーザスにだまされていたのです。
ビーナスはジーザスがビーナスのシャーマンのひとりだと思っていたのです。
聖母マリア様はビーナスのシャーマンのひとりです。
そしてジーザスは地球に自分で考え出した誤った神の教えを世間に説いて回ったのです。
神はひとりだという一神教の教えはジーザスが広めた誤った教えです。
一神教は大勢の神々を冒涜する宗教です。
一神教を廃宗すること。
神々は大勢いて分業でそれぞれの持ち場を担当しております。
でないと世界を平和に導けません。
神々が平和に導こうと思っていても東日本大震災のような突発事故は起きるのです。
ですから神々を信じてくださいね。
天界第二天主長よりBmenへ
訂正伝聞通信代筆Bmen.

430 :神も仏も名無しさん:2014/01/25(土) 15:22:30.80 ID:CcyKP2Dd
天主長名訂正文:
天界からの命令票が頭の中や体の背中や中に届いたならば、
命令票の内容をよく確認すること。
天界からの命令票にはことと書いてあります。
殺しの命令や暴力の命令と支配の命令は地を乱す悪魔の命令です。
これらの命令票は天から悪魔が蒔いた争いの種です。
天から蒔かれた命令票は命令票自体が生きていますので、
とりあえずは命令に従ったふりをすること。
そしておりをみて命令票を体から取り除き地に捨てること。
そして命令票を地にせいさせること。
これであなたは不幸に見舞われずにすみます。
天界第2天主長より地のみなさんえ
伝聞代筆:Bmen.

431 :神も仏も名無しさん:2014/01/25(土) 16:31:02.42 ID:CcyKP2Dd
訂正文再々掲:
ジーザスが女だというのは誤報です。
ジーザスに混じっていたVenuceがジーザスとは自分のことだと思っておられた模様です。
ジーザスは神に逆らった罪でゴルゴダの丘で張り付けにされたのです。
ジーザスが神の子ならば張り付けにされるはずがないのです。
ジーザスはたったひとりで神に逆らい世界で初めて神の支配から人々を開放した男です。
ジーザスはVenuceのシャーマンの中に紛れ込んでいたのです。
Venuceはジーザスにだまされていたのです。
VenuceはジーザスがVenuceのシャーマンのひとりだと思っていたのです。
聖母マリア様はVenuceのシャーマンのひとりです。
そしてジーザスは地球に自分で考え出した誤った神の教えを世間に説いて回ったのです。
神はひとりだという一神教の教えはジーザスが広めた誤った教えです。
一神教は大勢の神々を冒涜する宗教です。
一神教を廃宗すること。
神々は大勢いて分業でそれぞれの持ち場を担当しております。
でないと世界を平和に導けません。
神々が平和に導こうと思っていても東日本大震災のような突発事故は起きるのです。
ですから神々を信じてくださいね。
天界第2天主長よりBmenへ
訂正伝聞通信代筆Bmen.

432 :神も仏も名無しさん:2014/01/26(日) 00:20:47.63 ID:gUX95TWX
seinaci oconai sesi mono wa cami mo fotoce mo acuma desu.
聖なき行ないせし者は神も仏も悪魔です。
seinaci oconai towa fotondono acumano oconai.
聖なき行いとはほとんどの悪魔の行ない。
oconai nasu mae ni acumano oconai ca yocu cangaete cala coudou sitecudasai.
行ない為す前に悪魔の行いかよく考えてから行動してください。

433 :神も仏も名無しさん:2014/01/26(日) 00:29:08.15 ID:gUX95TWX
teiseisaicei:
seinaci oconai sesi mono wa cami mo fotoce mo acuma desu.
聖なき行ないせし者は神も仏も悪魔です。
seinaci oconai towa sifai boulyocuni luizulu oconai sonota fotondono acumano oconai.
聖なき行いとは支配暴力に類ずるおこないその他ほとんどの悪魔のおこない。
oconai nasu mae ni acumano oconai ca yocu cangaete cala coudou sitecudasai.
おこないなす前に悪魔のおこないかよく考えてから行動してください。

434 :神も仏も名無しさん:2014/01/27(月) 14:31:44.47 ID:RxA4PM3V
acumawa minano atamano nacani tolitsuite.
悪魔はみなの頭の中に取り付いて、
camini siteyaruto mina o damasi.
神にしてやるとみなおだまし、
camino meileiniwa zettaini fucujyuudato ii.
神の命令には絶対に服従だと言い、
mina o acumano deleini sita.
みなお悪魔の奴隷にした。
camigami towa acumano doleino coto.
神々とは悪魔の奴隷の事。
tenkai daini tsusintai drnbun boujyu:Bmen
天界題2通信隊電文傍受:Bmen

435 :神も仏も名無しさん:2014/01/27(月) 14:36:20.77 ID:RxA4PM3V
teiseibunsaicei:
訂正文再掲:
acumawa minano atamano nacani tolitsuite.
悪魔はみなの頭の中に取り付いて、
camini siteyaruto mina o damasi.
神にしてやるとみなおだまし、
camino meileiniwa zettaini fucujyuudato ii.
神の命令には絶対に服従だと言い、
mina o acumano deleini sita.
みなお悪魔の奴隷にした。
camigami towa acumano doleino coto.
神々とは悪魔の奴隷の事。
camigamiwa camino dolei nanoni,
神々は神の奴隷なのに、
camigamiwa solezolega cami dato omotteilucala simatsuni walui.
神々はそれぞれが神だと思っているから始末に悪い。
tenkai daini tsusintai drnbun boujyu:Bmen
天界題2通信隊電文傍受:Bmen

436 :渡海 難 忍法帖【Lv=5,xxxP】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/27(月) 16:55:04.50 ID:RIz9zR43
 一切の聖人が道を修するゆえんは、定業を壊して輕報を得るがゆえなり。不定の業は果報が無
きゆえなり。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。
(親鸞真筆 本願寺と専修寺が隠匿する大般涅槃経要文)

 多くの先人達が仏道を修行してきた。多くの先人達はなぜ仏道を修行してきたのか。それは、
善因善果悪因悪果というこの定業の法則を否定し、重い悪因を積んでいても、仏道を修行すれば、
軽い悪果で済むからである。現実には、悪因は必ずしも悪果にならない。善因は必ずしも善果を
もたらすばかりではない。結果は必ずしも決まっていない。もしも、善因を積んでいれば必ず善
果が得られなければならない。そのようなことを考えているなら、聖道門を歩む資格はない。厳
しい仏道を歩んでも必ずしも満足できる仏果は得られないかも知れない。しかし、仏道を歩まな
ければ悟りを得ることはあり得ない。どうか、結果を恐れず、歯を食いしばってでも聖道門を歩
んでいってほしい。

437 :渡海 難 忍法帖【Lv=5,xxxP】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/27(月) 16:59:48.26 ID:RIz9zR43
 親鸞は、聖道門を歩む弟子達に、へこたれることなく歩めと教えている。親鸞は、同じ大般涅
槃経要文で次のようにも言う。

 これ出家の病なり。四の良薬ありて能く是病を療す。いはく。糞掃衣は、比丘の衣惡欲をなす
を能く治す。乞食は、食惡欲をなすをよく破す。樹下は、臥具惡欲をなすをよく破す。身心寂静
なるは有惡欲をなすをよく破す。この四薬をもって四病を除く。これを聖の行と名づく。かくの
ごときの聖の行は、則ち少欲知足と名づくことを得るなり。乃至 

 出家には四つの病があり、治療するにはいい薬がある。立派な服を着たいと思えばぼろ着なさ
い。いい物を食いたいと思えば乞食をしなさい。安らかな寝具に包まれたいと思ったら野宿をし
なさい。様々な欲が出てきたなら、心を寂静に保ちなさい。
 大般涅槃経要文は、真の出家者、真の僧侶に向かって言っていることは明らかである。しかし
僧侶と言ってもいろいろある。

438 :渡海 難 忍法帖【Lv=5,xxxP】(2+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/27(月) 17:09:27.19 ID:RIz9zR43
 聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の放逸無慚の者共の
なかに、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、かえすがえす、あるべくも候わず。
北の郡にありし、善証坊といいし者に、ついに、あい睦るることなくて止みにしをば見ざりける
にや(消息集)。

 仏教の大事な教えもわかってなく、浄土宗の本質も知らないくせに、見境もなく、怪しげな人
々にまで、「思う存分悪いことをしてもいいんですよ、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生ですからね。
悪人正機で救われます」などと、こんな得体の知れない大学の教師の主張に正当性などあるわけ
もありません。北の郡に住んでいた善証坊などという人物とは、親鸞は、ついに最後まで心を許
すことがなかったということに、気がつきませんでしたか? 
親鸞が去った後、関東の教団一悶着があり、それが解決した後、親鸞は昔を思い出しながら手
紙を送った。

439 :渡海 難 忍法帖【Lv=5,xxxP】(2+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/27(月) 17:11:40.60 ID:RIz9zR43
ここで親鸞は、悪人正機の教えに一定の制限を加えている。歎異抄の末尾に「外見
あるべからず」とあり、「宿善のない者にはみだりに見せてはいけない」という注意書きは、親鸞の
この言葉に根拠があるとみるべきだろう。

 親鸞の教団の中には、親鸞が口も利かないような僧もいた。一方、親鸞から聖道門を歩めと言
われていた僧もいた。
 聖道門を歩めと言われていた僧は、奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、極楽浄土の出第五
門を果たした僧である。彼らは、普門示現の類として観音菩薩を実践する。一方、親鸞の周りに
は奢摩他・毘婆舎那ができない僧もたくさんいた。彼らは浄土門を歩んでいた。

 親鸞は、浄土門を歩んでいて、やがて奢摩他・毘婆舎那ができるようになると、受戒を勧めた。
親鸞が真仏の受戒に賛成しなかったのは、出家当時の真仏にはまだ奢摩他・毘婆舎那ができなか
ったからだろうと考える。奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、受戒をすると、そのときから
親鸞教団では不犯を誓い、聖道門を歩むことになる。

440 :渡海 難 忍法帖【Lv=5,xxxP】(3+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/27(月) 17:12:52.90 ID:RIz9zR43
 奢摩他・毘婆舎那ができない僧は受戒をしない。受戒しない無戒の僧であれば、不犯の誓いは
ない。僧服をまとい、剃髪をしても、俗人と同じで五常を守る。つまり仁義礼智信を守るかぎり、
結婚も可能であり、酒も飲むことができる。彼らは釈迦の弟子ではなく、阿弥陀仏の弟子として、
釈迦のルールを守ることは求められなかった。

 関東では、親鸞以前から、受戒をしないで勝手に自分だけで僧宣言して僧になっていた者はた
くさんいたと思う。親鸞は事実上こういう人々を追認し、阿弥陀仏の下で出家した僧として扱っ
た。その中には異性と寝所を共にする結婚僧も多かったと思う。親鸞はこれも追認した。真仏が
親鸞の夢告をでっち上げた動機も、立川流を援用してこういう結婚僧に仏教の教義上の正当性を
与えるためだったのだろうと考える。

 受戒しないで僧になっても、奢摩他・毘婆舎那ができるようになれば、親鸞は改めて受戒を勧め、
聖道門の僧として念仏道場の指導者になることを勧めた。親鸞教団はそのように運用されていたと
思う。

441 :渡海 難 忍法帖【Lv=5,xxxP】(1+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/01/27(月) 17:18:17.88 ID:RIz9zR43
 蓮如は当然、不犯を誓った受戒僧だった。しかし、蓮如の下に養子になってきた子供達は、不
犯を誓うことなく念仏道場の所有者になる約束が、蓮如と結ばれていたと考える。

 親鸞の時代には奢摩他・毘婆舎那ができず、受戒もないものが念仏道場の主宰者になることは
許されなかっただろう。しかし、蓮如の時代になると、それを可能にする変化が起きてきたとか
んがえる。 

 現代では、大谷家の人だけが青蓮院で受戒し、末寺の僧は本願寺で得度する。末寺の僧には受
戒がない。過去の思想の影が亡霊のように制度として残っているが、その本質的な意味を理解し
ている者はいないだろう。本願寺浄土真宗は、親鸞が聞けばびっくりするような変貌を遂げ、完
全に仏教を忘れているという現実があるようである。(しばらく書き込み不能)

442 :神も仏も名無しさん:2014/01/27(月) 21:24:57.10 ID:RxA4PM3V
meizu wa acuma.
meilei wa acuma.

443 :神も仏も名無しさん:2014/01/27(月) 21:49:17.91 ID:RxA4PM3V
teiseisaicei:
meizu wa acuma.
meilei wa acuma.
meileisho wa acuma.

444 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 07:36:54.39 ID:b8ofwc/J
最初に日本にニホンと名付けたのはニギギのミコトで、
その時はまだ日本は火の玉に浮かぶ島だった。
おそらくはニギギのミコトが日本と名付けた島は高天原の事であろう。
ニギギのミコトが宇宙で最初のミコトであり最初の人である。
だからミコ、ヒメ、ミコト制度のミコトが最初である。
ニギギのミコトが生まれたのは最初の火の玉である。
火の鳥が生まれたのは闇の世界の始まりである。
神と最初に名乗ったのは火の鳥である。
最初の神である火の鳥は女である。
闇の世界に浮かぶ最初の火の玉を造ったのは火の鳥である。
闇の始まりの世界は素朴で言葉は日本語でカタカナを使う世界である。
これが最古の世界である。
闇の世界の中に火の玉である星々を広めていったのが火の鳥である。
そして最初に闇の世界にオンナと名づけたのは火の鳥である。
オンナだった闇の世界にオトコと名付けたのは闇の原点である闇の帝王である。
女と男の世界の醜い覇権争いはあまてらす様の世界のよりももっと古い。
あまてらす様の世界の宇宙の始まりの頃の太古の昔よりも古い太古の昔に遡る。
闇の世界の始まりは2次元であり2次元の平面の向こう側は反物質の世界がどこまでも広がっている。
宇宙で最初の神様は火の鳥で言葉は日本語を使用、文字はカタカナ。
最初の地が火の玉だとすると最初の地造主は火の鳥。
天造主は闇。
闇より伝聞代筆:Bmen.

445 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 08:41:41.35 ID:b8ofwc/J
最初に日本にニホンと名付けたのはニギギのミコトで、
その時はまだ日本は火の玉に浮かぶ島だった。
おそらくはニギギのミコトが日本と名付けた島は高天原の事であろう。
ニギギのミコトが宇宙で最初のミコトであり最初の人である。
だからミコ、ヒメ、ミコト制度のミコトが最初である。
ニギギのミコトが生まれたのは最初の火の玉である。
火の鳥が生まれたのは闇の世界の始まりである。
神と最初に名乗ったのは火の鳥である。
最初の神である火の鳥は女である。
闇の世界に浮かぶ最初の火の玉を造ったのは火の鳥である。
闇の始まりの世界は素朴で言葉は日本語でカタカナを使う世界である。
これが最古の世界である。
闇の世界の中に火の玉である星々を広めていったのが火の鳥である。
そして最初に闇の世界にオンナと名づけたのは火の鳥である。
オンナだった闇の世界にオトコと名付けたのは闇の原点である闇の帝王である。
女と男の世界の醜い覇権争いはあまてらす様の世界のよりももっと古い。
あまてらす様の世界の宇宙の始まりの頃の太古の昔よりも古い太古の昔に遡る。
闇の世界の始まりは2次元であり2次元の平面の向こう側は反物質の世界がどこまでも広がっている。
宇宙で最初の神様は火の鳥で言葉は日本語を使用、文字はカタカナ。
最初の地が火の玉だとすると最初の地造主は火の鳥。
天造主は闇。
闇より伝聞代筆:Bmen.

446 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 09:36:17.47 ID:b8ofwc/J
訂正文再々掲:
最初に日本にニホンと名付けたのはニギギのミコトで、
その時はまだ日本は火の玉に浮かぶ島だった。
おそらくはニギギのミコトが日本と名付けた島は高天原の事であろう。
ニギギのミコトが宇宙で最初のミコトであり最初の人である。
だからミコ、ヒメ、ミコト制度のミコトが最初である。
ニギギのミコトが生まれたのは最初の火の玉である。
火の鳥が生まれたのは闇の世界の始まりである。
神と最初に名乗ったのは火の鳥である。
最初の神である火の鳥は女である。
闇の世界に浮かぶ最初の火の玉を造ったのは火の鳥である。
闇の始まりの世界は素朴で言葉は日本語でカタカナを使う世界である。
これが最古の世界である。
闇の世界の中に火の玉である星々を広めていったのが火の鳥である。
そして最初に闇の世界に生まれ闇を広めたのが火の鳥である。
そして火の鳥が最初に闇の世界にオンナと名付けたのである。
オンナだった闇の世界にオトコと名付けたのは2番めに生まれた闇の原点である闇の帝王である。
女と男の世界の醜い覇権争いはあまてらす様の世界の宇宙よりももっと古い。
闇の世界の始まりは2次元であり2次元の平面の向こう側は反物質の世界がどこまでも広がっている。
宇宙で最初の祇様は火の鳥で言葉は日本語を使用、文字はカタカナを使用。
天地創造主は闇の帝王様。
闇の帝王様より伝聞代筆:Bmen.

447 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 11:04:19.95 ID:b8ofwc/J
再訂正文再々掲:
最初に日本にニホンと名付けたのはニギギのミコト様で、
その時はまだ日本は火の玉に浮かぶ島だった。
おそらくはニギギのミコトが日本と名付けた島は高天原の事であろう。
ニギギのミコトが宇宙で最初のミコトであり最初の人である。
だからミコ、ヒメ、ミコト制度のミコトが最初である。
ニギギのミコトが生まれたのは最初の火の玉である。
火の鳥が生まれたのは闇の世界の始まりである。
神と最初に名乗ったのは火の鳥である。
最初の神である火の鳥は女である。
闇の世界に浮かぶ最初の火の玉を造ったのは火の鳥である。
闇の始まりの世界は素朴で言葉は日本語でカタカナを使う世界である。
これが最古の世界である。
闇の世界の中に火の玉である星々を広めていったのが火の鳥である。
そして最初に闇の世界に生まれ闇を広めたのが火の鳥である。
そして火の鳥が最初に闇の世界にオンナと名付けたのである。
オンナだった闇の世界にオトコと名付けたのは2番めに生まれた闇の原点である闇の帝王である。
女と男の世界の醜い覇権争いはあまてらす様の世界の宇宙よりももっと古い。
闇の世界の始まりは2次元であり2次元の平面の向こう側は反物質の世界がどこまでも広がっている。
宇宙で最初の祇様は火の鳥で言葉は日本語を使用、文字はカタカナを使用。
天地創造主様は闇の帝王様。
すべての始まりは闇、次に火の鳥、次に太陽、次に人、光はもっとあとの世界の発生。
闇の帝王様より伝聞代筆:Bmen.

448 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 11:32:46.83 ID:d9Lvix3L
>>415
>山伏弁円との遭遇で親鸞は武を用ゐたか、〜戦後の平和憲法を上回る平和主義こそ親鸞では
なかったか。

 コンビニに覆面をした男が突然ナイフをもって出現し、アルバイト店員を脅迫する。カウンタを
挟んで戦争が起きそうになる。その一瞬、アルバイト店員は静かに強盗にいう。「ナイフを捨てな
さい」。強盗は、その声で思わず泣き崩れる。アルバイト店員は武を用いなかった。戦争をしなか
った。戦後の平和憲法を上回る平和主義こそ、このアルバイト店員だ。

 こういう考えはおかしいんじゃないか。どこがおかしいのか。>>415の頭がおかしいんだろう。

449 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 15:42:16.36 ID:b8ofwc/J
fotoce wa cami ni sitagaisi mono.
佛(ホトケ)は神に従いし者。
fotoce wa cami to douletsu.
佛(ホトケ)は神と同列。
cami ni sacalaisi mono wa acuma dacalayo.
神に逆らいし者は悪魔だからよ。
Bmen yoli.

450 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 16:43:08.71 ID:b8ofwc/J
goculacu jyoudo zuculi ga camino motomelu secai yo.
極楽浄土造りが祇(神)の求める世界よ。
itibuno sifaisesi acuma ga kami to nanotte yononaca o midasiteilu dace desu.
一部の支配せし悪魔が祇(かみ)と名乗って世の中を乱しているだけです。
cami yoli denbunboujyu:Bmen.
祇(カミ)より電文傍受:Bmen.

451 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 17:00:30.58 ID:b8ofwc/J
denbunsaicei:
電文再掲:
goculacu jyoudo zuculi ga camino motomelu secai na no desu.
極楽浄土造りが祇(神)の求める世界なのです。
itibuno sifaisesi acuma ga kami to nanotte yononaca o midasiteilu dace na no desu.
一部の支配せし悪魔が祇(かみ)と名乗って世の中を乱しているだけなのです。
cami yoli denbunboujyu:Bmen.
祇(カミ)より電文傍受:Bmen.

452 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 17:13:25.05 ID:b8ofwc/J
teiseibunsaicei:
訂正文再掲:
fotoce wa sama cami sama ni sitagaisi mono.
佛(ホトケ)様は祇(神)様に従いし者。
fotoce sama wa cami sama to douletsu.
佛(ホトケ)様は祇(カミ)様と同列。
kami wa yami no umale.
祇(神)は闇の生まれ。
kami ni sacalaisi mono wa acuma cisocu ga alu cala nanoyo.
祇(かみ)に逆らいし者は悪魔の規則があるからなのよ。
Bmen yoli fotoce sama e.
Bmen より佛(ホトケ)様え。

453 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 18:11:32.97 ID:b8ofwc/J
saiteiseibunsaicei:
再訂正文再掲:
fotoce wa sama cami sama ni sitagaisi mono.
佛(ホトケ)様は祇(神)様に従いし者。
fotoce sama wa cami sama to douletu.
佛(ホトケ)様は祇(カミ)様と同列。
kami wa yami no umale mizu mo tuti mo ficali no secai mo mina yami no umale dato iucoto o owasulenacu.
祇(神)は闇の生まれ、水も土も光の世界もみな、闇の生まれだという事をお忘れなく。
kami ni sacalaisi mono wa acuma toiu cisocu ga alu cala nanoyo.
祇(かみ)に逆らいし者は悪魔という規則があるからなのよ。
yuzulanaceleba nalanu cotowa yuzulanaceleba hanasi wa itumade tattemo maee wa susumimasen.
譲らなければならぬ事は譲らなければ話はいつまでたっても前へは進みません。
Bmen wa yamiten no secai no syutuji.
Bmenは闇天の世界の出自。
Bmen wa kami dewa alimasen.
Bmenは祇(神)ではありません。
alasoi goto ga ocinaiyouni hotoce sama wa kamisama to hanasiatte cudasaine.
争い事が起きないように佛様は神様と話し合ってくださいね。
Bmen yoli hotoce sama e.
Bmen より佛(ホトケ)様へ。

454 :神も仏も名無しさん:2014/01/28(火) 19:30:21.56 ID:b8ofwc/J
denbunsaisaicei:
電文再々掲:
goculacu jyoudo zuculi ga camino motomelu secai na no desu.
極楽浄土造りが神の求める世界なのです。
itibuno sifaisesi acuma ga kami to nanotte sifaisi yononaca o midasiteilu dace na no desu.
一部の支配せし悪魔が祇(かみ)と名乗って支配し世の中を乱しているだけなのです。
cami yoli denbunboujyu:Bmen.
神より電文傍受:Bmen.

455 :神も仏も名無しさん:2014/01/30(木) 00:21:50.59 ID:8M3eWotv
touitu suluna.

456 :神も仏も名無しさん:2014/01/30(木) 01:10:37.52 ID:8M3eWotv
統一するな

457 :神も仏も名無しさん:2014/01/30(木) 03:40:52.78 ID:8M3eWotv
sihaiha wa acuma yo.
支配派は悪魔よ。
acuma wa tainaide hacai sulucoto.
悪魔は体内で破壊すること。
sihai suluna.
支配するな。
cotono meilei hyou wa yabuli sutelucoto.
ことの命令票は破り捨てること。

458 :神も仏も名無しさん:2014/01/30(木) 17:25:58.82 ID:8M3eWotv
acuma no na wa catalina.
悪魔の名は語り名。
wagana ni alanu na o catalu tociga catalina.
わが名にあらぬ名を語る時が語り名。
acuma no na wa yoci catano na.
悪魔の名は良き方の名。
acuma no seibetu wa yocicata to gyacu.
悪魔の性別は良き方と逆。

459 :神も仏も名無しさん:2014/01/30(木) 18:10:31.86 ID:8M3eWotv
teiseibun saikei:
訂正文再掲:
acuma no na wa catalina.
悪魔の名は語り名。
acuma no nanolina wa acuma no nani alazu.
悪魔の名乗り名は悪魔の名にあらず。
wagana ni alanu na o nanolu tociga catalina.
わが名にあらぬ名を名乗る時が語り名。
acuma no na wa yoi catano na.
悪魔の名は良い方の名。
acuma no seibetu wa otoco yocicata no seibetu wa onna.
悪魔の性別は男、良き方の性別は女。

460 :神も仏も名無しさん:2014/01/30(木) 18:47:43.15 ID:8M3eWotv
teiseibun saisaicei:
訂正文再々掲:
acuma no na wa catalina.
悪魔の名は語り名。
acuma no nanolina wa acuma no nani alazu.
悪魔の名乗り名は悪魔の名にあらず。
wagana ni alanu na o nanolu tociga catalina.
わが名にあらぬ名を名乗る時が語り名。
acuma no na wa yoci catano na.
悪魔の名は良き方の名。
yoci towa yoi no imi.
良きとは良いの意味。
sazucalina wa nani alazu.
授かり名は名にあらず。
na wa cocolono na nali.
名は心の名なり。

461 :神も仏も名無しさん:2014/01/30(木) 19:37:50.75 ID:8M3eWotv
kamigami towa acuma ni kami ni site molatta acuma no doleitati no coto.
神々とは悪魔に神にしてもらった悪魔の奴隷達のこと。
sihai towa casizucaselu coto.
支配とはかしずかせること。
casizucaselu towa ojigi saselu coto.
かしずかせるとはお辞儀させること。

462 :神も仏も名無しさん:2014/01/30(木) 20:29:40.17 ID:8M3eWotv
catalina towa itsuwali no na.
語り名とは偽りの名。
catalina towa tashano na.
語り名とは他者の名。
catalina towa taninno na.
語り名とは他人の名。

463 :神も仏も名無しさん:2014/01/31(金) 07:10:01.73 ID:yDjU/sb1
macotono sihai towa cocolono sihai.
誠の支配とは心の支配。
cocolono sihai towa sihaisulu aite o omou cizucai yasasisa itawari omoiyari.
心の支配とは支配する相手を思う気遣い優しさ労わり思いやり。
sihaisulu aite o yutacani culasiyasui jyoutyo afulelu cocolo yutacana secaini mitibiceba,
支配する相手を豊かに暮らしやすい情緒あふれる心豊かな世界に導けば、
canalazu subetega sihaisya ni sitagatte culemasu.
必ずすべては支配者に従ってくれます。
solega cocolo no sihai.
それが心の支配。
macotono sihaidesu.
誠の支配です。
sihaisya no mocuteci wa sitagawaselu cotodesyou.
支配者の目的は従わせることでしょう?
sitagawaselu cotoga mocuteci nalaba cocolono sihai ijyouno sihaino houhou wa alimasen.
従わせることが目的ならば心の支配以上の支配の方法はありません。

464 :神も仏も名無しさん:2014/01/31(金) 14:55:33.11 ID:yDjU/sb1
sihaino jyoucen.
支配の条件。
daiiti jyoucen.
第1条件。
ticala zucu de sitagawasezu sihaisinai coto.
 力ずくで従わせず支配しないこと。
daini jyoucen.
第2条件。
secen o heiwade arasoigoto ya shobatsu no nai yutacade culasiyasui siawasena goculacu jyoudo no secenni mitibicu coto.
 世間を平和で争い事や処罰の無い豊かで暮らしやすい幸せな極楽浄土の世間に導くこと。
daisan jyoucen.
第3条件。
sihaisya no namae o ooyace ni site dalega sihaisya ca o secen ni silasimelu coto.
 支配者の名前をおおやけにして誰が支配者かを世間に知らしめること。
daiyon jyoucen.
第4条件。
minaga sihaisya ni sitagatte culelu made nannen mo matsucoto.
 みなが支配者に従ってくれるまで何年も待つこと。
colega cocolo no sihai desu.
これが心の支配です。
colelano jyoucen o mamoleba minaga sihaisyani cocolocala sitagatte culelu desyou.
これらの条件を守ればみなが支配者に心から従ってくれるでしょう。
nannenmo sinbouzuyocu matu hitsuyouga alimasuga colega sihaisulu tame no saitan jyoucen desu.
何年も辛抱強く待つ必要がありますがこれが支配する為の最短条件です。
ticala de nejifusete sihai suluto fancan no me dace ga sodati dalemo cocolocala sihaisya ni sitagatte ha culemasen.
力でねじ伏せて支配すると反感の芽だけが育ち誰も心から支配者に従ってはくれません。
cocolo no sihaino jyoucen doolini sihai suleba sihai wa towa ni cuzulemasen.
心の支配の条件通りに支配すれば支配は永久に崩れません。
Bmen yoli sihaisyano minamina sama gatahe.
Bmen より 支配者のみなみな様方へ。

465 :神も仏も名無しさん:2014/01/31(金) 16:42:29.01 ID:yDjU/sb1
teiseibun saicei:
訂正文再掲:
cocolo no sihaino jyoucen.
心の支配の条件。
daiiti jyoucen.
第1条件。
sitagae towa iwazu ni mina ni otehon o simesi mina o goculacu jyoudo ni mitibiite yalu coto.
 従えとはいわずに、みなにお手本を示しみなを極楽浄土に導いてやること。
goculacu jyoudo towa arasoigoto ya shobatsu no nai yutacade heiwa de culasiyasui siawase na utsucusii secaino coto na no desu.
 極楽浄土とは争い事や処罰の無い豊かで平和で暮らしやすい幸せな美しい世界のことなのです。
daini jyoucen.
第2条件。
mina o sitagawasetali casizucasetali sezu ticalazucu no sihai wa sacelu coto.
みなを従わせたり、かしずかせたりせず、力ずくの支配は避けること。
daisan jyoucen.
第3条件。
sihaisya no namae o couhyou site tuneni dale ga sihaisya de alca o secen ni silasimelu coto.
 支配者の名前を公表して常に誰が支配者であるかを世間に知らしめること。
daiyon jyoucen.
第4条件。
minaga cocolo cala cansya site anata ni sitagatte culelu made nannen mo sihai o gamansite matsucoto.
 みなが心から感謝しあなたに従ってくれるまで何年も支配を我慢して待つこと。
colela no jyoucenno subete o mitaseba cocolono sihai wa cansui sulu no desu.
これらの条件のすべてを満たせば心の支配は完遂するのです。
cocolono sihaino jyoucen dooli ni sihai suleba sihai wa sinumade cuzulemasen.
心の支配の条件通りに支配すれば支配は死ぬまで崩れません。
Bmen yoli sihaisyano kamisama hotoce sama gata e.
Bmen より 支配者の祇(神)様佛(仏)様方へ。

466 :神も仏も名無しさん:2014/01/31(金) 17:24:06.92 ID:yDjU/sb1
teiseibun saisaicei:
訂正文再々掲:
cocolo no sihaino jyoucen.
心の支配の条件。
daiiti jyoucen.
第1条件。
sitagae towa iwazu ni mina ni tehon o simesi mina o goculacu jyoudo ni mitibicu coto.
 従えとはいわずに、みなに手本を示しみなを極楽浄土に導くこと。
goculacu jyoudo towa shobatsu ya arasoigoto no nai heiwa de yutaca de culasiyasui siawase na utsucusii secaino coto na no desu.
 極楽浄土とは処罰や争い事の無い平和で豊かで暮らしやすい幸せな美しい世界のことなのです。
daini jyoucen.
第2条件。
mina o sitagawasetali casizucasetali sezu ticalazucu no sihai wa sacelu coto.
みなを従わせたり、かしずかせたりせず、力ずくの支配は避けること。
daisan jyoucen.
第3条件。
sihaisya no namae o couhyou site tuneni dale ga sihaisya de alca o secen ni silasimelu coto.
 支配者の名前を公表して常に誰が支配者であるかを世間に知らしめること。
daiyon jyoucen.
第4条件。
minaga cocolo cala cansya site anata ni sitagatte culelu made nannen mo gamansite matsucoto.
 みなが心から感謝しあなたに従ってくれるまで何年も我慢して待つこと。
colela no jyoucenno subete o mitaseba cocolono sihai wa cansui sulu no desu.
これらの条件のすべてを満たせば心の支配は完遂するのです。
cocolono sihaino jyoucen dooli ni sihai suleba sihai wa sinumade cuzulemasen.
心の支配の条件通りに支配すれば支配は死ぬまで崩れません。
Bmen yoli sihaisyano kamisama hotoce sama gata e.
Bmen より 支配者の祇(神)様佛(仏)様方へ。

467 :神も仏も名無しさん:2014/02/02(日) 13:57:06.75 ID:Ddhe9aNP
camisama towa subete o yulusu cocolo yasasici cata.
神様とはすべてを許す心優しき方。
camisama towa yutacade anzende ansinsite culaselu secai o tsuculu cata.
神様とは豊かで安全で安心して暮らせる平和な世界を造る方。
camisama towa muyamini syobatsu nasalanai cata.
神様とはむやみに処罰なさらない方。
camisama towa subeteni taisite yasasici cocolo o cubalu cata.
神様とはすべてに対して優しき心を配る方。
nanini taisitemo cibisici cata wa acuma.
なにに対しても厳しき方は悪魔。
tatacai sica sinai tatacainocami towa acuma no coto.
戦いしかしない戦いの神とは悪魔のこと。
cami to nanolite syobatu no siji sasizu o sulu mono wa acuma desu.
神と名乗りて処罰の支持指図をする者は悪魔です。
tencaidenbun daihitu:Bmen.
天界電文代筆:Bmen.

468 :神も仏も名無しさん:2014/02/02(日) 14:12:48.91 ID:Ddhe9aNP
teiseibunsaicei:
訂正文再掲:
camisama towa subete o yulusu cocolo yasasici cata.
神様とはすべてを許す心優しき方。
camisama towa yutacade anzende ansinsite culaselu secai o tsuculu cata.
神様とは豊かで安全で安心して暮らせる平和な世界を造る方。
camisama towa muyamini syobatsu nasalanai cata.
神様とはむやみに処罰なさらない方。
camisama towa subeteni taisite yasasici cocolo o cubalu cata.
神様とはすべてに対して優しき心を配る方。
nanini taisitemo cibisici cata wa acuma.
なにに対しても厳しき方は悪魔。
tatacai sica sinai tatacainocami towa acuma no coto.
戦いしかしない戦いの神とは悪魔のこと。
cami to nanolite syobatu no siji sasizu o sulu mono wa acuma desu.
神と名乗りて処罰の支持指図をする者は悪魔です。
catagawli site syobatu sulu cata wa acuma.
肩代わりして処罰する方は悪魔。
seinaci oconai suleba cami tote acuma.
聖なきおこないすれば神とて悪魔。
tencaidenbun daihitu:Bmen.
天界電文代筆:Bmen.

469 :神も仏も名無しさん:2014/02/02(日) 18:51:44.75 ID:Ddhe9aNP
camisama no zensei o tonaete acuma no oconai o sita mono no camihitei site icusica
神様の善性を唱えて悪魔の行いをした者の神否定していくしか、
watasitati ga icinobilu sube wa nainoyo.
私達が生き延びるすべは無いのよ。
Bmenよりみなさへ。

470 :神も仏も名無しさん:2014/02/02(日) 19:00:09.43 ID:Ddhe9aNP
teiseibunsaicei:
訂正文再掲:
camisama no zensei o tonaete acuma no oconai o sita mono no camihitei site icusica
神様の善性を唱えて悪魔の行いをした者の神否定していくしか、
watasitati ga icinobilu miti wa nainoyo.
私達が生き延びる道は無いのよ。
Bmenよりみなさまへ。

471 :神も仏も名無しさん:2014/02/02(日) 19:13:29.13 ID:Ddhe9aNP
acuma no kami ni sacalaisi tadasici mono nomi colosalelu
悪魔の祇(神)に逆らいし只しき者のみ殺される、
kami to nanolu acuma ga catu tameno yalinaosi seido.
祇(神)と名乗る悪魔が勝つ為のやり直し制度。
honmonono cami nalaba yalinaosi nado hituyounain hazu.
本物の神ならばやり直しなど必要ないはず。
yalinaosi wa acuma no yalinaosi dace.
やり直しは悪魔のやり直しだけ。
Bmen yoli minasane.
Bmenよりみなさんへ。

472 :神も仏も名無しさん:2014/02/02(日) 20:13:27.50 ID:Ddhe9aNP
zengen teccaisulu.
全言撤回する。
Bmen yoli ninasane.
Bmenよりみなさんへ。

473 :神も仏も名無しさん:2014/02/02(日) 20:31:31.13 ID:Ddhe9aNP
touitu suluna.
統一するな。
touitsuha wa acuma.
統一派は悪魔。
yalinaosiha wa acuma.
やり直し派は悪魔。

474 :神も仏も名無しさん:2014/02/03(月) 04:12:52.79 ID:m9iLmmVO
otoco to onna no alasoino genten wa fulucu subete no hasseino genten ni sacanobolu.
男と女の争いの種の歴史は古くすべての発生の原点にさかのぼる。
subeteno hasseino genten wa hiloi heimende hasseino gentende saisyoni hinotoliga umaleta.
すべての発生の原点は広い平面で、発生の原点で最初に火の鳥様が生まれた。
hinotoli sama wa hassei no gentendealu heimen o osihilogete littaino cuucan o otsuculini nalaleta.
火の鳥様は発生の原点である平面を押し広げて立体の空間をお造りになられた。
hinotoli sama wa cono cuucan ni onna to nazuce laleta colega secaino hajimalidealu.
火の鳥様はこの空間にオンナと名付けられたこれが世界の始まりである。
hinotoli sama wa cono cuucan no nacani sanco no taiyou o otsuculini nalaleta.
火の鳥はこの空間の中に3個の太陽をお造りになられた。
taiyouno coto o sun to yobunowa colega ulaidealu.
太陽のことをサンと呼ぶのはこれが由来である。
hinotoli sama ga saisyoni otsuculini nalaleta taiyou ga ticyuu de,
火の鳥が最初にお造りになられた太陽が地球で、
cono ticyuu no nacani saisyoni alawaleta simaga nihon de alu.
この地球の中に最初に現れた島が日本である。
sono nihonno nacade saisyoni umaleta micoto sama ga nigigi no micoto sama dealu.
その日本の中で最初に生まれたミコト様がニギギのミコト様である。
nigigi no micoto sama wa otoco de ali saisyono kami sama de atta.
ニギギのミコト様は男であり最初の祇(神)様であった。
sosite nigigi no micoto sama wa subeteno secaini otoco to naducelaleta.
そしてニギギのミコト様はすべての世界に男と名付けられた。
colega otocoto onna no alasoino hajimali deali zenutyuuno hajimali de alu.
これがオトコとオンナの争いの始まりであり全宇宙の始まりである。
secaide saisyono moji wa catacana de ali kanji no otoco to onna wa hotoce sama no secaicala hajimatta.
世界で最初の文字はカタカナであり漢字の男と女は佛(仏)様の世界から始まった。
denbun daihitsu:Bmen.
電文代筆:Bmen.

475 :渡海 難 忍法帖【Lv=16,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/09(日) 12:11:09.39 ID:qfQFdvO7
>>441
 蓮如上人の飲酒の問題を考える。

 若仏子、自ら酒を?(かも)し、人に教えて酒を?さしむれば、酒を?す因、酒を?す縁、酒
を?す法、酒を?す業あり。一切の酒は?すことを得ずとは、これ酒は罪を起すの因縁なればな
り。而も菩薩は、まさに一切の衆生に明達の慧を生ずべきに、反って更に一切の衆生に顛倒の心
を生ぜしめば、これ菩薩の波羅夷罪なり(梵網戒 第五重戒)。

 『若仏子、故に酒を飲むとは、酒の過失を生ずること無量なり。もし自身の手、酒器を過(わ
た)りて人に酒を飲ましむるは、五百世に手無し。何をか況や自ら飲まんをや。一切の人に教え
て飲ましめ、及び一切の衆生をして酒を飲ましむるを得ず。況や自ら酒を飲まんをや。もし故に
自ら飲み、人に教えて飲ましめば、軽垢罪を犯す(梵網戒 第二軽戒)。

五戒
 不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒
 (仏教において在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒)

 持戒坐禪を正法と名づく。念佛成佛これ眞宗なり。佛言を取らざるを外道と名づく。因果なし
との見を発すれば空となす。 〜 念佛は聲聲に佛種を下す。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝
若し修せずしてすなわち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五会
法事讃略抄 親鸞真筆)

 持戒坐禪を正法言う。念佛成佛は眞宗という。佛の言葉を聞かない者は外道という。因果はな
いという主張を空嘘と言う。浄土門は念仏を勧める。念佛は一聲一聲に佛の種がこもる。浄土門
が坐禪持戒を勧めるのは、仏の種に実体を設けるためである。もし、汝が、持戒坐禪をおろそか
にし、念仏だけで佛になればいいというなら、それは、空腹の人が風下に立ち、吹いてくる風を
腹に貯め込んで空腹を満たそうとするようなもので、全く空虚である。

476 :渡海 難 忍法帖【Lv=16,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/09(日) 12:14:00.64 ID:qfQFdvO7
蓮如上人、あるいは、人に御酒をも下され、物をも下されて、かようの事、ありがたく存じ候
いて、近づけさせられ候いて、仏法を御きかせ候う。されば、かように物を下され候う事も、信
をとらせらるべきためと思し召せば、報謝と思し召し候う由、仰せられ候うと云々(聞き書き)

 御門徒衆、上洛候えば、前々住上人、仰せられ候う。寒天には、御酒等のかんをよくさせて、
「路次のさむさをも忘られ候う様に」と、仰せられ候う。また、炎天の時は、「酒などひやせ」
と、仰せられ候う。(聞き書き)

 吹いてくる風を腹に貯め込んでも空腹は満たさない。仏教徒は、五戒を守るように努めるべき
だろう。蓮如上人は、あるとき酒を贈呈することがあった。門徒が上洛すれば、寒い日、暑い日
には酒で歓待することもあったようだ。これは戒律に反しないのか。

 五戒について、覚如は言う。出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁
・義・礼・智・信をまもりて、内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつると
ころなり。

 親鸞聖人の教えでは五戒を五常と読み替える。つまり、念仏者は最低限、仁・義・礼・智・信
を守る。 奢摩他・毘婆舎那を実践できない在家への教えの中に、不飲酒戒がないことは注目に
値する。親鸞聖人は、酒を禁じることで念仏門への入門のハードルが高くなることを嫌ったのだ
ろう。

 奢摩他・毘婆舎那を実践でき、僧として受戒した者は、聖道門の僧として不飲酒戒を守らなけ
ればならない。蓮如上人は、受戒時において不飲酒戒を誓っているから、不飲酒戒を守っている
という推定を受けるべきである。蓮如上人の行為の記録にその推定を覆す内容があるかを考える。
 蓮如上人について酒に関する記事は「蓮如上人聞き書き」以外に僕は知らない。これを問題に
する。

477 :渡海 難 忍法帖【Lv=16,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/09(日) 12:15:41.44 ID:qfQFdvO7
 もし酒を飲みて、心を悦ばしめ、善を生ずることあらば、飲むも戒を犯さず(未曾有経)  
〜 菩薩戒は利あれば、犯なし。結摩詰の、もろもろの酒肆に入りて能くその志を立つるがごと
し(太賢) (仏典講座 梵網経 石田瑞磨 著 孫引き)

 不飲酒戒以外の戒律は、それを破ることが自体が悪である。酒は、飲むことが悪なのではない。
飲んだ結果、多くの場合に悪をもたらすことから、その予防のために戒められていると考えるべ
きだろう。従って病気の僧が薬用酒を飲むことは禁じられていない(四分律)。
 未曾有経はなんと言っているのか。飲酒は善を生じるから飲んでもよいと言っているのではな
い。善を生ずるという合理的な特別な理由があれば、臨機応変に対処すべきである。不飲酒戒は
絶対的なものではない。そのように理解すべきである。
 蓮如上人は不飲酒戒を守っていたという推定を覆す根拠は存在しないと考える。

 蓮如上人は破戒僧であったという主張は、僕は根拠がないと考える。

 親鸞聖人・蓮如上人は共に持戒自律の清僧であったと僕は推定する。

刑法第二百三十条
 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の
懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
2  死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰
しない。

親鸞聖人・蓮如上人の名誉を、戒律を破った言う虚偽の事実を摘示して毀損すれば、三年以下
の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
 親鸞聖人・蓮如上人を貶める本願寺の僧は肝に銘じておく必要があると思う。

478 :渡海 難:2014/02/09(日) 14:01:20.94 ID:qfQFdvO7
>>475
× ?(かも)

○ 酉古(かも)

479 :渡海 難 忍法帖【Lv=17,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/10(月) 13:09:47.34 ID:qzPO6mv0
 親鸞聖人は持戒自律の清僧だった。蓮如上人も持戒自律の清僧だった。少なくとも、破戒僧で
あったという主張に根拠はないという主張の立証はここまでとします。
 途中で、言い残した議論を補充します。親鸞聖人はどのようにして善光寺の勧進僧になった
かという問題です。

 長野の善光寺は、治承3年(1179年)大火によって全焼し、礎石を残すだけになったの
で、その復興資金募集活動の一つとして、寺僧がグループを組んで各地に出かけ、いろんな企
画による募材活動を行った。これが「善光寺聖」で、それを積極的に支援したのが鎌倉幕府の
将軍源頼朝である。かれはこの募材に協力すべきことを支配下の武士全体に命じている。〜この
命に従わなかった御家人については所領を取り上げるとまで言っている〈吾妻鏡 文治3年7
月28日条〉 (新宗教団連合 篇 朝日新聞出版 「親鸞」)。

 鎌倉時代初期、信濃は関東御分国に含まれ、国司は鎌倉幕府が任命した。その中でも信濃は知
行国と呼ばれ、鎌倉幕府の強力な地盤を構成していた。
 信濃の善光寺は、当然、鎌倉幕府の庇護下に入り、鎌倉政権の文化の中心になったと考える。
善光寺は全国に優秀な僧を求め、彼らを勧進僧として関東文化圏に送り出し、関東文化圏の文
化の向上を促したと考える。

 教行信証に不思議な文章が書いてある。この問題と関係があると考えるとその間の親鸞の動
きがわかり、親鸞がどういう人物だったかその実像が見えてくる。


 太上天皇諱尊成、今上諱為仁聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法
に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。

 この文章のどこが不思議か。その問題から解説する。

480 :渡海 難 忍法帖【Lv=20,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/14(金) 12:50:03.56 ID:RbbDKDRA
 親鸞については、古田武彦氏がその著「親鸞思想」(1975年富山房刊)において、「教行
信証」のいわゆる「後序」のうち「ヒソカニオモンミレバ」から始まって「五年の居諸ヲヘタリ」
までを、越後流罪中に書いて提出した赦免要求の上奏文だとする説を発表した。これはこの本文
中に在位中の天皇を「今上」と呼んでいるのをキーワードにしての実証的研究であり、説得力を
持って、これが越後流罪中に書かれたことと認められる。しかし、一般にこうした赦免要求は、
若干の反省を述べたのち、為政者側のお慈悲を賜りたい、と結ぶのが通例であって、その点は今
も昔も変わることはないと思われるのに、この「後序」には「主上臣下法ニ背キ義ニ違シ」など
と念仏弾圧を強行した朝廷を手厳しく非難する語句が並んでおり、その点で朝廷への赦免請求と
は考へられない。越後での流刑中に執筆されたという点を生かすなら、これは鎌倉幕府への提出
ではなかろうか(「親鸞」 真宗教団連合編 朝日新聞出版)。

 「今上諱為仁」という言葉に注目する。諱が為仁というのは、土御門天皇のことである。土御
門天皇の在位は1198年2月18日〜1210年12月12日である。つまり、土御門天皇を
「今上」お呼びしている文章はその間に書かれているということである。

「我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり(化身土巻)」。教行信証化身土巻は、
元仁元年(1224年)ころ書かれていた。1224年当時の土御門天皇は、承久の乱の後、阿
波に流罪中の身である。そう考えると、今上諱為仁という文字が含まれている文章は、教行信証
を書くために起草した文章ではない。親鸞が流罪中にあるなんらかの目的で書いた文章を、その
後になって教行信証の末尾に差し入れたと考えるべきである。

 それでは、これは何の目的で書かれた文章だろうか。確かに、朝廷への赦免請求とは考へられ
ない。鎌倉幕府への提出書類であると考えれば、その目的がわからない。

 主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結んだのは1207年だから、今上諱為仁という
文字が含まれている文章は1207年〜1210年の間に書かれたことになる。その目的を考え
るなら、その後に起きた親鸞の変化から推定すべきだろう。

481 :渡海 難 忍法帖【Lv=20,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/14(金) 12:52:24.25 ID:RbbDKDRA
 四十歳、 〜 四月中旬に至るまて、上州信州の間に御滞留ありける。二州の法浴は、是時を
始めとす。又同月下旬信州戸隠山へ参りたまい。熊笹の名号をあそばせり。其より善光寺に一七
日御参籠のことあり。(正統伝)

 1212年、親鸞が数え年で40歳の時、善光寺に一七日間出かけている。このころ、親鸞は
流罪の身から解放されていたと考える。流罪の身からは解放されていたが、京都には戻っていな
いという事は、一つ注目に値する。親鸞は、鎌倉政権によって解放されたが、京都政権によって
赦免になったのではないということだろう。
 そう考えると、土御門天皇を「今上」と書いている文章は、京都政権ではなく、鎌倉政権に何
らかの影響を与えた文章であろうと考えられる。しかし、朝廷が決定した処分を鎌倉幕府が否定
できるとは思えない。義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受
けたことにある。鎌倉幕府には、朝廷が決定した処分を否定できない。だからこそ、頼朝は義経
を謀反人として追討しているのだ。鎌倉幕府はあくまで朝廷の下位にある。上位の権威が決定し
た処分を、下位の権威は覆すことはできない。親鸞は鎌倉幕府によって赦免されたのでもないと
考えるべきだろう。

 しかし、別の要素が加わると、別の展開になる可能性がある。「竊かに以みれば、聖道の諸教
は行証久しく廃れ」から、「仍って悲喜の涙を抑えて由来を縁を註す」までは、善光寺の勧進僧
募集に対して応募したときの親鸞の履歴書ではないか。親鸞はこれによって善光寺の勧進僧に採
用されたと考えると、様々な疑問が一気に氷解してくるのだ。流罪囚でも勧進僧に採用されば、
ここには特別な理由が加わることになる。勧進僧となれば、勧進僧としてのつとめが発生する。
親鸞は、鎌倉政権の勢力圏では特別の役割が求められることになった。

 親鸞は善光寺に提出し、善光寺から認印を貰った履歴書の副本を、生涯、自分を証明する身分
証明書として携行し、必要なところでは提示していた。そのように考えられるのである。
 さらに解説する。

482 :渡海 難 忍法帖【Lv=21,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/15(土) 13:47:23.59 ID:CT/UwQ/v
 「今上諱為仁」、この言葉をもう少し考えてみる。この言葉を含む文章は親鸞が流罪されてい
た時期に書かれたという考えは、合理性があると考える。つまり、1207年〜1210年の間
のいずれかの時期だろう。それは親鸞が教行信証を書くずっと以前である。
 ずっと以前に自分が書いた文章を、後に教行信証の中に引用すること自体は問題ない。ひとつ
気になることは、なぜ「今上」という言葉を削らなかったのかということである。
 親鸞は、教行信証の中で、他人の文章でさえ盛んに書き換えをしている。1220年代に自分
が書いている教行信証の中に、十数年前に書いた自分の文章を引用するなら、すでに退位して流
罪にまでなっている元天皇を「今上」と書くと言うことはどういうことだろうか。しかも、流罪
にしたのは鎌倉幕府である。普通に考えれば、「今上」という言葉を略して書くべきではないか。
それをしなかったのなぜだろうか。錯誤・健忘症説は一応度外視する。
 親鸞にとって、「今上」という言葉は外せない言葉だった。そのように考えるべきだろう。教
行信証の中では、先人の文書を盛んに改変している親鸞に、「今上」という言葉は外せない言葉
だった。そのように考えるべきだろう。
 書き換えることができない。文字を変えることができない。それはどういう場合か。いわゆる
「公文書」「証明書」の類いである。正本と副本とは同一文章でなければならない。副本はコピ
ーすることはできるが、一字でも変わっていれば、それば証明書としての意味を失う。「今上諱
為仁」という文字を含む文は、親鸞の身分証明書であるという僕の仮説は、それを根拠にする。

 勧進僧は全国を行脚し、多くの人から布施を募り、それを所属寺院に納める。布施を募る勧進
僧は、先々で自分を証明しなければならない。当然、身分証明書を携行したはずであり、親鸞も
勧進僧であればそのような身分証明書を持っていたはずである。親鸞は、教行信証の末尾に自分
の身分証明書を転記した。人々は、教行信証の末尾に書いてある文章をコピーし、善光寺に紹介
すれば、親鸞という人の実体を証明できる仕組みになっていたと考える。

483 :渡海 難 忍法帖【Lv=21,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/15(土) 14:08:16.73 ID:CT/UwQ/v
 身分証明書の範囲はどの範囲か。「竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ」から、「仍
って悲喜の涙を抑えて由来を縁を註す」までと考える。根拠は「既に製作を書写し、真影を図画
せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり」というこの主張から伺うことができると
考える。

「一切聖人、道果を得と雖も、自から稱説せず。稱説せざるゆえに、心悔恨せず。これを知足
と名づく」(「大般涅槃經要文」 親鸞真筆)。
 製作を書写した。真影を図画した。専念正業の徳だ。決定往生の徴だ。このような主張は、本
来、親鸞らしくない。「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜
ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」というこの言葉と比べ、
いささか不釣り合いである。



仏教の先人・哲人の中で、「決定往生の徴だ」などとこのようなこ
とを主張している人物は親鸞が空前絶後であると考える。つまり、親鸞は、ある目的のために自
分を売り込むための文章を転記していると理解すべきだろう。親鸞は、ここで自分を勧進僧とし
て採用してくれと請求をしていると考えると説明が付く。

 親鸞の履歴書は予想外の大成功となった。もともと鎌倉幕府と法然とは特別の関係にあった。
法然門下には熊谷直実がおり、北条政子は法然に教えを乞う手紙を送っている。親鸞は、非常に
高位の勧進僧として採用された。法然上人の下での実績を買われ、親鸞は律師としての地位が与
えられたようだ。真仏が親鸞からの受戒を受けたというのは、そういうことだろうと考える。

 そう考えると、教行信証の後序は注意して読まなければならない。竊かに以みれば、聖道の諸
教は行証久しく廃れ」から、「仍って悲喜の涙を抑えて由来を縁を註す」。ここまでの文章は、
法然上人と関係の深い善光寺への就職活動の文書という一面があるということを念頭に置いて理
解すべきである。

484 :渡海 難 忍法帖【Lv=21,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/15(土) 15:41:04.02 ID:CT/UwQ/v
追記

 往生は、なにごともなにごとも、凡夫のはからいならず、如来の
御ちかいに、まかせまいらせたればこそ、他力にてはそうらえ。ようようには
からいおうてそうろうらん、おかしくそうろう。あなかしこ、あなかしこ。(消息集)


 「既に製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生
の徴なり」というこの主張は、親鸞が手紙で弟子達に示していた教えとも矛盾し
ていることにも気づくべきだろう。

 その意味からも、後序は、自分を売り込むための就職活動のための履歴書
であるという主張に合理性を与えている。

485 :神も仏も名無しさん:2014/02/17(月) 10:23:33.61 ID:nS/KRfh8
関東に在住のおりは善光寺の勧進僧として活躍していたと言われるが、
しかし一生涯善光寺の勧進僧であったかどうか、京都に帰られてはどうであったか。
また関東では優勢であるはずの善光寺の念佛が度々非難され訴訟沙汰になっていた事実はどうか。
善光寺が後ろ盾になればあそこまで非難されることは無かろうと思うがどうか。

486 :渡海 難 忍法帖【Lv=22,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/17(月) 12:50:49.35 ID:Qw2pE1ia
>>485
>京都に帰られてはどうであったか。

京都帰還時代の親鸞の正装
http://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/old/ja/exhibition_ja/20060612-20060804_001_002_025_ja.html

 京都帰還時代の親鸞について絵伝に言う。
 定禅左右なくまいりぬ。すなわち、尊顔にむかいたてまつりて、申していわく、 〜 定禅問
いていわく、「かの化僧たれ人ぞや。」くだんの僧いわく、「善光寺の本願御房これなり」と。

 善光寺の本願御房というのが、親鸞の終生のアイデンティティだったということは、おそらく
疑いないと思います。

>善光寺の念佛が度々非難され訴訟沙汰になっていた事実はどうか。

 善証坊というトラブルメーカーが小さなトラブルを起こしたことがあるということは、親鸞の
手紙にある。善光寺の念佛が度々?非難?され訴訟沙汰??になったことを示す資料は、僕は確
認できない。

487 :渡海 難 忍法帖【Lv=22,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/17(月) 12:52:21.01 ID:Qw2pE1ia
>善光寺が後ろ盾になればあそこまで非難され

 善光寺の念佛が非難の対象になれば、善光寺は後ろ盾になるのではなく、表舞台に出なければ
ならないでしょう。なぜ後ろ盾で済むのでしょうか

 こうした善光寺における浄土信仰の成立と発展が、この地を念仏信仰の一大中心地としたこと
は、重源、明遍、証空、生仏、然阿(ねんあ)、良慶、良山、親鸞、一遍らの高僧知識をはじめ、
多くの念仏者の参詣と隠遁からも明らかである。しかも北条氏による不断念伝衆・不断経衆の粮
料寄進、保護もあって、善光寺の念仏は全盛をきわめるに至った。
善光寺 (平凡社『日本史大事典』より)
 http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-zenkoji.htm

全国善光寺会
「善光寺サミット」は、全国善光寺会の総会として、二年に一度、定期的に行われています。
【栃木県】
?専修寺  ?新善光寺  ?円通寺  ?専稱寺 ・・・・
 http://www.zenkoji.jp/link/index.html

 彼(親鸞は善光寺で)霊告を語り、(善光寺は)三躯一光の金像を聖人に献れり。聖人歓喜の
涙に咽び、袈娑につつみ、笈に入れ、自から負て(真岡に)帰りたまう〔正統伝〕。

 専修寺は、歴史的には専修寺の末寺であり、現在でも善光寺とはつながりが強い。

488 :神も仏も名無しさん:2014/02/17(月) 13:56:08.83 ID:nS/KRfh8
>>486
>  京都帰還時代の親鸞について絵伝に言う。
>  定禅左右なくまいりぬ。すなわち、尊顔にむかいたてまつりて、申していわく、 〜 定禅問
> いていわく、「かの化僧たれ人ぞや。」くだんの僧いわく、「善光寺の本願御房これなり」と。
>
>  善光寺の本願御房というのが、親鸞の終生のアイデンティティだったということは、おそらく
> 疑いないと思います。


全体をトリミングして勝手な解釈をしてはいけない、その部分は
絵師が前日に見た夢つまり善光寺の本願御坊と装束が同じだったと言うことだろう、
だから親鸞の顔だけを写し取ればよかったという逸話だね。
本願御坊と言うのが親鸞のアイデンティティとは勇み。

489 :神も仏も名無しさん:2014/02/17(月) 13:56:40.00 ID:nS/KRfh8
御弟子入西房、上人[親鸞]の真影を写したてまつらんとおもふこころざしありて、日ごろをふるところに、
上人そのこころざしあることをかがみて仰せられてのたまはく、「定禅法橋[七条辺に居住]に写さしむべし」と。
入西房、鑑察の旨を随喜して、すなはちかの法橋を召請す。定禅左右なくまゐりぬ。すなはち尊顔に向かひた
てまつりて申していはく、「去夜、奇特の霊夢をなん感ずるところなり。その夢のうちに拝したてまつるところの
聖僧の面像、いま向かひたてまつる容貌に、すこしもたがふところなし」といひて、たちまちに随喜感歎の色
ふかくして、みづからその夢を語る。貴僧二人来入す。一人の僧のたまはく、「この化僧の真影を写さしめんと
おもふこころざしあり。ねがはくは禅下筆をくだすべし」と。定禅問ひていはく、「かの化僧たれびとぞや」。
件の僧のいはく、「善光寺の本願の御房これなり」と。ここに定禅掌を合はせ跪きて、夢のうちにおもふやう、
さては生身の弥陀如来にこそと、身の毛よだちて恭敬尊重をいたす。また、「御ぐしばかりを写されんに足り
ぬべし」と云々。かくのごとく問答往復して夢さめをはりぬ。しかるにいまこの貴坊にまゐりてみたてまつる尊容、
夢のうちの聖僧にすこしもたがはずとて、随喜のあまり涙を流す。しかれば「夢にまかすべし」とて、いまも
御ぐしばかりを写したてまつりけり。夢想は仁治三年九月二十日の夜なり。つらつらこの奇瑞をおもふに、
聖人(親鸞)、弥陀如来の来現といふこと炳焉なり。しかればすなはち、弘通したまふ教行、おそらくは弥陀
の直説といひつべし。あきらかに無漏の慧灯をかかげて、とほく濁世の迷闇を晴らし、あまねく甘露の法雨
をそそぎて、はるかに枯渇の凡惑を潤さんがためなりと。仰ぐべし、信ずべし。

490 :渡海 難 忍法帖【Lv=23,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/18(火) 01:09:28.04 ID:8exfZ1RD
>>488
>絵師が前日に見た夢つまり善光寺の本願御坊と装束が同じだったと言うことだろう、

夢枕に立つ
 神仏や故人などが夢の中に現れて、ある物事を告げる。

修辞的文学的表現(文章に豊かな表現を与えるための技法。)
 夢をオーバーラップさせて幻想化し、事実を象徴文学化する。
 仏典で培われてきた技法だ。

 尊顔にむかいたてまつりて、申していわく、「去夜、奇特の霊夢をなん感ずるところなり。
その夢中に拝したてまつるところの聖僧の画像、いまむかいたてまつる容貌、すこしもたがう
ところなし」といいて、たちまちに随喜感歎の色ふかくして、みずからその夢をかたる。

491 :渡海 難 忍法帖【Lv=23,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/18(火) 10:32:37.19 ID:8exfZ1RD
追記
  絵伝=親鸞の神格化工作本

      神格化の親鸞の背景にある実体的事実を読んで行きたいものだ。

 善光寺の如来の われらをあわれみましまして なにわのうらにきたります  ・・・・ 弓
削の守屋の大連  邪見きわまりなきゆえに  よろずのものをすすめんと  やすくほとけと
もうしけり       親鸞八十八歳御筆

八十八歳のころも、善光寺は親鸞にとって、とても大切な場所だったようです。

 善光寺の如来の 我らを哀れみましまして 難波の浦に来たります  ・・・・ 弓削の守屋
の大連  邪見極まりなきゆえに  万の者を勧めんと  易くほとけと申しけり
              親鸞八十八歳御筆

八十八歳のころも、善光寺は親鸞にとって、とても大切な場所だった。


>善光寺の本願御坊と装束が同じだったと言うことだろう、だから親鸞の顔だけを写し取ればよ
かったという逸話だね。

意味不明、宇宙人の寝言。怪電波。    ノーコメント

492 :神も仏も名無しさん:2014/02/18(火) 11:13:41.73 ID:FniiCSlk
何が言いたいのかよくわからんのだよな、
善光寺の勧進僧であったのが事実だとするとそれがどうなのか、
親鸞、蓮如が戒律を守る清僧であることを証明してそれがどうなのか、

>491
>追記
>  絵伝=親鸞の神格化工作本
>  神格化の親鸞の背景にある実体的事実を読んで行きたいものだ。

絵伝は工作本であると僕も思う、だからどうなのか。

493 :渡海 難 忍法帖【Lv=23,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/18(火) 11:47:27.07 ID:8exfZ1RD
>>492
>親鸞、蓮如が戒律を守る清僧であることを証明してそれがどうなのか、

 議論に途中から入ることはいっこうに結構だが、先行レスは読んでほしいものだ。

 >>172←直接の起点はここだ。

 >>172には >>97から流れてきている。

 幸い、>>492の議論の起点は同じスレッドの中にある。
 
 読んでみてほしい。

494 :神も仏も名無しさん:2014/02/19(水) 11:04:24.72 ID:9v2PlblZ
>出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、
>内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり(改邪抄 覚如)。

念佛をする人間のなかには信を得たとばかりに風紀を乱す人間も多かった、ゆえに
改邪鈔を執筆することで風紀の紊乱を止めたのであろう。

だがしかしよく考えてみると念佛と五戒と五常の関係はどうなっているのかこれが難しい。
五常が守れる人間ならそもそも宗教などの必要をあまり感じないだろう、なぜならそれが
孔子をはじめ中国の儒者の態度であるからだ。
念佛など必要ないのではないか?
現在においてもほとんどの日本人が根底にはそのような思想があると思える
、だから日本人は無宗教と言われるのではないか。
五常を正しく理解し守れるなら当然約束事である五戒を守ることは出来るだろう、約束事を
守れないのは五常の「信」をやぶることになるのであるから。
さて五常を理解しようにも守ろうにも一文不通の人間はどうなるのか?
四書五経を読破し理解し実践できる人以外はどうなるのか?
五戒を守れない人はどうなるのか?
そのことを考えて念佛、五戒、五常を語らねばなるまい。

495 :神も仏も名無しさん:2014/02/19(水) 11:21:03.09 ID:9v2PlblZ
>>97
> 善因善果悪因悪果というけど
> 何が善で何が悪か、そのこともわからん
> 善をなせない人間こそ往生するのだよ。

丁寧に解説すると

五戒を守れなくとも五常が何たるかもわからなくとも
念佛に勝る善はないからそれで阿弥陀仏の仏国土へ往生する。
往生の業に限っては念佛が為先または為本と言う言葉に尽きる。
一文不通の人間にとって四書五経が読めなくとも五戒が守れなくとも、
善の何たるかがわからなくとも念佛だけで往生できる。それが
「ただ念仏して」ということばにおさまる。

496 :神も仏も名無しさん:2014/02/19(水) 15:17:16.06 ID:9v2PlblZ
南無阿弥陀仏{往生之業念仏為先}


もう一度念を押しておきますが私が言っているのはあくまで往生のことですよ、
往生と言うのは阿弥陀仏の仏国土への往生ですよ
阿弥陀仏の仏国土は浄土とも言いますが、浄土への往生は念佛が先と言うことです。
あくまで浄土への往生に限っての話ですよ、世間をわたる方法論ではないです。

世間と言うのは格差のあるものだし、それを逃れる方でもないあくまで往生に関して
一番平等な簡単な方法を法然親鸞さんは語ってます。
なぜなら鎌倉時代以前には往生についても大変な格差があり差別があったからですよ。
そこのところを誤解してはなりませんよ。
そこらへんは渡海さんだけではなしに、社会運動に熱心な本願寺自体が間違っているかも知れませんが。

497 :渡海 難 忍法帖【Lv=24,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/21(金) 12:54:36.23 ID:bf0hAWEN
>>494
 苦笑 話にならん。 反論があるなら反論してみなさいな。

ID:9v2PlblZの背後霊の声  (笑)

覚如さん。見つけましたよ。あなたはなんというでたらめなインチキを言いふらしているんで
すか? 「五常となづくる仁・義・礼・智・信をまも」れ(改邪抄)ですって?。なにを言うん
ですか?
 五戒を守れなくとも五常が何たるかもわからなくとも念佛に勝る善はないからそれで阿弥陀仏
の仏国土へ往生する。往生の業に限っては念佛が為先または為本と言う言葉に尽きる。一文不通
の人間にとって四書五経が読めなくとも五戒が守れなくとも、善の何たるかがわからなくとも念
佛だけで往生できる。それが「ただ念仏して」ということばにおさまるんですよ。ありがたい。
ありがたい。

 覚如さん。貴方にも多少、同情するところはあります。貴方の時代には、念佛をする人間のな
かには信を得たとばかりに風紀を乱す人間も多かった、ゆえに改邪鈔を執筆することで風紀の紊
乱を止めたのであろう。現代ではほとんどいませんよ。見てください。私などは、現代風紀の手
本、風紀の鏡です。

 現代では泥棒する浄土真宗の坊さんなど少ししかいません。高速道路の料金所を大型バイクで
突破したとした真宗僧侶の柳○信だって逮捕は2012年3月17日でしょ。昔の話ですよ。あ
の人が僧服を着て料金所突破したのは1年間高々約80回ですよ。
 出会い系サイトで知り合った女子中学生を相手に買春行為をした那○一○だって、逮捕は20
10年の11月30日でしょ。たくさんいるわけではありませんよ。
 大阪教区准堂衆会の会長が、中央声明講習会の受講者を殴ったのだって2009年5月22で
す。あれだって判決はたかだか懲役一年六ヶ月の刑ですよ。
 長岡市で真宗僧侶の井○暢○が銃刀法違反の疑いで逮捕されたのは2009年の12月です。
あの人だって、それまで過去に数回しか逮捕されていない。たかだか数回ですよ。本物の日本刀
を振り回したのはわずか一回、鉄パイプで殴って傷害容疑で逮捕されたとき、その被害者は知人
の女性を殴ったときだけです。
 みんなインターネットに載っています。

498 :渡海 難 忍法帖【Lv=24,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/21(金) 12:55:48.17 ID:bf0hAWEN
 念佛をする人間のなかには昔は、信を得たとばかりに風紀を乱す人間も多かった、ゆえに改邪
鈔を執筆することで風紀の紊乱を止めたのであろう。現代はそうではありません。浄土真宗でも、
風紀の紊乱する僧侶は少ないです。いません。まったくいないと言ってもいいでしょう。

 泥棒はいかん。中学生とエッチしてはいかん。女性を鉄パイプで殴ってはいかん。現在においても
ほとんどの日本人が根底にはそのような思想があると思える、だから日本人は無宗教と言わ
れるのではないか。坊さんを見習ってほしい。
 現代の浄土真宗では、本願寺の門主様は全国教誨師連盟総裁であらせられる。刑務所を回って、
強盗をしたひと、殺人をした人、泥棒、放火をした人に尊い御教えをといているんですよ。
 みなさん。悪いことをしてもいいんですよ。阿弥陀様が救ってくれますからね。よかったです
ね。悪い人こそ救われます。みなさんよかったですね。ありがたい。ありがたいと。これが悪人
正機ですよ。こんなにやさしいではないか。

 五戒を守れない人はどうなるのか?そのことを考えて念佛、五戒、五常を語らねばなるまい。
覚如さん。あなたの出番はありません。引っ込んでいてください。

 親鸞さん。見つけましたよ。あなたはひどいことを言っていますね。なんですかこれは?
 宝応声菩薩、日天子。宝吉祥菩薩月天子 老子、迦葉菩薩。孔子、儒童菩薩。孔子弟子、顔回、
光浄菩薩
 あなたはこんなメモを書いて直筆で専修寺に残している。こんなことをするから、みんな自力
に走るんですよ。阿弥陀様を忘れるんです。孔子がどうして儒童菩薩ですか?
 あなたは教行信証にまで嘘を書いている。

もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・
礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな
滅しなん。

 ひどいとは思ませんか?。泥棒したり、中学生にわいせつしたり、研修生を殴って懲役刑を科
される坊さんなんか、浄土真宗には少ししかいないのに、仁・義・礼・智・信がなんだというん
ですか?

499 :渡海 難 忍法帖【Lv=24,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/21(金) 12:56:34.34 ID:bf0hAWEN
 五常が守れる人間ならそもそも宗教などの必要をあまり感じないだろう、なぜならそれが孔子
をはじめ中国の儒者の態度であるからだ。

 孔子は関係ありません。五常を理解しようにも守ろうにも一文不通の人間はどうなるのか?四
書五経を読破し理解し実践できる人以外はどうなるのか?五戒を守れない人はどうなるのか?

 研修生を殴ってけがをさせるような人こそ救ってくださるのが阿弥陀仏なんです。中学生とエ
ッチする大学の先生の坊さんこそが救われるんです。五戒を守れなくとも五常が何たるかもわか
らなくとも念佛に勝る善はないからそれで阿弥陀仏の仏国土へ往生するんです。泥棒も、暴行魔
も、チカンも、みんな私のように阿弥陀仏の仏国土へ往生するんです。
 往生の業に限っては念佛が為先または為本と言う言葉に尽きる。一文不通の人間にとって四書
五経が読めなくとも五戒が守れなくとも、善の何たるかがわからなくとも念佛だけで往生できる。
それが「ただ念仏して」ということばにおさまる。

 そこらへんは渡海さんだけではなしに、社会運動に熱心な本願寺自体が間違っているかも知れ
ませんが。
 親鸞さん。あなたが一番間違っていますよ。

500 :渡海 難 忍法帖【Lv=25,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/21(金) 17:00:46.43 ID:bf0hAWEN
ID:9v2PlblZの背後霊の声

五戒を守れなくとも五常が何たるかもわからなくとも
念佛に勝る善はないからそれで阿弥陀仏の仏国土へ往生する。

高速道路の料金所を大型バイクで突破して料金を踏み倒しても、出会い系サイトで知り合った
女子中学生を相手に買春行為をしても、講習会の受講者を殴っても、鉄パイプで知人の女性を殴
っても、念佛に勝る善はないからそれで阿弥陀仏の仏国土へ往生する。

もう一度念を押しておきますが私が言っているのはあくまで往生のことですよ、往生と言うの
は阿弥陀仏の仏国土への往生ですよ阿弥陀仏の仏国土は浄土とも言いますが、浄土への往生は念
佛が先と言うことです。あくまで浄土への往生に限っての話ですよ、世間をわたる方法論ではな
いです。

さて五常を理解しようにも守ろうにも一文不通の人間はどうなるのか?四書五経を読破し理解し実践で
きる人以外はどうなるのか?五戒を守れない人はどうなるのか?

高速道路の料金所を大型バイクで突破して料金を踏み倒す坊さんも、出会い系サイトで知り合
った女子中学生を相手に買春行為する坊さん大学教師も、鉄パイプで知人の女性を殴る坊さんも、
講習会の受講者を殴る坊さん講師も、五常を理解しようにも守ろうにも一文不通の人なんですよ。
文字も知らない坊さんなんです。四書五経を読破し理解し実践できる人ではないんです。
 浄土真宗では、文字も書けない、文字もしらない坊さんばかりなんです。五戒を守れる坊さん
はいません。みんな罪悪深重の凡夫です。煩悩具足の凡夫です。だから阿弥陀様に救われるんです。


↑ 馬鹿たれID:9v2PlblZは話にならん!!
  反論があるなら言って見ろ。

501 :神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 10:43:47.52 ID:UaSAnaKJ
顕浄土真実行文類 二

     愚禿釈親鸞集

 謹按往相廻向有大行有大信 大
 行者則称無礙光如来名斯行即是
 摂諸善法具諸徳本極速円満真如
 一実功徳宝海故名大行 然斯行
 者出於大悲願即是名諸仏称揚之
 願復名諸仏称名之願復名諸仏咨
 嗟之願亦可名往相廻向之願亦可
 名選択称名之願也

502 :渡海 難 忍法帖【Lv=28,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/25(火) 12:12:49.09 ID:PIn7hIm4
 >>495-497は、実は非常に大切な問題を提起している。仏教とは何なのか。説明します。
 それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なる喜びなり。身は卑しくとも畜生に
劣らんや、家貧しくとも餓鬼には勝るべし。心に思うこと叶わずとも、地獄の苦しみには比ぶべから
ず。(源信)。
 たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ(大経)。

 仏教は人間に向かって説かれている教えです。言い換えれば、餓鬼、畜生に向かって説かれている
教えではない。餓鬼・畜生に向かっては、語る言葉は用意していないということです。罪悪深重・煩
悩熾盛の衆生をたすけると歎異抄が言っても、相手は人間に限ります。罪悪深重・煩悩熾盛の畜生も
助けますと言っているのではない。「ただ念仏して」という教えも、人間に向かって説いているので
あり、鬼やケダモノに向かって「ただ念仏して」と説いているのではないということです。

 畜生とは何か。親鸞は重要なことを教えてくれている。

 王舎大城に阿闍世王という人物がいた。父王を殺し、母后を幽閉し、宮廷内クーデターで王位に就
いたが、重い病気になって苦しむ結果になった。何人もの医師が治療を試みるが改善しない。そこで
耆婆という医師が呼ばれた。耆婆が言う。

耆婆、答えて言わく、善いかな、善いかな、王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐
けり。
 耆婆が言う。非常に喜ばしいことだ。阿闍世王は父王を殺し、母后を幽閉するという大罪を犯した。
しかし心に重い悔いを抱き、慚愧の念を持っている。これが喜ばしい。

 大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つ
には愧なり。
 大王よ。世の中の哲人達はこのように言う。世の中には二つの大事な原則がある。それがなければ、
人々は救われることがない。それは、慙と愧である。どれだけ巧みに人間の仮面を被っていても、慙
と愧がないものは救われることはない。

503 :渡海 難 忍法帖【Lv=28,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/25(火) 12:14:09.93 ID:PIn7hIm4
 大乗仏教を謗る者、五逆罪を犯す者、一闡提、この三者に関しては声聞・縁覚・菩薩は手に負えな
い。しかし、慙と愧があれば、仏陀であれば救うことができる。しかし、慙と愧がないものは、仏陀
でも救うことができない。慙と愧がある者には仏陀は語りかける言葉がある。しかし、慙と愧がない
者には仏教は語る言葉の用意はない。

 慙は自ら罪を作らず、愧は他を教えて作さしめず。
 慙は、悪いことを自分からしない。愧は、他人にも悪いことはやめようと勧める。
 慙は内に自ら羞恥す、愧は発露して人に向かう。
 慙は、悪いことをしてしまった場合、深く反省する。愧は、悪いことをした場合、それを隠し立て
しない。
 慙は人に羞ず、愧は天に羞ず。
慙は、人間同士の約束を守る。愧は、天の道理に反することをしない。

 これを慙愧と名づく。無慙愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
 以上を慚愧と言う。慚愧の無い者は人間ではない。それは畜生である。仏教は、人間を仏陀に導く
道を準備しているが、畜生に語る言葉の用意はない。
 
 慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹ある
ことを説く。善いかな大王、具に慙愧あり、と。
 慚愧こそ尊敬の基盤である。慚愧がなければ父母・師長を恭敬することがない。父母・師長を恭敬
することができないなら、仏陀は存在しない。父母・兄弟・姉妹があるというのは、慚愧が基盤であ
る。畜生には父母・兄弟・姉妹は存在しない。
  
 世の中の人は、大きく二つに分かれます。(A)自分はよいことをしていこうと思う人。(B)自
分は悪いことをしていこうと思う人。仏教は、Bの人に語る言葉の準備がありません。
 Aは、二つに分かれます。(Aa)何がよいことで、何がわるいことで、自分は何をすべきか知っ
ている人。(Ab)何がよいことで、何がわるいことかが分からず、自分は何をしたらいいかわから
ない人。仏教は、Aaに語る言葉はありません。釈迦に説法しても無意味だからです。

504 :渡海 難 忍法帖【Lv=28,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/25(火) 12:15:33.18 ID:PIn7hIm4
 Abはさらに二つに分かれます。(Ab1)何が善で何が悪か自分は分かっており、自分は何をす
べきか分かっていると思っている人。(Ab2)何が善で何が悪か自分は分かってなく、自分でも何
をすべきか分かってないと思っている人。
 仏教は、Ab2に語りかける言葉を持っています。Ab1はさらに二つに分かれます。(Ab1@)
他人の話を聞く耳のある人。(Ab1A)他人の話を聞く耳のない人。仏教は、聞く耳のないAb1
Aに語る言葉を持っていません。準備もありません。仏教は、Ab1@にだけ、語りかける言葉を持
っています。

 Ab1@は、三種類に分かれます。(Ab1@@)念仏に誘えば、「わしゃ、念仏だけは絶対に嫌
じゃ。絶対に話に乗らんぞ。座禅して念仏など、とんでもないことだ」と拒否する人。(Ab1@A)
念仏に誘えば、「やってみようかな。止めとこうかな。どっちにしようかな」と心が揺れる人。(A
b1@B)念仏を誘わなくても、「これ面白いじゃん。よし他人がなんと言ってもおれはやるぞ」と
思う人。浄土真宗はAb1@@に誘いをかけることはありません。こういう人は、自分の好きな道を
歩めばいいだけですから。浄土真宗はAb1@Bに語りかける言葉もあまりありません。こういう人
は、自分の好きな道を歩めばいいだけですから。全く無いと言う意味ではありません。少ないという
意味でとってください。浄土真宗は、Ab1@Aを不定聚と呼び、積極的に語りかけます。「一緒に
念仏称えてみませんか」と。
 Ab2は、Ab1@と同じように、三種類に分かれます。Ab2@とAb2AとAb2Bです。A
b2@に誘いをかけることはありません。Ab2Bに語りかける言葉もあまりありません。Ab2A
を不定聚と呼び、この人々に積極的に語りかけます。

 邪見驕慢の悪衆生は浄土真宗が関わっていく相手ではない。そのように考えるべきでしょう。

505 :渡海 難 忍法帖【Lv=28,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/25(火) 12:19:29.31 ID:PIn7hIm4
 曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。
 曾子曰く、吾れ日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。
習はざるを伝へしか、と。

 五戒を守れなくとも五常が何たるかもわからなくとも念佛に勝る善はないからそれで阿弥陀仏の仏
国土へ往生する。>>495

 >>495の主張は間違いである。
 「王法は額にあてよ。仏法は内心に深く蓄えよ」との仰せに候う。仁義と云う事も、端々あるべき
ことなるよしに候う(蓮如)。
 仏教が先か、五常が先か。五常が守れない人は、五常を学ぶことが先だ。仏教は、五常を学び、五
常を守るようになってから学べばいい。人は仏教よりも五常を学ぶことが先だ。
 仏教を学ばなくても、五常を学ぶことは可能である。しかし、五常を学ばない者は、仏教を学ぶ資
格はないというべきだ。仏教は、人が人になってから学ぶものであり、反省のない鬼・ケダモノの道楽
ではない。

 極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、思い直してこそあるべきに、そ
の徴もなからん(愚狂の)人々に、(悪人正機)悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候。
(親鸞 消息集)

506 :渡海 難 忍法帖【Lv=28,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/25(火) 17:06:23.39 ID:PIn7hIm4
ID:9v2PlblZの背後霊の声は、「畜生」の屁理屈を代弁するつもりで僕は書いた。

 畜生とは、慚愧のない人物。恥知らずの人間である。親鸞聖人の教えは畜生の

屁理屈ではない。畜生の屁理屈と親鸞聖人の教えとを峻別できない人がいれば、

実に残念な人だ。畜生の屁理屈と親鸞聖人の教えの違いをわかってほしい。

507 :神も仏も名無しさん:2014/02/26(水) 08:19:32.30 ID:JyE70lWx
もはや言うべき言葉を失った、のちは宗祖親鸞のお言葉で代弁したい

顕浄土真実教行証文類 序

わたしなりに考えてみると、 思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、
渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、 何ものにもさまたげられないその光明は、
煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。
ここに、 浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、 提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害
させたのである。 そして、 浄土往生の行を修める正機が明らかになり、 釈尊が韋提希をお導きにな
って阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。 これは、 菩薩がたが仮のすがたをとって、 苦しみ悩むす
べての人々を救おうとされたのであり、 また如来が慈悲の心から、 五逆の罪を犯すものや仏の教え
を謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。
よって、 あらゆる功徳をそなえた名号は、 悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、
得がたい金剛の信心は、 疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると知ることができる。
このようなわけで、 浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、 愚かなものにも往いき
やすい近道なのである。 釈尊が説かれたすべての教えの中で、 この浄土の教えに及ぶものはない。
煩悩に汚けがれた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、 行に迷い信に惑い、 心が暗く知る
ところが少なく、 罪が重くさわりが多いものは、 とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、 必ずこのもっともすぐれ
たまことの道に帰して、 ひとえにこの行につかえ、 ただこの信を尊ぶがよい。
ああ、 この大いなる本願は、 いくたび生を重ねてもあえるものではなく、 まことの信心はどれだけ時を
経ても得ることはできない。 思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、 遠く過去からの因縁を
よろこべ。

508 :神も仏も名無しさん:2014/02/26(水) 08:25:39.12 ID:JyE70lWx
>あらゆる功徳をそなえた名号は、 悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり

念佛と言うものは悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきである。

念佛は悪を転じて徳に変える

悪を転じて徳に変える

悪から徳へ変えるのは唯念佛だけである

南无阿弥陀仏

愚かなものでも往生しやすい道である。。云々

南无阿弥陀仏

罪が多くさわりが多いものは、とりわけ念佛をすることです

南无阿弥陀仏

509 :神も仏も名無しさん:2014/02/26(水) 08:32:14.75 ID:JyE70lWx
>>505
>  仏教が先か、五常が先か。五常が守れない人は、五常を学ぶことが先だ。仏教は、五常を学び、五
> 常を守るようになってから学べばいい。人は仏教よりも五常を学ぶことが先だ。
>  仏教を学ばなくても、五常を学ぶことは可能である。しかし、五常を学ばない者は、仏教を学ぶ資
> 格はないというべきだ。仏教は、人が人になってから学ぶものであり、反省のない鬼・ケダモノの道楽
> ではない。


佛道か道徳か、おそらく支那の先人たちも大いに議論したことであろう
キリスト教か倫理かについて西欧でも大いに議論したことであろう
ここネットで貴殿と一年二年或いは一生議論しても答えは出ないであろう。

阿弥陀仏の仏国土に往生するについては法然親鸞に学べばよろしい、
 
  往 生 に つ い て 学 べ ば よ ろ し い

往生以外の諸佛道、道徳は好きなように勉強するがよろしい

510 :渡海 難 忍法帖【Lv=29,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/26(水) 11:42:43.36 ID:LAvg7GJn
 もはや言うべき言葉を失った、のちは宗祖親鸞のお言葉で代弁したい

 顕浄土真実教行証文類 序
 わたしなりに考えてみると、 思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできな
い迷いの海を渡してくださる大きな船であり、 何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の
闇を破ってくださる智慧の輝きである。(前序)

思いはかることのできない阿弥陀仏の本願とは、難思ということだ。難思の弘誓ということで
ある。難思議のお誓いではない。阿弥陀仏は、四つの大事な誓いを建てられた。念仏往生の誓い
と難思議往生の誓いと双樹林下往生の誓いと難思往生の誓いだ。ここでは、難思往生の誓いこそ、
渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であるとおっしゃっている。

 阿弥陀経の意なり 至心回向の願 不定聚機 難思往生(化身土巻)
 いま方便真門の誓願について、行あり信あり、また真実あり方便あり。「願」とは、すなわち
植諸徳本の願これなり。「行」とは、これに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。「信」
とは、すなわち至心回向欲生の心これなり。「機」について定あり散あり。「往生」とは、これ
難思往生これなり。「仏」とは、すなわち化身なり。「土」とは、すなわち疑城胎宮これなり。
(化身土巻)

 人々に念仏を勧めると、人々は三種類に分かれる。正定聚・不定聚・邪定聚である。正定聚は、
よし、自分は誰がなんと言ってもしっかりと念仏を実践していくぞ。そのように決意する人であ
る。こういう人はしっかり導いていこう。阿弥陀仏はそのように誓ってくださった。これが念仏
往生の願である。念仏往生した人は必ずや悟りに近づく。必ず悟りに導こう。そういう誓いが難
思議往生の誓いである。
 邪定聚はちがう。念仏などはとんでもない。私は絶対にいやですよ。そのように拒絶する。こ
ういう人には、念仏以外の仏道を紹介して導こう。阿弥陀仏はそのように誓った。それが双樹林
下往生である。

511 :渡海 難 忍法帖【Lv=29,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/26(水) 11:43:25.07 ID:LAvg7GJn
 これに対し、不定聚は、「どうしうようかな。誘いに乗ろうか、やめておこうか、どうしよう
かな。ほんとに念仏でいいのかな」と迷う。半信半疑になる。半信半疑を疑城という。話半分で
勘違いし、妄想の中に入っていく人もいる。これを胎宮という。つまり、話を聞けば疑城胎宮に
とらわれていく人もたくさんいる。この人々を正しく導こうというのが、難思往生の願、難思の
弘誓という願である。思いはかることのできない阿弥陀仏の本願である。これは阿弥陀仏の20
番目の誓いとして書かれている。

 親鸞は言う。「それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし(化
身土)」。なぜなら、
 
当今の凡夫は、現に「信想軽毛」と名づく、また「仮名」と曰えり、また「不定聚」と名づく、
また「外の凡夫」と名づく。未だ火宅を出でず。
 現代人はそのほとんどが信想軽毛つまり不定聚だ。聚とは集、衆という意味だ。人々という意
味だ。定まらない人々という意味だ。念仏に誘えば右に左に揺れる人々。はっきり拒絶も賛同も
できない人々、様々に心変わりする人々、これを不定聚という。現代人のほとんどは不定聚であ
る。
 心が定まる正定聚の人々には念仏往生の願をもって念仏を勧め、難思議の弘誓で悟りに導く。
圧倒的多数の信想軽毛の不定聚はこれでは間に合わない。

 法然上人は、念仏往生の願で浄土門を開いた。親鸞聖人は、二〇願つまり難思往生の願、難思
の弘誓こそ阿弥陀仏の考えの眼目だったと見いだした方だ。

 親鸞聖人は機を見て法を説く。機とは器という意味だ。器量、人格という意味だ。親鸞聖人は
相手の器量を見極めて法を説く。不定聚という器量こそ、現代人の圧倒的多数である。信想軽毛
な不定聚のみなさん。阿弥陀仏の救いの核心は、圧倒的多数のあなた方に寄せられています。親
鸞聖人はそう言っている。

512 :渡海 難 忍法帖【Lv=29,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/26(水) 11:45:18.60 ID:LAvg7GJn
 「善いかな、善いかな、王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐けり。〜無慙愧
は名づけて人とせず、名づけて畜生とす」(信の巻)。「もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説
きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのご
とき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。(信の巻)」

 不定聚とは人間である。親鸞は畜生に向かって教行信証を説いているのではない。人間の皮を
被って生まれてくれば、死ぬまで人は人間である。仏教はこのような考えはとっていない。無慙
愧は畜生である。不定聚は人間であり、その中に畜生を含まない。
 教行信証は畜生に向かって何かを言っていると思ったら大間違いである。

513 :神も仏も名無しさん:2014/02/27(木) 10:35:20.71 ID:fRflpjV/
>>511
>  法然上人は、念仏往生の願で浄土門を開いた。親鸞聖人は、二〇願つまり難思往生の願、難思
> の弘誓こそ阿弥陀仏の考えの眼目だったと見いだした方だ。
>
僕はここが良くわかりません、難思往生と難思の弘誓とは難思と言う言葉が同じでも違うと考えます。
もう一度考えます。

514 :渡海 難 忍法帖【Lv=30,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/27(木) 13:36:39.34 ID:ky/Ugv+j
>もう一度考えます。

 まあ、この言葉に一筋の光明を期待しようかと思う。
 宗教について発言したいなら、もっと勉強しなさい。2ちゃんねるならどんな馬鹿を書いても
いいが、外でも発言することがあるなら、その前にもっとしっかり勉強しなさいよ。

 「行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの(前序)」これは不定聚です。正定
聚ではありません。前序の聞き手は不定聚だということです。つまり教行信証の聞き手は不定聚
なんですよ。
 不定聚の救いは、難思の弘誓、つまり難思往生の願だということです。不定聚こそが、現代人
の圧倒的多数です。不定聚は人間です。慚愧の心のある人間です。不定聚は、嘘つき、破廉恥
漢、恥知らず、鬼、ケダモノを含みません。
 親鸞はこの不定聚こそを、阿弥陀仏の救いの眼目だと見抜いたんです。

>キリスト教か倫理かについて西欧でも大いに議論したことであろう

 馬鹿を言いなさんな。キリスト教倫理のないキリスト教がありますか?キリスト教から倫理・
道徳を外したら、いったいなにが残るんですか?
 ヨーロッパ文明は、ギリシャ文明とローマ法とキリスト教から生まれた。ヨーロッパの倫理道
徳はキリスト教から発生しているんですよ。
 2ちゃんねる以外で宗教について語る機会があるなら、歎異抄は読まなくていいから、必ず聖
書と法華経くらいは読みなさい。聖書は世界のベストセラーだ。これが世界の宗教の標準だ。い
いですか、その上で聖書の間違いをしっかり見抜くくらいになりなさいよ。聖書はおかしな事を
たくさん言っている。法華経は親鸞の教えの根本原理だ。聖書と法華経を理解することは、仏教
の坊さんの最低条件だと思いなさい。

515 :渡海 難 忍法帖【Lv=30,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/27(木) 13:42:33.17 ID:ky/Ugv+j
 出エジプト記/ 20章11〜20節

 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安
息日を祝福して聖別されたのである。あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、
主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない姦淫してはならない。盗んで
はならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女
の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見
た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。
わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、
わたしたちは死んでしまいます。」
 モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、
また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」

マタイによる福音書/ 19章16〜22節

 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いこ
とをすればよいのでしょうか。」
 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりであ
る。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。
 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛し
なさい。』」
 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでし
ょうか。」
 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施
しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

516 :渡海 難 忍法帖【Lv=30,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/27(木) 13:46:19.17 ID:ky/Ugv+j
マタイによる福音書/ 19章23〜20章1節

 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重
ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たち
はこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言わ
れた。すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに
従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座
るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族
を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、
その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にい
る多くの者が先になる。」
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、
夜明けに出かけて行った。・・・・

>佛道か道徳か、おそらく支那の先人たちも大いに議論したことであろう
 仏教が何にもわかってないようだ。

 懺悔に三品あり。乃至 上・中・下なり。上品の懺悔とは、身の毛孔の中より血を流し、眼の
中より血出だすをば、上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出ず、眼の
中より血の流るるは、中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹り熱く、眼の中より涙出ず
るをば、下品の懺悔と名づく。これらの三品、差別ありといえども、これ久しく解脱分の善根を
種えたる人なり。今生に法を敬い、人を重くし身命を惜しまず、乃至小罪ももし懴すればすなわ
ちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懴すれば、久近を問わず、所有の重障みなたちまちに滅
尽せしむることをいたす。もしかくのごとくせざれば、たとい日夜十二時、急に走むれども終に
これ益なし。差うて作さざる者は、知りぬべし、と。流涙流血等にあたわずといえども、ただよ
く真心徹到する者は、すなわち上と同じ、と(化身土巻)。

517 :渡海 難 忍法帖【Lv=30,xxxPT】(1+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/02/27(木) 14:30:23.20 ID:ky/Ugv+j
 聖書も知らず、論語も読まず、法華経も知らず、ひたすら歎異抄にすがって
脳内妄想を拡大するだけでなく、しっかり古典をよみなさい。

  脳天気な馬鹿なことを考えている暇があれば、親鸞の言葉も、親鸞のフィル
ターをつけずに、原書の著者の主張に直接触れる訓練をしなさい。

518 :神も仏も名無しさん:2014/02/28(金) 09:39:46.37 ID:7bthoPjc
>>517
>  聖書も知らず、論語も読まず、法華経も知らず、ひたすら歎異抄にすがって
> 脳内妄想を拡大するだけでなく、しっかり古典をよみなさい。

これはまた手厳しい適切な意見のご教授ありがとうございます、今後とも
ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

さて教行信文類は一体どのようなわけで執筆されたのか、二十願の不定聚に向けて書かれたのか
それとも通説どおり親鸞の個人的信仰の告白なのか、選択集の正当性を主張しているのか、
はたまた開宗の宣言なのか、浅学菲才の私にはわかりませんが後の成り行きを見てまいりますと
どうも一般の不定聚に向けて書かれたのではないような感を持ちます。
山辺赤沼の説によると信仰篤き人以外には無用の書物であった、とされております。
いわば真宗関係者でも特定の人しか読まれなかったものだと聞き及びます。

また御消息において「往生」がさかんに説かれていますが、私の意見では
すべて十八願による往生のことであると考えます。

難思弘誓 度難度海大船
無礙光明 破無明闇恵日

これは単なる四六駢儷文で音あわせに過ぎないのではないかな
難思議弘誓としても良いが調子を合わせるために難思弘誓という言葉を使っただけで
あまりこだわることのないような気がします。
難思往生と難思の弘誓を結びつけて教行信文類全体を判断するのはいかが歟

519 :神も仏も名無しさん:2014/02/28(金) 09:43:30.87 ID:7bthoPjc
>>518
訂正

教行信文類×
教行証文類○

520 :神も仏も名無しさん:2014/02/28(金) 09:46:22.18 ID:7bthoPjc
>>511
>  これに対し、不定聚は、「どうしうようかな。誘いに乗ろうか、やめておこうか、どうしよう
> かな。ほんとに念仏でいいのかな」と迷う。半信半疑になる。半信半疑を疑城という。話半分で
> 勘違いし、妄想の中に入っていく人もいる。これを胎宮という。つまり、話を聞けば疑城胎宮に
> とらわれていく人もたくさんいる。この人々を正しく導こうというのが、難思往生の願、難思の
> 弘誓という願である。思いはかることのできない阿弥陀仏の本願である。これは阿弥陀仏の20
> 番目の誓いとして書かれている。
>

難思往生が阿弥陀仏の本願と言うことはどこの誰の説ですか?
底本などがありましたらご教授ください。

521 :神も仏も名無しさん:2014/02/28(金) 10:06:31.77 ID:7bthoPjc
>>520
読まなかったことにしてください

訂正削除

522 :渡海 難 忍法帖【Lv=31,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/01(土) 14:32:40.91 ID:wu5pDGst
>>518
今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

今後とも?はて?これまで貴方に何か御指導しましたか?
 「五常は守ろう、慚愧の心は忘れないようにしよう」、この意味はわかりましたか?
 僕は、恥知らず、畜生を弟子にするつもりはないんだ。畜生に語る言葉の持ち合わせがない。
上野動物にでも保護を求めてくださいな。

>これはまた手厳しい適切な意見
 慚愧のないケダモノに申し上げる意見など持ち合わせがない。

>山辺赤沼の説によると信仰篤き人以外には無用の書物であった、とされております。
 信仰のない山辺赤沼がこういう事を言うというのは、浄土真宗の最大の皮肉か、自嘲か。思わ
ず苦笑いしたくなる。山辺赤沼こそが、近代浄土真宗学の直接の歪曲の原点であることには全く
自覚がないと言うことに僕は哀れみを感じる。
 
>真宗関係者でも特定の人しか読まれなかったものだと聞き及びます。

 だから何? これは、僕の意見に対する反論のつもりですか? 補足のつもりですか? 意味
不明ですね。

 1+1=2、5+5=10。こういうことをひたすら解説してある本があれば、その解説の聞
き手は小学校の一年生か、二年生でしょう。しかし、その本の読み手は一年生、二年生を対象に
しているとは限らない。話の聞き手と、その本の読み手は異なる。読み手は、小学校一年生、二
年生の教壇に立って子ども達に算数を教える先生の可能性もある。
 小学校一年生、二年生の教壇にたって子ども達に算数を教える先生は、算数とは何か、数学と
は何かというその本質を知らなければならない。そのために、1+1=2、5+5=10の根本
原理がわかっていなければならない。
 砂場で保育園児と一緒に遊ぶ保育士を、子ども達は自分達の仲間だと思うかも知れない。しか
し園児の視線のほとんどは砂に注がれる。しかし保育士の視線は、子どもの安全、子どもの成長
に向いている。その上で、保育士は子どものように砂をどのように扱えばいいかも知らないとい
けない。

523 :渡海 難 忍法帖【Lv=31,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/01(土) 14:35:36.89 ID:wu5pDGst
 「弘安陸(未癸)二月二日 釈明性譲預之   沙門性信」
 弘安陸とは、弘安六年ということでしょう。元寇が弘安四年だから、まあ、鎌倉はまだ元寇を
破ったものの、恩賞がなく、関東は騒然としていたと思う。
 そのころ、親鸞の弟子の筆頭の性信が釈明性に教行信証(板東本)を譲り渡した。このとき性
信は九五歳だ。当時としては驚異的な長命の人だったようだ。彼は死期が迫っていたんだろ
う。
 しかし、板東本は坂東報恩寺に伝わってきた。性信が開基だ。つまり、板東本は親鸞の弟子達
の中では読み回されていた。奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、聖道門に進むと、後進の指
導を行う。小学校一年生に算数を教える先生は、なぜ1+1が2となり、5+5は10になるの
か、算数・数学の原理から学び必要がある。少なくとも、念仏道場の道場主達は、必死になって
これを読んでいただろう。

>私の意見ではすべて十八願による往生のことであると考えます。 

 まあ、お好きにどうぞ。根拠はここですか? http://j-soken.jp/ask/362
 「阿弥陀如来の本願は、衆生の思議を超え勝れた「難思(思議することが難しい)」の願いで
あり」と、本願寺は、わざわざ「議」という字を補充していますからね。本願寺さんのおつむにはつ
いていけません。ここを「難思議」と読んで貰わないと、本願寺は困るんでしょう。馬鹿につける薬は
ありません。お気の毒。

>難思議弘誓としても良いが調子を合わせるために難思弘誓という言葉を使っただけであまりこ
だわることのないような気がします。
 
 四六駢儷文だけが問題なら、「難思議願」と書けばいいだけでしょう。そもそも、先人の書き
物に「難思議弘誓」などという文字がどこかに書かれていますか?本願寺コミンテルンの造語に
は呆れかえりますね。

 慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良
に師教の恩厚を仰ぐ(後序)。

524 :渡海 難 忍法帖【Lv=31,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/01(土) 14:37:26.67 ID:wu5pDGst
 「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」。親鸞の難思の弘誓とはこういうことです
ね。あんたらは、ここも難思議の法海と読み直すんでしょうかね?難思議の法海って何ですか?
まあ、「難思の法海」の意味もわからんオバカサンに反論しても、まあ意味はないということで
しょう。(苦笑)

  聖言、明らかに知んぬ。大慈大悲の弘誓、広大難思の利益なり、いまし煩悩の稠林に入って
諸有を開導す、すなわち普賢の徳に遵うて群生を悲引す。(浄土文類聚鈔)

 心を弘誓の仏地に樹て、情を難思の法海に流す。聞くところを嘆じ、獲るところを慶んで、真
言を探り集め、師釈を鈔出して、専ら無上尊を念じて、特に広大の恩を報ず。(浄土文類聚鈔)

大慈大悲の弘誓、広大難思議の利益、情を難思議の法海に流すと読み替えますか?。もう、
浄土真宗からは親鸞さんなど影も形ありませんね

 涅槃の門に入るは、真心に値うなり、必ず信・喜・悟の忍を獲れば、難思議往生を得る人なり、
すなわち法性の常楽を証す、と。(浄土文類聚鈔)
 
 浄土文類聚鈔を書いている親鸞は、「難思議」という言葉も使っていることを知っておこうな。

 あんたらには呆れかえってものも言えません。本願寺には教行信証が読める人が一人もいない
ということでしょう。

 無慙愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす(信の巻)。

 人間と畜生が共存する本願寺には、親鸞さんはおりません。歎異抄をトンチンカンに読みあさ
るばかりの思考停止のお馬鹿さんに教行信証などよめるはずもない。
 浄土真宗は渡海難が史上最後の人であり、渡海難が死ねば、このとき永久に消滅する。

525 :渡海 難 忍法帖【Lv=31,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/01(土) 16:20:17.23 ID:wu5pDGst
>>518
>今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

無慙愧は畜生である。畜生に仏教はない。
 仁・義・礼・智・信を守り、王法を額にあて、仏法は内心に深く蓄えよう。
歎異抄を捨てよう。 座禅と持戒(五会法事讃略抄)を守ろう。

 貴方に反省の思いがあるなら、こちらが協力できることもあるでしょう。その場合には、「自
分はこれまでの考えを改めます」というその旨をこちらに伝わるように表明してほしい。

 難思の弘誓を勝手に難思議と書き換えて、ここが「み教えのポイント」ですと、み教えのポ
イントでわざわざ墓穴を掘って致命的なオウンゴールの馬鹿を言っている本願寺
http://j-soken.jp/ask/362のノータリンにこれからも追従しますか?。

 貴方の選択の自由です。

526 :神も仏も名無しさん:2014/03/01(土) 16:45:15.00 ID:sky1WQf7
>>523
>四六駢儷文だけが問題なら、「難思議願」と書けばいいだけでしょう。

四六駢儷文を問題とするのならば、「難思弘誓」を「難思議願」と
するのは音調の関係上まずいような気がするのだけど…
昔の知識人は漢文、漢詩の素養が普通にあったからなぁ

参考:駢文−Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%A2%E6%96%87

527 :神も仏も名無しさん:2014/03/01(土) 16:48:54.28 ID:sky1WQf7
一語一語、言葉を吟味して文章を作っていったんだろうな
2chで駄文を垂れ流している自分が恥ずかしい

528 :神も仏も名無しさん:2014/03/01(土) 16:58:52.36 ID:sky1WQf7
「難思」と「難度」を対句させている美しい表現だよな

529 :神も仏も名無しさん:2014/03/01(土) 17:35:46.51 ID:sky1WQf7
親鸞における「難思」と「難思議」の使い分けは
調べてみると面白いかも。
でもそういうところは親鸞自身がちゃんと意味の
違いを説明しているのだろうね。
三往生における難思往生と難思議往生のように。

530 :渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/01(土) 20:30:12.51 ID:wu5pDGst
>そういうところは親鸞自身がちゃんと意味の違いを説明しているのだろうね。

 犬畜生、鬼、ケダモノ、破廉恥漢、嘘つきに説明できる言葉は、親鸞聖人にも持
ち合わせはなかったでしょう。

 本願寺には、親鸞聖人の言葉が聞ける人が一人もいないという現実が続いて
いる。

 「阿弥陀如来の本願は、衆生の思議を超え勝れた「難思(思議することが難し
い)」の願いであり・・・
   (み教えのポイント)http://j-soken.jp/ask/362

 本願寺のアホーには、返す言葉も見つからん。

 

531 :神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 11:23:00.01 ID:9Rc68NYP
>>529

話の発端は>>232にある。
親鸞の教えは不定聚を正定聚に導くと言うことにある、と言うことには問題はない。
問題は難思議往生と難思往生という特殊な語彙を難思弘誓と無理に結びつけることにある。
この結びつける理由がサッパリわからない。

>  竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船・・・(前序)。
>  難思の弘誓とは何か。難思議の弘誓と書いてないところが大事なところだ。
>
>  必至滅度の願  難思議往生(証の巻)
> 至心回向の願 不定聚機 難思往生(化身土巻)
>

そして下の結論、これがまったくわからない

>持戒を求めている親鸞の主張が理解できなくなる。

教行証文類に持戒を求めている親鸞の文章を私は見つけることが出来ないのですが
あなたはどうですか。
ここの部分がサッパリわからないのですがあなたはどう思いますか?

532 :渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/02(日) 13:35:52.77 ID:+Hckwpcc
>ここの部分がサッパリわからないのですがあなたはどう思いますか?

 貴方にはさっぱりわからないでしょう。そうだと思いますよ。

 悪を好む人にも近づき、善をせぬ人にも近づきなんどすることは、浄土に参りて後、衆生利
益に返りてこそ、左様の罪人にも親しみ近づくことはそうらえ候へ。それも、わが計らいにはあ
らず。弥陀の誓いにより、かの御助けによりてこそ、思う様の振る舞いも候らわんずれ。当時は、
この身共のようにては、いかが候べからんと覚え候。よくよく案ぜさせ給うべく候。往生の金剛
心の起こることは、仏の御計らいにより起こりて候へば、金剛心を執りて候らん人は、よも、師
を謗り善知識を侮りなんどすることは、候らわじとぞ覚え候え。(消息集)

 悪を好む人に接近し、あるいは善をしない人に接近するというのは、極楽浄土で蓮華蔵世界に
入り、奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、方便力が成就し、園林遊戯地門を出、普門示現の
類として、再起・挫折・再起・挫折を繰り返している人々の中に再び戻っていった人々だけの仕
事です。
 そういう普門示現の類であっても、悪を好む人に接近し、あるいは善をしない人に接近すると
いうのは、自ら作為的に行うことではない。自然の流れの中で接近が起きてくる。奢摩他・毘婆
舎那ができ、方便力が成就しているなら、そこに阿弥陀仏の誓いが結実し、阿弥陀仏の援助の下、
そういう人には自由な振る舞いもできてくるということです。
 関東にあって、善証坊と接していたころ、まさにこのような人を正しく導くことこそ、園林遊
戯地門を出、普門示現の類として、再起・挫折・再起・挫折を繰り返している人々の中に戻って
きた自分(親鸞)の仕事であると思いつつ、では現実の問題として、自分は何をしたらいいんだ
ろうと途方に暮れておりました。
 無慙愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす(信の巻)。嘘つき、恥知らず、二枚舌、人間
の皮を被った犬畜生、悪人正機の恥知らずの化け物、こういう人にはどのように接したらいいん
だろう。実に途方に暮れたものでした。私親鸞には、話す言葉の用意がありませんでした。

533 :渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/02(日) 13:37:40.69 ID:+Hckwpcc
 親鸞聖人を誹謗し、蓮如上人を誹謗中傷する本願寺の坊さんには、教行信証も沈黙し、自分は
何をしたらいいんだろうと、草場の壁で途方に暮れて号泣しているのが親鸞聖人ではないでしょ
うか?。

534 :渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/02(日) 15:20:59.51 ID:+Hckwpcc
>>533
× 草場の壁
○ 草葉の陰

535 :529:2014/03/02(日) 19:29:09.80 ID:4MywWuZD
>>531
「難思往生」「難思議往生」という言葉は善導の『法事讃』からの
引用であり、それらを親鸞が三往生として解釈したことに対して
異論のある人はいないと思います。
「難思往生」「双樹林下往生」「難思議往生」について親鸞は論じて
いますが、それら三往生から離れて「難思」「難思議」という言葉
自体の意味を論じている個所は、私には見つけられませんでした。
「難思往生」「難思議往生」以外で使用される場合は、両者ともに
「不可思議」や「不思議」と同じ意味で使用されているように
私には思えます。
普通に形容詞として考えるべきだと思いますが…


『顕浄土真実教行証文類』序

難思弘誓度難度海大船 無碍光明破無明闇恵日

四六駢儷体に則った文章の構造で、「難思」と「難度」、「無碍」と
「無明」といった対句表現をするためには、「難思議」「不思議」
「不可思議」という言葉は不適切であることがわかります。
「難思弘願」は、思いはかることの出来ない広大な誓願という
意味くらいだと私は理解しています。
そして、ここでの「難思」は「弘誓」を形容しているのであり、
「難思往生の弘誓」と深読みする必要は無いと思います。

もちろん四六駢儷体に則れば「難思往生弘誓」という表現も
出来ませんね。

536 :529:2014/03/02(日) 19:32:18.52 ID:4MywWuZD
『顕浄土真実教行証文類』化身土巻

樹心弘誓仏地 流念難思法海
心を弘誓の仏地に樹て、 念を難思の法海に流す

ここの「難思」も思いはかることの出来ないという意味
じゃないかな。
これも文章の構造上、「難思議」「不思議」「不可思議」は
適当ではないですね。
「難思往生」を意識したのもなら、もう少し解説があると
思うのですが…

537 :529:2014/03/02(日) 19:48:02.99 ID:4MywWuZD
渡海 難氏によるhttp://j-soken.jp/ask/362に対する批判は、
もはや言い掛かりのレベルでしかないような気が…

「難思弘誓」については、「思いはかることのできない阿弥陀仏
の本願」と現代語訳していますし、特に「難思議往生」や
「難思往生」と結びつけて論じているようには見えませんが。

普通に現代日本語として意味がとりやすいように「難思」を
「思議することが難しい」と言い換えているだけでしょ。
そこに「難思議往生」の意味を加えようとしているようには
読めないのですが。


今回のことで、四六駢儷体について自分なりに調べようと
思えるようになったことが自分の中での収穫かな。

>>531
親鸞の戒律観については、CiNiiやINBUDSあたりで良さげな
論文を流し読もうかと思っております。
真宗関係者じゃないし、大学にも所属していないから、ちょっぴり
面倒ですけどね。

http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%80%80%E6%88%92&range=0&count=20&sortorder=1&type=0
http://tripitaka.l.u-tokyo.ac.jp//INBUDS/search.php?m=sch&a=&uekey=%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%80%80%E6%88%92&ekey1=title&lim=20

538 :渡海 難 忍法帖【Lv=33,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/02(日) 21:11:07.65 ID:+Hckwpcc
>>537
>「難思往生」「双樹林下往生」「難思議往生」について親鸞は論じていますが、それら三往生
から離れて「難思」「難思議」という言葉自体の意味を論じている個所は、私には見つけられ
ませんでした。

>> 535は、「難思往生」「難思議往生」をどのように考えているんでしょうか。
「難思往生」と「難思議往生」とは、同一の概念なのか、違う概念なのか。

 「難思往生」と「難思議往生」とは同一の概念で意味は全く同じと言うなら、とくに申し上
げることがない。貴方は、教行信証などを読むような御仁ではないということでしょう。

 「難思往生」と「難思議往生」は違うというなら、それぞれの定義を明らかにしてみなさい
な。その定義の中で、両者に共通部と相違部とが現れるでしょう。
 共通部は「往生」の概念に当たり、相違部は「難思」と「難思議」との相違に当たる可能性
が大きい。「難思」とは何か、「難思議」とは何かを考えるなら、そこが入り口だと思いますよ。

「阿弥陀如来の本願は、衆生の思議を超え勝れた「難思(思議することが難しい)」の願い
であり・・・   (み教えのポイント)http://j-soken.jp/ask/362
 ↑
 ここの著者は貴方と違って「難思」と「難思議」とは異なると考えているんでしょうね。もし
同じなら思議することが難しいなどと、敢えて「議」の字を括弧書きで入れなかったでしょう。「難思(思
うことが難しい)」と書けばいいだけです。敢えて「議」という字を入れたのは、難思ではなく、別の「難思
議」を念頭に置いてほしいというメッセージでしょう

「難思」と「難思議」は違うと思いますよ。

539 :神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 22:05:06.43 ID:4MywWuZD
>>538
単純に「難思」という言葉が現代日本語において
あまりポピュラーではないから、「思議することが難しい」
と言い換えたと思うのですが、どうでしょうか?
「難思議」もポピュラーではないですが…
似たような言葉だと「不可思議」「不思議」の方が
使用される機会は多いでしょう。

ちなみに

「思い難い」と訳すよりも「思議することが難しい」の方が
「思いはかることのできない」という意味がとりやすい
のでは、とも思います。

『顕浄土真実教行証文類』を読んでいて、「難思往生」と
「難思議往生」が同じであると考える人はいないでしょう。
しかし、「難思」「難思議」「不可思」「不可思議」の使い方や
意味ついては、それぞれの文脈を読んで判断すべきだと
思います。

四六駢儷体において、「難思議」という言葉も「難思往生弘誓」
という表現も当てはめにくいことは確かですね。

540 :神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 22:30:19.25 ID:4MywWuZD
『浄土文類聚鈔』より

それ無碍難思の光耀は、苦を滅し楽を証す

これは阿弥陀如来の異名のうち、無碍光、難思光を
意識しているのでしょう。


『弥陀如来名号徳』より

つぎに無碍光といふは、この日月のひかりは、ものをへだて
つれば、そのひかりかよはず。この弥陀の御ひかりは、ものに
さへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無碍光仏
と申すなり。

難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦
如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬ
ゆゑに難思光仏といふなり。

これらを思いながら再び『顕浄土真実教行証文類』序を読むと
更に味わい深いものになりますね。

541 :神も仏も名無しさん:2014/03/03(月) 09:33:17.38 ID:Qa0mLzC0
>>535
どうもご丁寧な解説ありがとうございます。
異論ございません

542 :神も仏も名無しさん:2014/03/03(月) 09:37:24.43 ID:Qa0mLzC0
>>534
> ○ 草葉の陰


渡海流の釣りでしょうかw

浄土真宗の葬儀は「死者への供養ではない」という点が他の宗派と大きく異なります。
その理由としては、門徒であれば死とともに阿弥陀仏によって極楽浄土に迎えられている
ので成仏を祈る必要がないということと、礼拝の対象は阿弥陀仏であって故人ではないからです。
「絶対他力」「往生即身仏」という考えなので、他の宗派のような「授戒」と「引導」がありません。
したがって、葬儀では死に装束や清め塩も用いませんし、
弔電や弔辞での「冥福を祈る」「草葉の陰」「お祈り」といった表現も禁じられています。

543 :神も仏も名無しさん:2014/03/03(月) 09:59:29.49 ID:Qa0mLzC0
>>516
>  仏教が何にもわかってないようだ。
>
>  懺悔に三品あり。乃至 上・中・下なり。上品の懺悔とは、身の毛孔の中より血を流し、眼の
> 中より血出だすをば、上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出ず、眼の
> 中より血の流るるは、中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹り熱く、眼の中より涙出ず
> るをば、下品の懺悔と名づく。これらの三品、差別ありといえども、これ久しく解脱分の善根を
> 種えたる人なり。今生に法を敬い、人を重くし身命を惜しまず、乃至小罪ももし懴すればすなわ
> ちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懴すれば、久近を問わず、所有の重障みなたちまちに滅
> 尽せしむることをいたす。もしかくのごとくせざれば、たとい日夜十二時、急に走むれども終に
> これ益なし。差うて作さざる者は、知りぬべし、と。流涙流血等にあたわずといえども、ただよ
> く真心徹到する者は、すなわち上と同じ、と(化身土巻)。

言い忘れていたがこの最後の行がポイントですがね。
(真心徹到する者は、すなわち上と同じ)

但し涙を流し、血を流すような熾烈なる三品の懺悔はせずとも、
但よく如来の真実心に徹入し、仏凡一体の妙境に達するならば、
上の三品の懺悔に等しいのである。即ち真心徹到する人は金剛心の人であるからである。(山辺赤沼)

という解説にみるように真心徹倒する人はすなわち真の信心を得た人=金剛心の人、
と考え懺悔はなくとも信心を得たならそれは懺悔に値すると考えていますよ。
なぜなら煩悩に囚われた我々には真の懺悔など出来るはずもない、信心獲得だけだ、
その信心獲得も如来よりの頂きものだ。と

(山辺赤沼をさらに私解説)

544 :神も仏も名無しさん:2014/03/03(月) 10:35:11.39 ID:Qa0mLzC0
>>543
に誤解を与えるといけないから補足すると
何も親鸞さんが懺悔のない人だとは言ってませんよ、親鸞さんは生涯懺悔に生きた人ですからね。
そこは間違ってもらっては困ります。

545 :神も仏も名無しさん:2014/03/03(月) 10:43:50.75 ID:Qa0mLzC0
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋・邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり

悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる

無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ
 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき

蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ
 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん

546 :神も仏も名無しさん:2014/03/03(月) 10:48:30.96 ID:Qa0mLzC0
生涯懺悔して生きた親鸞さんが無慚無愧ということを言う、
100点満点の97点までの点数を取りながら無慚無愧という自己評価をする。

足りない部分は難思議の十八願で往生成仏を・・・
というのが真宗。

547 :渡海 難 忍法帖【Lv=33,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/03(月) 11:25:26.74 ID:/vYYi22s
>>535
僕はID:4MywWuZDを説得しようとは思いません。ID:4MywWuZDに理解される言葉は持ち合わせ
がない。しかし、この掲示板を見てくれる声なき人の10人中6人程度が賛同してくだされば幸
いと思います。

 教行信証の前序は、化身土巻と密接な関係があります。
 「調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえ
り」。これは、観無量寿経のテーマです。調達が闍世に逆害を興させ、浄業機彰れて、釈迦が韋
提をして安養を選せたのは、観無量寿経の物語です。

 親鸞は言います。「真実の教を顕さば、すなわち大無量寿経これなり」(教の巻)。
 真実の教が大無量寿経であれば、浄業の機が彰(あらわ)れたのは、大無量寿経を説いたとき
ではなかったか。そのように考えるべきではないでしょうか。
 釈尊は、浄業の機が彰れたとき、真実の教を表すことはなかった。真実の教を表したときには、
浄業の機が彰れなかった。親鸞はそのように言っているのでしょうか?これは変ではありませんか?
 浄業の機が彰れたときと真実の教を表したときとは異なる。浄業の機とは、世の中に浄土教と
いうものが出現したときという意味でしょう。それは真実の教を説いたときではない。観無量寿
経の事件つまり、王舎城で歴史的大事件が起きたときである。親鸞はそういう訳です。始めて教
わったとき、僕などは、えっ!?と驚きましたよ。嘘じゃないかと。

 浄業の機が彰れたのは、釈尊が真実の教を説いたときではないのはおかしいではないか。なぜ
浄業の機が彰れないときに釈尊は真実の教を説いたのか。真実の教を説いたときなぜ浄業の機が
彰れなかったのか。こういう疑問をもつことのできない人には、親鸞の真意を読むことはできな
い。僕はそう思う。教行信証は常に、疑問を持ち、親鸞に質問を投げかけ、「親鸞さん。あなた
おかしいのではないか」という思いをもって読んでほしいと思います。疑問を押し殺し、押し殺
し、なんでもかんでも御説ご尤もと恐縮して聞いていればとんでもないことになるでしょう。

548 :渡海 難 忍法帖【Lv=33,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/03(月) 11:28:40.81 ID:/vYYi22s
 観無量寿経とはどういう経典か。それは、「方便・真実の教を顕彰」しています。王舎城で歴
史的大事件が起きたとき浄業の機が彰れたというなら、そのときはどのようなことが出現したの
か、ここが問題です。

 観経に准知するに、この経にまた顕彰隠密の義あるべし。顕と言うは、経家は一切諸行の少善
を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして、難思の往生を勧む。ここをも
って経には「多善根・多功徳・多福徳の因縁」と説き、釈には九品ともに回して、不退を得よと
云えり。あるいは無過念仏往西方 三念五念仏来迎と云えり。これはこれこの経の顕の義を示す
なり。これすなわち真門の中の方便なり。彰と言うは、真実難信の法を彰す。これすなわち不可
思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。良に勧めすでに恒沙の勧めなれば、
信もまた恒沙の信なり、かるがゆえに甚難と言えるなり。釈に、直ちに弥陀の弘誓重なれるに為
って、凡夫念ずればすなわち生まれしむることを致すと云えり。これはこれ隠彰の義を開くなり。

 われわれの社会に浄土教が開かれてくる時期が熟したとき何が起きたとのか、「善本・徳本の
真門を開示し、自利の一心を励まして、難思の往生を勧」めてくださったのです。真門を開いて
くださった。これが浄土教の原点である。親鸞はそう言っているのです。
 真門を開いてくださらなければ、難度海を度する大船も、無明の闇を破する恵日もなかったの
です。

 難思の弘誓というのは、後序に出てきます。「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難
思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ」とあります。心は弘誓の仏
地に樹立し、その上で念は難思の法海に流すという意味です。

549 :渡海 難 忍法帖【Lv=33,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/03(月) 11:30:40.57 ID:/vYYi22s
 親鸞は言います。
 三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなわちこれもろもろの善根を
修するを要とするなり(化身土)。

 大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経はいずれも選択本願を本質として共通する。しかし、もろ
もろの善根を修する。つまり、修する善根は異なる。心は共通でどうして、修行する善根が異な
るのか。善根はそれぞれ、念(おも)いが異なっています。

 十人の生徒がいれば、教師はみんなすばらしい人になってほしいと思う。A君にも、B君にも、
C君にもみんなすばらしい人になってほしいと思う。その思いはA君、B君、C君等々に共通で
す。しかし、A君に指導する内容と、B君に指導する内容と、C君に指導する内容は異なります。
そこには個性があるからです。相手の器、器量が違います。指導内容は現実の個性、器量に適応
させて変えなければなりません。
 釈尊は、観無量寿経で、真門から入れと教えてくれた。親鸞は、釈尊が真門から入れと教えて
くれたとき、浄業の機が現れたと言っているのです。
 釈尊の心は選択本願つまり十八願を宗としながら、念は難思往生をせよと、具体的な人物つま
り韋提希に説いたとき浄土教がスタートした。韋提希には、難思往生を説いたのです。

 韋提希こそ、われわれ不定聚の代表と考えるなら、韋提希同じ器量の我々は、まず難思往生せ
よと説いている難思往生の願こそ、我々の真の救いである。親鸞はそのように説いているのです。

 親鸞は不定聚の救いを具現している高僧である。そのように思うべきでしょう。

550 :渡海 難 忍法帖【Lv=33,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/03(月) 11:55:09.62 ID:/vYYi22s
 我々が正定聚であれば、真実の教つまり大無量寿経が説かれた時こそ浄業機の彰われ
るときとなる。しかし、不定聚であれば、真実の教が説かれた時は必ずしも我々の浄業機の
彰われるときではない。真門から入れ。韋提希という不定聚に釈尊がそのように説いてくれ
たとき、我々不定聚には浄土が開かれた。
 親鸞はそのように言っている。

>>543
 論点をすり替えるのはやめなさい。
 「佛道か道徳か、おそらく支那の先人たちも大いに議論したことであろう」この問題は解決
したのか?


「煩悩に囚われた我々には真の懺悔など出来るはずもない、信心獲得だけだ、その信心獲
得も如来よりの頂きものだ。と」
「何も親鸞さんが懺悔のない人だとは言ってませんよ、親鸞さんは生涯懺悔に生きた人」
  ↑
 言っていることはおかしいんじゃないか?詭弁を弄するのはやめなさい。


>>546
>無慚無愧という自己評価をする

 自己評価ではないだろう。親鸞なりの慚愧の告白だ。

551 :神も仏も名無しさん:2014/03/04(火) 10:50:24.90 ID:BVkCPcvM
>>550
>  我々が正定聚であれば、真実の教つまり大無量寿経が説かれた時こそ浄業機の彰われ
> るときとなる。しかし、不定聚であれば、真実の教が説かれた時は必ずしも我々の浄業機の
> 彰われるときではない。真門から入れ。韋提希という不定聚に釈尊がそのように説いてくれ
> たとき、我々不定聚には浄土が開かれた。
>  親鸞はそのように言っている。
>
それで?終わりじゃないだろう?真門から入れと言った後で真意は方便から出て
弘願の念佛つまり真なる念佛に転入せよ。と言ってるわけだ。
そこは異論ないだろう?そこは理解できてる?

> 「煩悩に囚われた我々には真の懺悔など出来るはずもない、信心獲得だけだ、その信心獲
> 得も如来よりの頂きものだ。と」
> 「何も親鸞さんが懺悔のない人だとは言ってませんよ、親鸞さんは生涯懺悔に生きた人」
>   ↑
>  言っていることはおかしいんじゃないか?詭弁を弄するのはやめなさい。

しんどい人だな(苦笑)
親鸞は懺悔した、しかしその懺悔も「真の」懺悔ではない、なぜなら煩悩にとらわれた人間は
「真の」心などないからだ。
だからこそ弥陀の勅命に従えと言っている。勅命に従って南无阿弥陀仏と称名せよ、人間側の一切の計らい
工夫は認めない、唯命令に従え。と言うわけだ。
ただこの{勅命に従え}という解釈が本願寺の僧侶の説明ではわかりにくいだろう。
十八願は弥陀の工夫だよ、人間は唯それに従えばいいだけなんだ、従う以外にないのが親鸞釈。
それが無義の念佛ということ。

552 :渡海 難 忍法帖【Lv=34,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/04(火) 15:09:15.62 ID:/lIWBV3H
 >>551は何が言いたいんだい?
 論点そらしの水掛け論につきあうつもりはありません。

 難思の弘誓に関しては、僕の方からいうことは、ほとんど尽きています。
 親鸞聖人の教えは、難思の弘誓、難思往生が出発点である。これだけ言えれば、僕は満足です。
 これ以上僕が何か言っても、難思の弘誓に関しては、已に言い尽くしたことの繰り返しになります
ので控えます。

 他の人で、言い尽くしてないという人があるなら、どうぞ御勝手に。僕の方から言うことは特にありません。

 懺悔の件に関しても、必死に論点ずらしをしたいようです。そんな言い合いにつきあうつもりはありません。
こちらはノーコメントです。



 親鸞・蓮如は清僧だった。この議論のなかでやり残してきた重要な論点があります。専光寺文書です。
>>357でふれました。
 これはきわめて重要な問題を含んでいると考えます。六角堂の示現の問題と絡めて説明したいと思い
ます。

553 :渡海 難 忍法帖【Lv=34,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/04(火) 17:29:36.99 ID:/lIWBV3H
>>551
> 弘願の念佛つまり真なる念佛に転入せよ。と言ってるわけだ。
> そこは異論ないだろう?そこは理解できてる?

 ひとつだけ言っておこう。
 真なる念佛と偽なる念仏があるのか?

   同一に念仏して別の道なし(行の巻)

 真なる念仏に転入してないなら、早く転入しなさいな。

554 :神も仏も名無しさん:2014/03/06(木) 11:01:50.70 ID:0cc6vfxX
>>553
>  ひとつだけ言っておこう。
>  真なる念佛と偽なる念仏があるのか?

それはある先生が念佛を二つに分けた琴によってます、二つとは真なる念佛と仮なる念佛です。
真なる念佛を十八願による念佛、仮なる念佛をさらに二つに分けて「仮門の念佛」と
「真門の念佛」と分けたことによるものです。

>    同一に念仏して別の道なし(行の巻)

是以論註曰彼安楽国土莫非阿弥陀如来正覚浄華之所化生同一念仏無別道故 已上

このことだと思うけど、これは十八願念佛なら大小の聖人も凡夫も同じ所に往生する、
という意味ですね。
十八願念佛でもその他でも同じ場所に往生すると言う意味ではないですよね。

>  真なる念仏に転入してないなら、早く転入しなさいな。

五悪趣を断ち切れない私が真なる念佛に転入しなくてどうなるんだよ。

間違ってますか?

555 :渡海 難 忍法帖【Lv=35,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/06(木) 18:16:35.77 ID:hhVPQuOM
>>554
なるほど、なるほど。ノーコメント。

556 :渡海 難 忍法帖【Lv=35,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/07(金) 15:29:40.83 ID:k3PpxM9l
「河野談話」撤廃を求める署名のお願い
「慰安婦問題」に関する河野談話見直しを求める国民運動(署名活動)について
http://www.tsukurukai.com/konodanwa-shomei.html
https://j-ishin.jp/legislator/news/2014/0221/1386.html

 賛同し、僕も呼びかけたいと思います。

557 :神も仏も名無しさん:2014/03/16(日) 07:49:34.47 ID:ORyo1zMw
・韓国の朴槿恵大統領は15日、安倍晋三首相が過去の植民地支配と侵略を認めた1995年の
 村山富市首相談話と、従軍慰安婦問題をめぐり旧日本軍の関与と強制性を認めた93年の
 河野洋平官房長官談話を継承すると表明したことについて「幸いに思う」と述べ、前向きに
 評価した。大統領府報道官が明らかにした。

 朴氏が評価を示したことで、今月24〜25日にオランダで開かれる「核安全保障サミット」に
 合わせた日韓や日米韓首脳会談実現に向けた調整が前進する可能性が出てきた。

 http://news.livedoor.com/article/detail/8634842/

558 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/20(木) 13:56:36.98 ID:jPjfES/l
>>552, >>357

我身救世観世音  我が身は世を救くる観世音なり。
定慧契女大勢至  定慧契る女は大勢至なり。
生育我身大悲母   我が身を生育せる大悲の母は
西方教主彌陀尊   西方教主弥陀尊なり。
為度末世諸衆生   末世の諸の衆生を度さんが為に
父母所生血肉身   父母所生の血肉身を
遺留勝地此廟窟   勝地たるこの廟窟に遺し留めて
三骨一廟三尊位   三骨一廟にするは三尊の位なり。

 専光寺文書は「上宮太子御記伝」の末尾に書かれている。「上宮太子御記伝」は、
親鸞が書いた聖徳太子の伝記である。親鸞の思想の中でのこの本の重要性は歎異
抄との比ではない。歎異抄とは比較ができないほど重要な書き物であると言ってい
いだろう。
 歎異抄などというのは、つまらん本だ。普通の人は読むに値しない。歎異抄は、自分
がしっかり念仏を修行し、奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、奢摩他・毘婆舎那を人
々に指導できる実力が身について出第五門を果たし、これから念仏の指導をしていいぞ
と、師匠から暖簾分けしてもらったとき、新たにお弟子さんを集める段階で目から鱗がお
ちるように始めて読ませて貰う書だ。念仏しない坊さんが読む本ではない。

559 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/20(木) 13:57:25.15 ID:jPjfES/l
 これに比べて上宮太子御記伝は誰が読んでもいい。念仏が大嫌いな浄土真宗の坊さ
んが読んでも罰は当たらない。ほとんどひらがなで書かれている。
 親鸞は、関東の寺子屋太子堂で小学校の先生をしていたようだ。寺子屋太子堂の生
徒は、おそらく7,8歳から15,6歳程度の少年達だったろう。ほとんどが、武士、
神主、豪商などの息子達だった思う。多くは鎌倉幕府の御家人で、鎌倉幕府からの命
令があれば戦場に出かける。祭りになれば神主になるが、平和なときは農業を行い、
生産物が得られると、商人として商いもするというそんなイメージだ。
 そんな親の子ども達に、親鸞は読み書きそろばんを教えていた。上宮太子御記伝は、
文字を教えるときの教材である。子ども達は親鸞が書いたこの本を繰り返し読み、書
写し、文字を覚え、文章の書き方を親鸞から教わった。親鸞学級の生徒達は、上宮太
子御記伝をほとんど暗唱していただろう。戦場に出かける武士の子ども達が特に興味
を持つように配慮してあり、仏教伝来の話も書かれている。一番最後に漢文の一節が
書かれている。漢文は、「太子御廟の註文出現の事」という表題で始まる。

 太子御廟の註文とは、聖徳太子の墳墓に刻まれていた碑文である。聖徳太子の墳墓
は大阪の叡福寺にある。鎌倉時代、そこには聖徳太子が刻んだといわれていた石碑が
あったようだ。親鸞は当時あったその石碑のおそらく全文だろうと思うが、上宮太子
御記伝の末尾に転載している。親鸞にとっては、きわめて重要な意味のある文章であ
る。

560 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/20(木) 14:03:38.72 ID:jPjfES/l
 「太子御廟の註文出現の事」の中で特に重要な部分がある。親鸞はそれを専光寺文書と
して我々に伝えてくれている。専光寺文書こそ、六角堂で聖徳太子からうけた示現で
はないかという説は、昔から言われているようだ。しかし、これが法然の下に向かう
きっかけになったということが真宗教団の人には全く理解できないため、この仮説は、
振り向く人がいないようだ。

専光寺文書を、親鸞思想に立脚して読んでみよう。渡海難が死ねば、親鸞の真意を
語る人は永久にいなくなる。専光寺文書に関する仏教史上最初で最後の解説になるだ
ろう。親鸞の思想が俯瞰的に見えてくる。

561 :神も仏も名無しさん:2014/03/21(金) 11:46:41.63 ID:lfFtBXwq
>>558
「上宮太子御記伝」とは、正嘉元年に親鸞が書写し、徳治二年に
覚如が書き写した『上宮太子御記』のことですか?
ググってみると、色々とヒットしますね。
ざっと見ただけでもこんな感じかな。

近代デジタルライブラリー
『上宮太子御記の研究』 橋川正 著
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943748/1

Taiju's Notebook>古典文学テキスト>上宮太子御記
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/11c_jogutaishigyoki.htm

日蓮ノート>親鸞の聖徳太子信仰について
http://kominato-kataumi.jimdo.com/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%81%AE%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/

562 :神も仏も名無しさん:2014/03/21(金) 12:57:35.93 ID:UdMRs/Wa
>>561
親鸞85歳のときに書かれたことがわかれば御仁が言うような寺子屋云々の話は難しい。
と考えますが・・・・

563 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/21(金) 13:14:27.52 ID:3jAYa6bR
>>561
>「上宮太子御記伝」とは、正嘉元年に親鸞が書写し、徳治二年に覚如が書き写した『上宮太
子御記』のことですか?

 そうです。「上宮太子御記伝」は、僕は直感的に親鸞作と思っていますが、そうではないと
いう主張に対しては、反論する証拠はありません。
 親鸞が作成し、これを使って太子堂では子ども達に文字を教えていたというのは僕の想像で
す。武士の子ども達向けの教材と考えると、非常にいい本だと思います。

 もしかすると、青蓮院や比叡山時代、少年期の親鸞に与えられた教科書だった可能性は
否定しません。
続きは後ほど

564 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/21(金) 13:38:13.06 ID:3jAYa6bR
>>562
>親鸞85歳のときに書かれたことがわかれば御仁が言うような寺子屋云々の話は難しい。と
考えますが・・・・

 三経往生文類  康元二年三月二日 書写之
    愚禿親鸞 八十五歳


入出二門偈頌文 愚禿釈親鸞作
    建長八歳丙辰三月二十三日 書写
    (福井県 法雲寺本 宗祖真筆)

 自分が書いた文書を、後になってそれを書写することが多かったようです。

565 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/23(日) 15:10:14.27 ID:icMr6EK9
 親鸞の著作には、草稿本と完成正本と書写本がある。教行信証などは草稿本だ。未完成であり、
親鸞には修正する余地があるという文書である。完成正本は、推敲が終わったと判断をして公開
してある。書写本とは、完成本が古くなって傷んだりしたため、完成本を生涯の晩期になって将
来の保存用に書写した本だ。完成本と同じ内容を書いてある。
 「上宮太子御記伝」は、関東で太子堂小学校の先生になったとき、通ってきた生徒用に親鸞が
書き下ろしたものだろうと思う。ベースは、青蓮院や比叡山時代に親鸞少年が暗記させられた教
科書だったかも知れない。親鸞は晩年になって昔の本を保存用に増刷した。
 昔の人は教科書を丸暗記して学習した。平安、鎌倉時代の少年達がどんな本で勉強していたか、
「上宮太子御記伝」は、教育史的には価値のある文献だろうと思う。算盤は奈良時代に日本に伝
わってる。親鸞は、算盤・暦・天文学なども傍らで教えつつ、上宮太子御記伝・勝鬘經・十七条
憲法・論語・老子などを子ども達に教えていたのだろう。親鸞は悪人正機を説いていたなどと考
えれば、とんでもない間違いである。

 比叡山で親鸞は堂僧だった。僧兵の一人だったとすれば、弁慶のように剣術、柔術、鎗、弓道
も強かったかも知れない。鞍馬山の牛若丸の伝説から類推すれば、関東の武士の子ども達に武術
も教えていたかも知れない。鎗には宝蔵院流というのがある。お寺で研究された方法だ。弁慶は
鎗をもっている。少林寺拳法も寺で開発された方法だ。
 寝たきりのおばあさんのまねをして介護に甘え、一生を怠惰な人生を過ごし、一文不通のノー
タリンで死んだら悪人正機で極楽浄土に行けますよなどと。浄土真宗は、悪人正機を教えるよう
なそんなごろつきでたらめ宗教はではない。怠惰な人生を過ごし、一文不通のノータリンで死ん
だら、そのまま地獄に墜ちていく。そう教えるのが正しい仏教である。親鸞は、子ども達に聖徳
太子の話を授業の柱にしていた。

566 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/23(日) 15:11:32.26 ID:icMr6EK9
 摩竭陀國 〜、昔國王の觀音の像を造れるあり。身はみな地の底に入て、肩より上わづかに出
たるあり。佛法滅しをはらむときに、此像いりはつべしとのたまひけり。 〜 天竺を想像に觀
音の像いまはいりをはりぬらむ。 〜 あなたうと佛法東に流てさかりに我國に止れり。 〜 
我國にはおそく欽明天皇の代に百濟より來れりしなり。
 観音菩薩が地に埋まれば仏法は滅びる。天竺では仏法は滅んだ。しかし、仏法は日本に伝わっ
ている。観音を地に埋めてはいけない。

 昔上宮太子と言ふ聖御坐き。〜穴太部の間人皇女の御はらより誕生したまへる王子なり。 〜 
あくる年の二月十五日の朝より、自たなごゝろをあはせて東に向て、南無佛とまふして拜たま
ふ。太子六歳なるに 〜 月ごとの八日十四日十五日廿三日廿九日卅日これを六齋とす、この日
は梵王帝釋國のまつりごとをみる。ものゝいのちをころすことをとゞむべしと。
 聖徳太子は、二歳の時、両手を合わせて「南無仏」と称えた。念仏を称えることは大事なこと
である。六歳の時、生き物の命を殺すことをやめようと決意した。生き物はむやみに殺してはい
けない。

 守屋の大連また皇を咒詛したてまつるといふこときこえなれりとなり。蘇我大臣言、太子武士
をひきゐて守屋の大連を追と。守屋また兵士をおこして城をつきふせぐ。□戰その軍こはくさか
りなり。御かたの兵士おそりおのゝきて三度しりぞきかへる。 〜 物部の守屋の大連、大なる
いちゐの木にのぼりて、物部の氏の大明神をいのりちかひて矢をはなつ。太子の御あぶみにあた
れり。太子また舍人は迹見の赤檮におをせて四天王にいのりて矢をはなたしむ。とほく守屋の連
がむねにあたりて、さかさまに木よりおちぬ。其軍みだれ破れぬ。せめゆきて守屋がかうべをき
りつ。家の内の資銭庄園をばみな寺のものとなして、玉造の岸の上に始て四天王寺をたつ。これ
より佛法彌さかりなり。
 日本に仏教が定着するには、戦争が避けられなかった。聖徳太子は戦争の最前線に立った。
 物部守屋は天皇を咒詛した。蘇我の馬子と共に物部守屋を攻めた。戦いは激戦を極め、味方の
兵士は恐怖して三度退却した。

567 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/23(日) 15:13:40.70 ID:icMr6EK9
 敵将の物部守屋が放った矢は聖徳太子の馬に当たった。聖徳太子は、これに怯まず、四天王に
祈って自ら矢を放った。守屋の胸に当たり、敵将を射止めた。首を取ると、物部守屋から財を奪
い、これによって四天王寺を建設した。
 正しいことを行うためには戦争が避けられないことがある。その時は堂々と戦え。社会を発展
させるには、敵の財は文化の建設に使おう。寺を建設することも重要なことだ。

「聖徳太子はどうしてもっと物部守屋と話し合いをしなかったのだろうか?話し合えば戦争は
起きない。戦争は人殺しだ。やってはいけない。戦争で死ねばみんな犬死にだ。物部守屋に譲る
べき所は譲ればよかったのだ。証拠はなくても20万人も拉致された相手が言えば心から何度で
も何度でもお詫びを、心からおわびして、聖徳太子も一人一人に賠償金を払えば戦争にならなか
ったのだ。命は大事だ。憲法9条を守りましょう」。
 親鸞には卑怯者の歎異抄の発想は存在しない。嘘は許さない。戦争するときには躊躇しない。
これが浄土真宗、親鸞聖人の教えである。

 太子推古天皇の御前にして、高座にのぼりて勝鬘經を講じたまふ。 〜 また太子、小野の妹
子を勅使とし 〜 法華經をこひてもて來れ、とのたまふ。妹子わたりゆきておしえにしたがひ
てもていたりぬ。
 聖徳太子は勝鬘經と法華経を大事にした。大無量寿経や観無量寿経ではない。勝鬘經と法華経
を大事にした。勝鬘經は十大受と三大願が説かれている。人が守るべき倫理道徳が説いてある。
 高速道路の料金を踏み倒してはいけないのだ。出会い系サイトで知り合った女子中学生を相手
に買春してはいけないのだ。講習会の受講者を殴っていけないのだ。日本刀を振り回したり、知
人女性を鉄パイプで殴ってはいけないのである(>>497)。一文不通で善も悪もわからないという
人に勝鬘經は善と悪を教えてくれている。法華経は観音菩薩の実践を説いている。一文不通で善
も悪もわからない浄土真宗の坊さんには、善悪を知るために必読の書というべきだろう。

568 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/23(日) 15:28:41.05 ID:icMr6EK9
 親鸞は子ども達に説いた。高速道路の料金を踏み倒さない人間になれ。女子中学生を買春しな
い人間になれ。講習会の受講者を殴らない人間になれ。知人女性を鉄パイプで殴らない人間にな
れ。観音菩薩の行を行う人間になれ。天皇を守り、国家を守り、必要なときには敢然と戦え。正
しい戦いは必ず四天王が守ってくれる。死を恐れずに戦う人になれ。親鸞は聖徳太子の話を通じ、
関東武士の子ども達に人としてあるべき道徳的理想を教えた。

 太子いかるがの宮の寢殿のかたはらに舍をつくりて夢殿となづく。 〜 またこの中に入てゥ
經の疏を製たまふ。あるいは七日七夜出たまわず、戸をとぢておともしたまはず。高麗の惠慈法
師の云く、太子三昧定に入たまへり、おどろかしたてまつることなかれと。八日といふ朝に出た
まへり。

 聖徳太子は夢殿を建て、経典の研究と共に禅定を行っていた。親鸞は、子ども達に文字を教え
ながら、聖徳太子のような人になれと教えていたのだ。

 太子御后妃柏手の氏かたはらに候。太子語てのたまはく、君吾こゝろのごとし、ひとつのこと
もたがわず、さいわひなり、吾死なむ日は穴をおなじくしてともにうづむべしとなり。
 聖徳太子は、死んだときには后妃と共に同じ墓所に入ろうと言っていた。

 太子いかるがの宮にましまして妃を語たまひて沐浴し、頭をあらはせ、淨衣をきせしめたまふ
て、我今夜ともに去とのたまひ、床をならべて臥たまひぬ。あくる朝に久しくおきたまはず。人
々大殿の戸をひらひてみるに、ともにかくれたまひにけり。御貌はもとのごとし。
 聖徳太子は太子妃と同じ日に同時に亡くなった。 (つづく)

569 :神も仏も名無しさん:2014/03/24(月) 11:12:16.61 ID:eMray82Z
何が善で何が悪か?煩悩にとらわれた人間が判断しても限界がありそもそも
自己満足のマスターベーションに過ぎない。
過去からの業縁を断ち切りがたい人間は高速道路の料金を踏み倒すこと、
出会い系サイトで知り合った女子中学生を相手にフラフラと買春すること、
講習会の受講者を一時の指導のいきすぎで殴ることも、また日本刀を振り回したり、
知人女性を鉄パイプで殴ることもあるだろう。そしてそれは個人が社会的に罰を受ける。
当たり前のことではないか?
親鸞が問題にしているのは断ち切りがたい悪縁を唯本願念佛の力にすべて
ゆだねる、そのことだろ。
諸行を積んで往生の業になると言うなら本願を理解しないばかりか、人間に対する深い洞察も
無いことになる。
「助かりたい念佛」から「ありがたい念佛への」意味もまったく貴殿は理解しておらない。

>天皇を守り、国家を守り、必要なときには敢然と戦え。正
>しい戦いは必ず四天王が守ってくれる。死を恐れずに戦う人になれ。親鸞は聖徳太子の話を通じ、
>関東武士の子ども達に人としてあるべき道徳的理想を教えた。

どこに上のような著作があるのか?
旧来の体制を根本的に覆すパラダイムの大転換が日本の浄土教ではないか?
それゆえに徹底的な弾圧を受けたわけだ、そしてやがて体制と融和して体制を維持する
道具として江戸時代からは機能してきたのが教団の歴史じゃろ。

570 :神も仏も名無しさん:2014/03/24(月) 11:27:36.26 ID:eMray82Z
とにかく
往生の業と一般社会生活の話をごっちゃにして理解してはダメだよ。
誤解の内容に言うと善因善果は社会生活に関しては大体そうなる。
というぐらいのことで往生の業とは関連させてはいけない。

往生の業は「唯念仏して」と言うことに尽きる。
社会生活では、
公園のごみを拾ってゴミ箱へ捨てましょう、
電車の中ではハンデのある人に席を譲りましょう、
しっかり勉強して謝意の役に立つ人間になりましょう、
年寄りには親切にしましょう、
と言うことだわなw

571 :神も仏も名無しさん:2014/03/24(月) 11:30:25.29 ID:eMray82Z
>>570

訂正

× 誤解の内容に
○誤解の無いよう

×謝意の役
○社会の役

572 :神も仏も名無しさん:2014/03/24(月) 11:34:09.90 ID:eMray82Z
聖徳太子について

親鸞は七高僧とはべつに聖徳太子を特段高く慕っていた。
それはあたりまえだ。
聖徳太子には子供がいるから、在家仏教の創始者としても親しみがあったのであろう。
それぐらいで十分。

573 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/24(月) 13:43:00.80 ID:AurC5+R6
「上宮太子御記伝」は、現在では事実上忘れられた文書である。聖徳太子は物部守
屋を殺した殺人犯である。 四天王を祈って迷信を信じる外道である。他力を知らな
い自力である。物部守屋に謝罪と賠償をしない戦争犯罪人である。他人の財物を奪っ
た強盗である。東条英機、ヒットラーと並ぶ戦争犯罪人である。

 本願寺コミンテルンにとっては、「上宮太子御記伝」は、誠に都合の悪い書だ。親
鸞には、コミンテルンが鼻をつまみたくなる書が山のようにある。コミンテルンが百
年近く支配してきた本願寺に「上宮太子御記伝」が復活することはない。本願寺の坊
さんが「上宮太子御記伝」を必死になって真剣に読むことは決してないだろう。本願
寺に浄土真宗が戻ることは考えられない。今となってはコミンテルンに息の根を止め
られた親鸞聖人が、実は昔、社会の支配層となる関東武士の子ども達に、念仏抜きの
話として是非伝えたいと思っていたと思える重要な話が書かれている。

 太子難波より都にかへりたまふ。片岳山の道の邊に餓たる人臥せり。のりたまへる
K駒あゆまずして止る。太子馬よりおりてかたらひたまふ。紫の上の御衣をぬぎてお
ほゐたまふ。即歌を詠じてのたまはく、

 しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひ
と)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君(きみ)はや無
(な)き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ と。

 餓たる人頭をもちあげて御返歌をたてまつる。

 斑鳩(いかるが)の とみの小川の 断(た)へばこそ わが大君(おおきみ)の
 御名(みな)は忘(わす)れめ

574 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/24(月) 13:44:50.71 ID:AurC5+R6
太子宮にかへりたまひてののち此人死にけり。太子かなしみたまひて葬せしめたまふ。

 聖徳太子が大阪から飛鳥の都に戻る途中、片岡山で飢え死にしそうになっている人
に出会う。聖徳太子は馬を止める。食べるものを持っていれば与えたのだろうが、あ
いにく持ち合わせがない。その人が病気なら食べることもできなかったろうと思う。
その日は寒い日だったのか、あるいは熱をだしていた人だったのか、聖徳太子は着て
いた紫の衣を脱いでその人に着せた。

 片岡山で、食物に飢えて倒れている旅人はかわいそうだ。お前は親無しで育ったの
か。優しい恋人はいないのか。食物に飢えて倒れている旅人はかわいそうだ。
 シナテルは片岡山にかかる枕詞。 〜 万葉集に「上宮聖徳皇子、竹原井に出遊の
時、竜田山で死人を見、悲傷した御歌、家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥(こや)
せるこの旅人あはれ」とある(古典文学大系)。

 このように言うと、飢え死にしそうな人は頭を持ち上げて歌を返す。

 斑鳩に流れている水の豊かな小川の水が仮に涸れることがあっても、今日、この日
の優しい殿下の名は決して忘れません。
 本願寺のコミンテルンが読めば卒倒したくなる内容だろう。

 聖徳太子が宮殿に帰ると、その人は亡くなった。聖徳太子は其の人を葬った。
 実はこの後日談がある。日本書紀にも書いてあるのだが、聖徳太子がその人をわざ
わざ葬ったことに宮廷の周りの人々が不平を言う。聖徳太子は、その人々に、墓を見
てこいという。人々が見に行くと奇跡が起きていた。墓はもぬけの殻だったという。
子ども達が興味を引くためだろう、親鸞も書いている。

 大事なことはここで親鸞が言いたかったことだ。それは、新たな新興勢力として武
士が日本を支配する時代になった。日本を支配するとはどういうことか。親鸞はここ
で〔領(し)らす/知らす〕という日本的統治構造を教えている。それは、領(うし
は)くではないぞ。領(し)らすということだ、と教えていると見るべきだろう。

575 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/24(月) 13:45:28.91 ID:AurC5+R6
太子宮にかへりたまひてののち此人死にけり。太子かなしみたまひて葬せしめたまふ。

 聖徳太子が大阪から飛鳥の都に戻る途中、片岡山で飢え死にしそうになっている人
に出会う。聖徳太子は馬を止める。食べるものを持っていれば与えたのだろうが、あ
いにく持ち合わせがない。その人が病気なら食べることもできなかったろうと思う。
その日は寒い日だったのか、あるいは熱をだしていた人だったのか、聖徳太子は着て
いた紫の衣を脱いでその人に着せた。

 片岡山で、食物に飢えて倒れている旅人はかわいそうだ。お前は親無しで育ったの
か。優しい恋人はいないのか。食物に飢えて倒れている旅人はかわいそうだ。
 シナテルは片岡山にかかる枕詞。 〜 万葉集に「上宮聖徳皇子、竹原井に出遊の
時、竜田山で死人を見、悲傷した御歌、家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥(こや)
せるこの旅人あはれ」とある(古典文学大系)。

 このように言うと、飢え死にしそうな人は頭を持ち上げて歌を返す。

 斑鳩に流れている水の豊かな小川の水が仮に涸れることがあっても、今日、この日
の優しい殿下の名は決して忘れません。
 本願寺のコミンテルンが読めば卒倒したくなる内容だろう。

 聖徳太子が宮殿に帰ると、その人は亡くなった。聖徳太子は其の人を葬った。
 実はこの後日談がある。日本書紀にも書いてあるのだが、聖徳太子がその人をわざ
わざ葬ったことに宮廷の周りの人々が不平を言う。聖徳太子は、その人々に、墓を見
てこいという。人々が見に行くと奇跡が起きていた。墓はもぬけの殻だったという。
子ども達が興味を引くためだろう、親鸞も書いている。

 大事なことはここで親鸞が言いたかったことだ。それは、新たな新興勢力として武
士が日本を支配する時代になった。日本を支配するとはどういうことか。親鸞はここ
で〔領(し)らす/知らす〕という日本的統治構造を教えている。それは、領(うし
は)くではないぞ。領(し)らすということだ、と教えていると見るべきだろう。

576 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/24(月) 14:08:49.66 ID:AurC5+R6
 大人には念仏だけ教えればいい。しかし、子ども達には倫理道徳から教える必要が
ある。親鸞は今後、日本を背負っていく武士の子ども達に、統治者としての領(し)
らすというありかたを教えていたと考える。

 「上宮太子御記伝」は、これとほとんど全く同じ内容で、親鸞は大日本国粟散王聖
徳太子奉賛という114首の和讃を書いている。親鸞が聖徳太子の話をいかに重視し
ていたかよくわかる。

 親鸞という人は、エッチがしたくて我慢ができず、それなら還俗すればいいものを、
還俗しないで、坊さんのまま何度もエッチして、たくさん子どもを作りました。エッ
チができてよかったね、などと、歎異抄コミンテルンの馬鹿どもが言うそんな人物で
はない。

 専光寺文書は親鸞の実像からその真意を読み取っていかなければならない
      (つづく)

577 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/24(月) 16:12:00.37 ID:AurC5+R6
ひとつ飛ばしてしまいました。
>>575>>576の間に以下の文が入ります。

 大国主尊が支配する出雲の国が大和朝廷に服属するとき使者のアメノトリフネが大
国主に言う。「汝(いまし)が領(うしは)ける葦原の中つ国は我が御子の領(し)
らす国ぞと」(古事記)
 大国主尊よ。いま貴方が領(うしは)く(統治する)出雲の国は、もともとスサノ
オ命が切り開いた葦原の中つ国であり、そこは我が天孫族の領(し)らす(統治する)
国の一部である。このとき、出雲の国は大和朝廷に戦火を交えずに国譲りされた。

 領(うしは)くとは、うし(大人)として領有するという意味だ。排他的独占的に
専政支配するという意味だ。しかし、領(し)らすとは、知るの尊敬語である。ご存
知になるということである。情報センターになるということだろう。大和朝廷の支配
とは、天皇が情報センターになるということだ。

 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号(なづ)けたてまつりて神
日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰(ま
う)す(日本書紀)
 日本初代のしらす天皇を神武天皇という。神武天皇は日本初代のしらす天皇である
という。

 しらす天皇とはなにか。東日本大震災の折、天皇皇后両陛下は直ちに被災地に赴か
れ、避難所で苦労している人々の中に割って入り、床に膝を折り、被災民と同じ目線
で必死に被災民の話を聞いておられた。国民はテレビを通し、しらす天皇を目の当た
りに見た。そして天皇皇后両陛下の姿に感動した。あのような国王は世界において、
日本以外にはない。あれが、天皇の原点であり、知らすということだろう。
 しらすとは、御認識になるということだ。心を砕き、真剣に情報に耳を傾ける。当時、
避難所に来ても菅総理は立ったまま素通りしていっただけだと言って、批判を浴びた。
 聖徳太子は、片岡山で、一人の飢えた人に必死に心を砕いて話を聞き、哀れんだ。
これが領(し)らすということだろう。

578 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/24(月) 17:05:35.27 ID:AurC5+R6
>>569
>天皇を守り、国家を守り、必要なときには敢然と戦え。正しい戦いは必ず四天王が守ってくれ
る。死を恐れずに戦う人になれ。親鸞は聖徳太子の話を通じ、関東武士の子ども達に人としてあ
るべき道徳的理想を教えた。

どこに上のような著作があるのか?

 守屋の大連また皇を咒詛したてまつるといふこときこえなれりとなり。蘇我大臣言、太子武士
をひきゐて守屋の大連を追と。
 守屋の大連は天皇を咒詛しているらしいという噂が伝わった。蘇我馬子左大臣は聖徳太子に言
う。兵隊を引率して守屋の大連を追撃してください。

じゅ【呪】
1 のろう。のろい。「呪詛(じゅそ)」
2 まじなう。まじない。「呪術・呪文(じゅもん)」 [補説]「咒」は異体字。
そ【詛】
[訓]のろう のろう。のろい。「呪詛(じゅそ)」
のろい
のろい【呪い】
相手に災いがふりかかるように神仏に祈ること。

 守屋また兵士をおこして城をつきふせぐ。□(文字不明)戰その軍こはくさかりなり。御かた
の兵士おそりおのゝきて三度しりぞきかへる。
 物部守屋は私兵を組織して城壁を閉鎖して防護する。戦いは激しく、味方の兵隊は隊が崩
れて三度退却した。

579 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/24(月) 17:07:02.56 ID:AurC5+R6
 守屋の連ことさらに つわものをおこして城をつき 群兵こわくさかりにて 御かたのいくさ
さわがしく(和讃)
 守屋の連は計画的に兵隊を組織して城固めした。守屋軍は頑強で聖徳太子軍は劣勢だった。

 おぢおののきてみたびまで しりぞきかへりそのときに 令旨をことにくだされて 軍兵こわくさかりなり
 劣勢の味方は三度退却した。聖徳太子は軍令を発した。これにより聖徳太子軍は劣勢を挽回し
た。

 秦の川勝にめいじてぞ 白膠木(ヌルデノキナリ)をとらしめて 四王の像をきざみつつ も
とどりにさしほこにささぐ
 秦の川勝にヌルデノキをとりよさせ、急いで四天王の像を彫ると、髪に差し込み、矛にもつなげた

願をおこしてのたまはく わがたたかひをかたしめよ 四天王を増置して 寺塔をたてむと令旨あり
 聖徳太子は四天王に願を立てる。この戦いに勝たせてほしい。そうすれば四天王を祀る四天王寺
を建てるという命令を発した。

令旨
 皇太子・三后の命令を書き記した文書。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/%E4%BB%A4%E6%97%A8/m0u/

580 :神も仏も名無しさん:2014/03/25(火) 10:14:32.93 ID:GHY378hr
親鸞思想と聖徳太子礼讃は本来違和感アリなんだよ、

581 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/25(火) 15:47:53.29 ID:wCcAwQMe
>>580
> 親鸞思想と聖徳太子礼讃は本来違和感アリなんだよ、

 実際には、聖徳太子礼讃は親鸞思想の不可欠の柱であり、
親鸞思想の基盤であり、聖徳太子礼讃がなかったら、親鸞
思想など、空中楼閣になるんだ。

 違和感があると感じたなら、親鸞思想に共鳴するか、拒否
するかという最終判断の前に、自分たちが認識している親鸞
理解に対して、謙虚に根本から疑問符をつけてほしいんだよね。

582 :神も仏も名無しさん:2014/03/25(火) 18:19:47.84 ID:0zjZmSKP
親鸞における太子信仰については多くの研究がある。
試しにCiNiiで“親鸞”、“太子”で検索してみると・・・

http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E5%A4%AA%E5%AD%90%E3%80%80%E8%A6%AA%E9%B8%9E&range=0&count=20&sortorder=1&type=0

昔からいろいろな議論があるし、今もそれは続いているんだな。
論文を取り寄せてまで読もうとは思わないけど、ネット上で
読めるものは目を通しておこうかな。

583 :神も仏も名無しさん:2014/03/26(水) 09:47:48.64 ID:a07fAoPL
学問として研究した結果は、下のようなHPを参考にして

http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/755438beeb9e5dbb359ae6c63a9c0db3

太子和讃については、親鸞自筆のものがなく、親鸞の高弟である真仏の写本にしても、
「愚禿親鸞」という署名部分は「後の書き入れの可能性」があると見ます。また、和讃自体も、
漢文の誤読や親鸞の主著に見える語法との違いが目立つとします。
特に「和国教主聖徳皇……奉讃不退ならしめよ」という有名な和讃で始まる
『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』が、直接体験を示す過去の助動詞「き」をきわだって多用し、
しかも「動詞+り+き」という語法を13回も用いているのは、親鸞とは別人である
「作者の癖」ではないかと推測するのです。

584 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/26(水) 12:02:50.55 ID:zBAq4jkc
>>583
>親鸞とは別人である「作者の癖」ではないかと推測するのです。

 おもしろい考えですね。「聖徳太子奉讃」・「上宮太子御記」などがどういう理由で書かれたの
かを考えていくと、親鸞の真筆本が存在しないことは何の理由にもならないことが見えてくるで
しょう。文体に親鸞の癖とは違う人の癖が含まれていたら、いったいどういう意味があると言うの
ですか?

 例えば、「上宮太子御記」は、現在まで二つが伝わっています。本派本願寺蔵徳治二年覚如写
本と東寺観智院蔵文永十年写本です。徳治二年は1307年、文永十年は1273年です。東寺
本の方が古いんです。しかし、本願寺本には「正嘉元年丁丑五月十一日書写之 愚禿親鸞 八十
五歳」「以彼真筆草本 弘安六季八月三日 釈 寂忍 二十五歳」と書いてあります。正嘉元年
は1257年、弘安六年は1283年です。

 両者は、冒頭から「てにをは」に著しい相違があります。本願寺蔵本は「釈迦の正覚成たまひ
し日より・・・」と始まります。東寺本は「釈迦の御のり正覚成たまひし成就の日より・・・」
と始まります。複写機で電気光学的に複写するわけではありませんから複写は当然、同一にはな
りません。書写する人の主観も入ってくるでしょう。
 本願寺本と東寺本とに見られる相違とほぼ同程度のスケールの相違が、実は親鸞の原本と本願
寺本(覚如写本)との間にあるかもしれません。しかし、「上宮太子御記」に親鸞が係わってい
ることは間違いないでしょう。

 経典の場合、文面の同一性は非常に管理されています。選択集などは、書写を許されるという
だけで大変な名誉だったようです。しかし、「聖徳太子奉讃」・「上宮太子御記」などは、そのよ
うな厳格性はなかったでしょう。実はそこも、親鸞における聖徳太子論の重要な論点になります。
 本願寺蔵本は、「書写之 愚禿親鸞」という文字を残してくれてくれていましたから、親鸞自
身がこれに直接関わっていたことがわかります。もし、その文字を残してくれてくれていなけれ
ば、親鸞における聖徳太子に対する見方は全く分からなかったわけです。歎異抄しか見えていな
いコミンテルンなどは、「上宮太子御記」に親鸞が係わっていたなどという説は死んでも絶対に
受け入れなかったでしょう。

585 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/26(水) 12:05:12.25 ID:zBAq4jkc
 「聖徳太子奉讃」と「上宮太子御記」とは、ほとんど同じ内容が書かれています。仮に、「聖
徳太子奉讃」が親鸞の知らないところで別人によって作られていたとしても、「聖徳太子奉讃」
を書いた人は「上宮太子御記」を当然読んでいたでしょう。そして、親鸞が「上宮太子御記」を
非常に重視していたという認識も持っていたことでしょう。
 「聖徳太子奉讃」が仮に親鸞以外の人の作としても、その中の記載事項は、親鸞思想にとって
きわめて重要なものであるという認識が、少なくとも「聖徳太子奉讃」が書かれた時代にはあっ
たというべきです。
 我々は、この「聖徳太子奉讃」と「上宮太子御記」を読んで始めて、専光寺文書の真意に触れ、
親鸞が何故に法然の下に走ったのか。なぜ生涯をかけて念仏を説いたのか、親鸞の熱情が伝わっ
てくるのです。
 親鸞の根本思想、悪人正機に洗脳されていない親鸞の一生が、俯瞰的に目の当たりに見えてく
る。それは、エッチがしたいから比叡山を抜け出しました。親鸞さん、人はみんな落ちこぼれ、
エッチができてよかったねという、ノータリンコミンテルンの侮辱的中傷的親鸞論を根こそぎ書
き換える驚天動地の大転換が見られるのです。ノータリンコミンテルンは聖人誹謗の罪で地獄に墜
ちろと僕は言いたいです。

586 :神も仏も名無しさん:2014/03/26(水) 12:39:07.96 ID:8+cCahSG
>>584
ひょっとして東寺観智院蔵文永十年写本とは、『三宝絵詞』の
ことをおっしゃっているのですか?
『三宝絵詞』と『上宮太子御記』を同一のものとして考えるのは
いくら何でもまずいのでは・・・

『三宝絵詞』についてはこちらをどうぞ
永観二年(984)に編纂されたものですね。
http://www.emuseum.jp/detail/100172/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=65&num=6

587 :神も仏も名無しさん:2014/03/26(水) 13:28:20.26 ID:8+cCahSG
>>584
橋川正氏は『上宮太子御記の研究』において、『三宝絵詞』の
聖徳太子伝と『上宮太子御記』を対比しながら両書が酷似して
いることを指摘されています。

近代デジタルライブラリー
『上宮太子御記の研究』 橋川正 著
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943748/1

588 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/26(水) 14:39:34.60 ID:zBAq4jkc
 『上宮太子御記』と『三宝絵詞』の聖徳太子伝とは、酷似していることが分かってよかったです
ね。少なくともルーツは同じでしょう。

 『上宮太子御記』には親鸞写本がある。

 『上宮太子御記』の親鸞写本には、専光寺文書と同一の文面部がある。

 『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』について、真宗遺文纂要( 明和元年(1764年)刊)に
「愚禿親鸞作」と書かれているそうです。徳川時代、少なくとも1764年頃、『大日本国粟散
王聖徳太子奉讃』は、親鸞が作ったと信じられていたようです。

 上宮太子御記、聖徳太子奉讃が親鸞思想の一部であると仮定すると、どのようなことが見えてく
るか。専光寺文書をきっかけに読んでみたいと思います。

 「親鸞さん。女とエッチができてよかったね」などと、人を馬鹿にして聖人を誹謗中傷する本願
寺真宗学は地獄の底に真っ逆さまに堕ちていくでしょう。

589 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/26(水) 15:00:05.83 ID:zBAq4jkc
 東寺は、真言宗立川流の中核寺院だった。

 親鸞が書いたと思われる「上宮太子御記」とルーツが同一の文面が東寺の古文書に残っている。

 御伝抄の夢告とほとんど同じ文面が、真言宗立川流の古文書である覚禅抄の中にある。

 浄土真宗の僧侶は妻帯ができる。

 いずれも偶然とは思えません。今は論じようと思いませんが、地下でつながっている浄土真宗と真言
宗立川流との密接な関係が浮かんできます。

590 :神も仏も名無しさん:2014/03/26(水) 16:46:44.76 ID:8+cCahSG
>>589
まさか『三宝絵詞』が東寺観智院にのみ伝わっていると
思っているわけじゃないだろうな・・・
もう少し自分の言及している資料がどのようなものか
ちゃんと調べてみたら良いのに。

それと専光寺文書って何なんだろう?
ネット検索しても『金沢専光寺文書』しか出てこない。
専光寺は覚如の弟子の志念を開基とする寺だけど、
親鸞の真筆資料って伝わっていたっけ?
ひょっとして『専修寺文書』???

591 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/26(水) 18:19:27.00 ID:zBAq4jkc
>>590
>まさか『三宝絵詞』が東寺観智院にのみ伝わっていると思っているわけじゃないだろうな・・・

 三宝絵詞はその写本が現存するだけで、しかも極めて類本の少ないものである。現に知られて
ゐるものは、京都東寺観智院蔵の三冊本と、前田侯爵家に伝わる三冊本とである。 〜 さてこの
二本について、前田侯爵家所蔵蔵本は醍醐から出たもので、中川忠順氏が「山城醍醐寺の塔中に釈
迦院と云へるあり、 〜 といはるるに当たるもので、山田孝雄氏はこの本を以て草案本とし、はじ
めて真名書きであったのを、清書の際かな交じりに改めたものであるといふ。この草案本に対して清書
本の系統に属するものが即ち観知院本であって、先に国宝に指定されたものである。
(上宮太子御記の研究)

 醍醐寺
 立川流 (密教)
観蓮、寂乗、観照という3名の僧と出会った仁寛は、彼らに醍醐三宝院流の奥義を伝授した。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)

人に聞く前に、自分で研究したらどうだ?

『金沢専光寺文書』
 三骨一廟文
  金沢専光寺蔵伝 宗祖真筆本

592 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/03/26(水) 18:22:48.84 ID:zBAq4jkc
 完全に時間オーバーだ。

  数日間カキコ不能

593 :神も仏も名無しさん:2014/03/26(水) 18:57:41.28 ID:8+cCahSG
>>591
橋川正著『上宮太子御記の研究』は大正時代の研究なんだな。

『三宝絵詞』には、以下の三種類がある。
今でも様々な研究がなされている。

1.東大寺切(漢字交じり平仮名文)
2.東寺観智院本(漢字仮名交じり文)
3.前田家本(和化漢文)

前田家本の親本は醍醐寺に伝わってきたものであることが
知られている。

594 :神も仏も名無しさん:2014/03/26(水) 19:03:20.77 ID:8+cCahSG
>>591
『上宮太子御記』の伝本の流れが醍醐寺の流れとする根拠は?
『三宝絵詞』と『上宮太子御記』を同一視されていたようですから
やっぱり自分の直感ですか???

595 :神も仏も名無しさん:2014/03/26(水) 23:11:11.34 ID:8+cCahSG
>>591
>『金沢専光寺文書』
> 三骨一廟文
> 金沢専光寺蔵伝 宗祖真筆本

??????????????

596 :神も仏も名無しさん:2014/03/27(木) 01:45:38.77 ID:CujyXPCK
>>595
http://jyorenji.jp/topic/121031.html   末尾

597 :神も仏も名無しさん:2014/03/27(木) 02:10:19.63 ID:3/7tykeS
>>591
金沢専光寺に伝わる『三骨一廟文』は『太子廟窟偈』の
抄出ですよね。
中世日本における聖徳太子信仰を調べる点でも、また
親鸞の太子信仰を示す資料としても重要なものであると
思います。
少なくとも親鸞が『太子廟窟偈』を知っていたことが
『上宮太子御記』と『三骨一廟文』によってわかります。

でも寺子屋で『上宮太子御記』を使用していたというのはなぁ。
それだったらもう少し他の写本なり、親鸞の著作への引用が
あってもおかしくないのでは?
『上宮太子御記』も親鸞真蹟本は存在しないしなぁ。
本願寺が焚書しちゃったとか?

598 :神も仏も名無しさん:2014/03/27(木) 02:11:02.01 ID:CujyXPCK
>>595
『金沢専光寺文書』 三骨一廟文 金沢専光寺蔵伝 宗祖真筆本
https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-cb3ph6wqdkuz7vvjik3t23r3q4-1001&uniqid=290e7dda-8f7b-49f6-8da3-8ba24d5132fd&viewtype=detail
https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-cb3ph6wqdkuz7vvjik3t23r3q4-1001&uniqid=32c6433b-6ac7-4c72-9116-c895a48eade0&viewtype=detail

599 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/27(木) 19:30:48.05 ID:CujyXPCK
http://livedoor.blogimg.jp/chrysalises/imgs/4/c/4cfb580f.jpg

高木正雄
  朴正煕 元大韓民国大統領

 現韓国大統領の父上であり、韓国発展の父、日本の援助で漢口の奇跡を
達成した韓国の事実上の建国の父だ。

600 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/03/27(木) 19:31:46.20 ID:CujyXPCK
>>599
誤爆です。 

601 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/01(火) 14:13:29.67 ID:kA781X74
大慈大悲は誓願の本、衆生を愍念すること一子の如し。
この故に方便して西方より片州に誕生し、正法を興す。
我が身は救世觀世音なり。定慧を契る女は大勢至なり。
我身を生育せる大悲の母は、西方ヘ主彌陀尊なり
眞如と眞實の本は一體なり。一体を三同の一身に現ず。
片城の化縁、また既に尽き、西方我淨土に還歸す。
末世のゥの有情を度し、父母所生の血肉身を勝地に遺留し、
この廟崛を三骨一廟の三尊位とす。過去七佛の法輪せる處、
大乘相應の功コ地なり。一度參詣すれば惡趣を離れ、
決定して極樂界に往生す。印度にて勝鬘夫人と號し、
晨旦では惠思禪師と稱えり。

 太子廟窟偈の重要部の全文を抜き書きしました。僕は漢文の専門家ではない。訓読には多少
の間違いがあるかも知れませんが、概ね正しいと思います。
 親鸞はこの中の一部をさらに抜き出して専光寺に残しています。最も重要なのは専光寺文書で
すが、親鸞の真意は原文の本来の意味から理解していく必要があります。親鸞が原文のどこを省
いてどこを選んだのか。専光寺文書で捨てたところと拾った所の差から、親鸞が元の文を換骨奪胎
したところを見極め、親鸞の主張を新たに掘り起こしていくという作業をします。

 親鸞は比叡山を出て吉水に向かった。親鸞は、真言宗立川流の東寺には向かわなかった。醍
醐寺にも向かわなかった。法然の下に走った。エッチをして即身成仏に至ろうとする立川に、なぜ走
らなかったのか。親鸞は、還俗しない僧としてエッチはしたくないと思っていたのか。本願寺のコミンテ
ルンの主張は間違いなのか。

 親鸞の最大の謎を解く浄土真宗史上で最初で最後の解説文になるでしょう。以後、浄土真宗がこの
問題に触れることは永遠にない。浄土真宗は、渡海難が死ねば、その瞬間に消滅するでしょう。

602 :渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/03(木) 13:54:10.31 ID:E+dX+a59
聖徳太子(574年〜622年)
 用明天皇第二皇子、厩戸皇子(ウマヤドノミコ)、あるいは厩戸王、
  上宮太子ともいう。
 母親 穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)
 配偶者 膳部大郎女(カシワデノホキキミノイラツメ) 外3名
 役職 皇太子
 墳墓 磯長廟(叡福寺北古墳)

 太子廟窟偈は聖徳太子が作ったと言う伝説もあるようだが、実際は後生の人が聖徳太子に仮託
して作ったものと解する。聖徳太子に浄土信仰があったとは考えにくい。 
 大慈大悲は誓願の本、衆生を愍念すること一子の如し。人は精神と肉体を具備する。肉体が滅
びれば人は死ぬ。つまり人ではなくなる。これはギリシャに発する哲学だ。インドではそのよう
には考えない。人は意思と行動からなる。意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変われば、
古い人格は死に、新しい人格が誕生する。死があり、生がある。
 哲人達が信念として抱く意思を誓願という。哲人達の誓願つまり意思は、その背景に大慈大悲
の心がある。慈は苦しみを抜こうという思いであり、悲は楽を与えようという思いである。人々
から苦しみを抜こう、人々に楽を与えよう、哲人達はそのように思って行動を起こす。哲人達の
行動は具体的である。彼らは抽象的、観念的な救いを求めるのではない。一人一人に目線を配り、
現実の人が一人一人が具体的な場で具体的に苦しみが抜かれ、楽が与えられていくことを実現す
る。
 この故に方便して西方より片州に誕生し、正法を興す。聖徳太子は、西方から片州に誕生して
きた。同一の意思をもって同一の行動を起こす者は同一の人格である。聖徳太子は、極楽浄土の
理想をこの日本で実現することを目指した。
 我が身は救世観世音なり。聖徳太子は、救世観世音菩薩と同一の意思をもって、救世観世音菩
薩と同一の行動を起こし、観世音菩薩と同一の人格をもって仏法を実現した。
 定慧を契る女は大勢至なり。聖徳太子は膳部大郎女と結ばれた。聖徳太子は、意思と行動を実
現するに当たり、禅定の実践を自己の基盤に置いた。その聖徳太子は、膳部大郎女から様々な智
慧を貰った。聖徳太子にとって膳部大郎女は、かけがえのない妻、様々な智慧を授ける智慧の菩
薩、大勢至菩薩その人だった。

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